橙色が笑う
ボールが床を叩く乾いた衝撃音、シューズが軋む鋭い摩擦音、チームメイト達の怒号にも似た声。白鳥沢学園バレー部専用体育館は、今日も変わらず熱気と闘争心に満ち満ちていた。最後の自主練まで、みっちりと身体を虐め抜き、汗で湿ったTシャツが肌に張り付く感覚も心地良い。牛島さんとのスパイクの打ち合いは未だ敵わないけど、確実に一歩ずつ、あの人の背中に近づいている。そんな確かな手応えが、清々しい疲労感と共に全身を駆け巡っていた。
「五色、お前、まだ残るのか?」
「いえ、白布さん! お先です!」
「……ふーん。さっさと帰って、ちゃんと飯食えよ、お前」
ぞんざいな言葉の中に、ほんの僅かな気遣いを滲ませる先輩に力強く挨拶し、俺は足早にフロアを出た。寮には戻らない。今日は、彼女と約束があるのだ。
苗字名前。俺と同じクラスで、俺の恋人。
その単語を脳内で反芻するだけで、練習で火照った身体に違う種類の熱が、胸の中心からじわりと広がる。心臓がドクンと一つ、大きく脈打った。いけない。落ち着け、俺。未来のエースたるもの、常に冷静沈着でなければ。
校門へと続く銀杏並木は夕陽を浴び、燃えるような黄金色に輝いていた。吐く息が白く見える程に冷え込み始めた、十月の終わりの空気を肺いっぱいに吸い込む。街はハロウィンとか云う異国の祭りで浮かれているらしいが、俺には関係ない。名前に逢える。それだけが重要だった。
待ち合わせ場所に指定された、門の少し手前、古びたレンガ造りの壁へ凭れ掛かるようにして、名前はそこに居た。西日の最後の光を身に受け、一枚の絵画みたいに佇んでいる。柔らかな髪が秋風に揺れていた。
俺の姿を認めると、夜の海底を思わせる深い双眸が、僅かに見開かれる。薄桃色の唇が、緩やかな弧を描いた。
「工くん」
「名前! 待たせた?」
駆け寄ると、ふわりと甘い香りがした。彼女が愛用しているシャンプーのフレーバーとは少し違う、もっと濃厚で、焼いた砂糖のような匂い。視線を巡らせると、彼女が着ているカーディガンの胸元に、カボチャの形を模した、橙色のブローチが留められていることに気づいた。フェルトで出来ている、手作りだろうか。細やかな特別感が、俺の恋心をどうしようもなく掻き乱す。
「ううん、今、迎えに来たところ。練習、お疲れ様」
「おう! 今日も絶好調だったぞ! 牛島さんを脅かすストレートを、何本も決めてやった!」
「そう。それは凄いね」
大袈裟に胸を張ると、名前は喉の奥で、くすくすと笑った。笑声が鼓膜を震わせるだけで、俺の単純な心は天にも昇る気持ちとなる。煽てに弱い自覚はあるが、名前に褒められるのは格別だ。彼女の言葉は、どんな栄養ドリンクよりも、俺の力になる。
二人で並び、苗字家のマンションへと向かう。夕闇が迫る町は、あちこちで橙色の光が灯り始めていた。ショーウィンドウには陽気な顔のジャック・オー・ランタンが連なり、カフェ店員は猫耳や悪魔の角を生やしている。普段は気にも留めない光景が、隣を歩く名前の存在によって、やけに色鮮やかに見えた。
「綺麗だね」
不意に、名前が足を止めて呟いた。彼女の視線の先には、花屋の店先に飾られた、大小様々なカボチャのランタンが在った。刳り抜かれた目や口から漏れる蝋燭の光源が、頼りなげに揺らめいている。オレンジ色の光彩が、名前の白い頬を照らし、影を落とす。一瞬の場景に、俺は息を呑んだ。綺麗だ、と思ったのは、ランタンのことなのか、彼女のことなのか。自分でも分からなかった。
苗字家のマンションは、要塞のような静けさに包まれている。苗字兄妹と管理人以外に住人が居ないと云うこの建物は、いつ来ても少しだけ緊張する。玄関で俺達を迎えたのは、名前の兄である、兄貴さんだった。
「やあ、工君、いらっしゃい。俺の、今日のTシャツはどうかな? 『推敲の森で遭難中』って書いてあるんだ。新作のアイデアも浮かばなくてね」
「あ、お邪魔します! カッコイイと思います!」
「そうだろう?」
満足気に笑う兄貴さんに続いてリビングへ入ると、名前の弟、弟がソファで本を読んでいた。俺に一瞥をくれると、ふい、とそっぽを向く。
「ちわっす、五色。また来たのかよ」
「弟、工くんに失礼だよ」
「別に。こいつが姉さんに相応しいか、常に見定めてるだけだし」
憎まれ口を叩きながらも、耳がほんのりと赤い。素直じゃないところは、誰に似たのだろう。
キッチンからは、校門で感じた甘い匂いが一層強く漂う。ダイニングテーブルの上には、カボチャをふんだんに使ったグラタンと、小さなカップに入ったプリンが並んでいた。全部、名前の手作りだ。
「凄いな、名前! どれも美味そうだ!」
「工くん、お腹が空いてるよね。さあ、座って」
四人での夕食は賑やかで、温かかった。俺が語るバレーの話を、兄貴さんは興味深そうに聞いてくれるし、弟は何だかんだ言いながら、俺の皿にグラタンを取り分けてくれる。そして、名前は静かに、そんな俺達を嬉しそうに眺めている。実家を離れ、寮で暮らす俺にとって、ここの食卓は第二の故郷みたいな温もりを感じさせた。
食事が終わり、兄貴さんと弟が「俺達は部屋で創作活動に勤しむから」「……邪魔しないでおいてやる」と絶妙なコンビネーションを披露し、リビングから退場した。俺と名前の二人だけが残され、静寂が訪れる。ローテーブルの上では、名前が休日に彫ったと云うジャック・オー・ランタンが、仄かな炎を宿していた。
突然、名前が改まった声で、俺の名前を呼んだ。
「工くん」
真剣な響きに、俺は思わず背筋を伸ばす。なんだ? 何か、大事な話だろうか。
名前は悪戯っぽく双眸を細めると、呪文を唱えるかのように、はっきりと発声した。
「トリック・オア・トリート」
――しまった。
言葉の意図を理解した瞬間、俺の思考は活発に動き出した。ハロウィン。お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ。テレビで観たことがある。そうだ、今日は十月三十一日。町が浮かれていた理由。名前がカボチャのブローチを付けていた意味。全てが一本の線で繋がった。
それなのに、俺は。バレーの事と、名前に逢える喜びで頭がいっぱいで、大事なことをすっかり、綺麗に忘れ去っていた。
未来のエースたる俺が、恋人からのこんなにも分かり易いサインを見逃すなんて。一生の不覚だ。
「お菓子、ないの?」
小首を傾げる名前。その仕種が、追い詰められた心臓にぐさりと突き刺さる。何か。何か、お菓子になるようなものは持ってないか。ポケットを探るが、入っているのは汗臭いハンドタオルと、寮室の鍵だけだ。
絶望に打ちひしがれる俺を見て、名前はふふ、と短く笑った。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「それじゃあ、」
一歩、また一歩と、名前が近づく。ジャック・オー・ランタンの橙色の明かりが、彼女の背後から差し込み、輪郭を曖昧に縁取っていた。
「悪戯、だね」
囁きは甘い毒のように、俺の鼓膜を溶かした。
わたしの言葉に、工くんの大きな身体が石像みたいに硬直した。驚きと焦りと、微かな期待。くるくると変わる表情は、どんな本や映画より、わたしの心を惹き付けて止まない。本当に分かり易くて、愛おしい男の子。
わたしはそっと、工くんの正面に立つ。部屋の照明は、気を利かせた兄さんがいつの間にか消してくれた。ローテーブルの上、手製の不格好なジャック・オー・ランタンだけが、頼りなげにオレンジ色の輝きを放っている。
その火元が、工くんの凛々しい眉や、真っ直ぐに切り揃えられた黒髪を柔らかく照らし出していた。試合に臨む時の、全てを射抜く鋭い眼差しはどこへやら、今は戸惑う仔犬のような瞳で、わたしを見下ろしている。頭の天辺、数本の元気な髪糸がぴょこんと揺れて、思わず笑みが零れた。
「悪戯、だよ」
再び囁き、工くんの頬に手を添える。厳しい練習を終えたばかりのような、些か汗ばんだ肌の熱が、冷たい指先にじんわりと伝わった。心音が、彼に聞こえそうな程の速さで脈打っている。
背伸びをして、工くんの唇に、自分のそれを重ねた。触れるだけの優しい口づけ。南瓜プリンの甘い残り香が、彼の匂いと混じり合った。
次第に顔を離すと、工くんは耳まで真っ赤にして俯いた。まるで熟した果実のようだ。コートの上では誰よりも強気で、自信に満ち溢れているのに、わたしとのこう云う時間では、途端に不器用で純粋な一面を見せる。そのギャップが堪らなく好きだった。
工くんの世界はきっと、凄く単純なのだと思う。白か黒か、勝ちか負けか、そう云う明確なもので出来ている。けれど、わたしと居る時の彼は、更に沢山の色で満たされる。驚きの赤、照れの桃色、喜びの金色。今、わたし達を包み込んでいる、温かい橙色。
幼い頃は病弱で、自分だけの静かな宇宙に閉じ籠もっていたわたしにとって、工くんは眩し過ぎる太陽だった。彼の存在が、モノクロームの日常に鮮やかな光と色彩を与えてくれた。
「橙色が笑っているみたい」
ぽつりと呟いた感想は、自分でも意図しないものだった。工くんが「え? 何がだ?」と不思議そうに顔を上げる。戸惑った表情がまた愛おしくて、わたしは首を横に振った。
「ううん、何でもない」
わたしは笑って、工くんの大きな手に、自らの手指を絡ませた。バレーボールの所為でやや硬い、沢山の努力が刻まれた両手。この掌が力強いスパイクを打ち、わたしを優しく抱き締めてくれる。
来年のハロウィンも、再来年のハロウィンも、わたしの些細な一言に慌てふためきながら、全力で応えようとしてくれるに違いない。そんな未来を想像するだけで、胸の奥が温かい橙色に染まっていく気がした。
「来年は! 来年は絶対に、名前が驚くような、最高のお菓子を用意する!」
漸く再起動したらしい工くんが、大きな声で高らかに宣言する。余りにも真剣な面持ちが可笑しくて、わたしは歯を見せて笑ってしまった。
わたしが欲しいのは、最高のお菓子なんかじゃない。工くんが傍に居てくれるだけで、充分過ぎる程に満たされると云うのに。
「うん。楽しみにしているね、工くん」
揺れる灯火の中で、わたしはもう一度、彼の唇にそっと触れた。トリック・オア・トリート。スイーツがなくても、こんな甘い夜になるなんて、去年のわたしは想像もしていなかった。この温かい橙色の光景を、わたしはきっと、生涯忘れない。