チョコと飴

 リベンジの時は来た。  体育館の床に叩き付けられるボールの衝撃音も、シューズの摩擦音も、今日の俺にとっては、決戦のゴングに他ならない。大学生が繰り出す凶悪なスパイクを一本、また一本と拾いながら、意識はバレーボールコートの外、夕闇が迫る街の一角へと飛んでいた。  そう、今夜はハロウィン。一年前、恋人である名前からの「トリック・オア・トリート」と云う、分かり易いサインボールを盛大にレシーブミスした、屈辱の日だ。現エースたる俺が、あんな失態を二度も繰り返す訳にはいかない。  この一年、俺は血の滲むような努力を重ねてきた。勿論、バレーの練習が主だが、それと並行して、来るべき十月三十一日への対策も怠らなかった。雑誌を読み漁り、ネットの海を彷徨い、クラスの女子達の会話に聞き耳を立て、完璧な"トリート"を導き出したのだ。 「五色、まだやるのか。今日、何かソワソワしてんな」 「白布さん! いえ、お先です! 今日は絶対に負けられない戦いが待ってるんで!」 「は? 何言ってんだ、お前……。まあいい、さっさと行け」  訝しげな視線を送る先輩に力強く一礼し、俺は疾風の如く部室へ向かった。ロッカーの奥、タオルで厳重に包み、隠しておいた決戦兵器――二つの小さな箱を震える手で取り出す。これこそが、一年間の研鑽の成果。名前を驚かせる為の、最高の切り札だ。  寮には戻らない。足は自然と、名前との約束の地を目指していた。  夕陽に染まる銀杏並木は、合格を祝福する金色の紙吹雪みたいだ。去年とは違う。今日の俺には、確固たる自信と、秘策がある。胸の中心で、心臓が勝利のドラムを刻んでいた。  待ち合わせ場所の校門付近、古びたレンガの壁へ寄り添うように、名前は立っていた。  今年の彼女は魔法使いに近い。深い紫色のワンピースに、蜘蛛の巣が刺繍された黒いレースのショールを羽織っている。風に揺れる柔らかな髪には、魔女の帽子を象るヘアクリップが控えめに輝いていた。西日が輪郭を淡く溶かし、名前の存在だけが、現実から切り離された一枚の絵画みたいに、俺の網膜に焼き付く。 「工くん。お疲れ様」  俺の姿を認め、名前の唇が緩やかな弧を描く。夜の深海を思わせる双眸が、悪戯っぽく細められた気がした。 「名前! 待たせたな!」 「ううん。丁度、魔法を掛け終わったところ」 「魔法?」 「うん。工くんが、今夜、世界で一番幸せな男の子になるように、って」  真顔でそう宣う彼女に、俺の心臓は早くもキャパシティオーバーを起こしそうになる。いけない、落ち着け、俺。試合はまだ始まったばかりだ。ここでペースを乱されては、去年の二の舞になってしまう。  二人で並び、歩き出す。町は昨年にも増して、陽気な橙色の光で満ち溢れていた。仮装した子供達の楽しげな声が、秋の冷たい空気に溶ける。  苗字家のマンションに着くと、玄関で出迎えてくれた兄貴さんが、Tシャツの前身頃を誇らしげに見せてくれた。 「やあ、工君。今日の俺は『語彙力がログアウトしました』だ。どうだい? 作家として、致命的だろう?」 「お、お邪魔します! 斬新でカッコイイです!」 「そうか! 君は本当に見所があるね」  リビングでは、ソファに座るがこちらを一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。 「ちわっす、五色。……今日は何か、必死そうな顔してんな」 「、工くんに失礼だよ」 「別に。こいつが姉さんに相応しいか、常に(以下略)」  最早、恒例行事となった挨拶を交わし、ダイニングテーブルへと向かう。今年も、名前の手によるカボチャ料理が並び、温かな湯気を立てていた。四人での食事は、相変わらず賑やかで、心が解れるような心地好さに満ちている。実家を離れて暮らす俺にとって、この食卓はもう一つの帰る場所だった。  軈て、兄貴さんとが「さて、俺は物語の神様が降臨するのを待つとするか」「……俺は、その、邪魔しないでおいてやる」と息の合った連携で、各々の自室へと消えていく。  リビングには、俺と名前の二人だけが残された。ローテーブルの上では、去年よりも少しだけ腕を上げたらしい表情豊かなジャック・オー・ランタンが、橙色の炎を静かに揺らしている。  来た。この静寂。この雰囲気。一昨年と、全く同じシチュエーション。  名前が、ゆっくりと向き直る。俺はゴクリと唾を飲み込み、いつでも伝家の宝刀を抜けるよう、身構えた。 「工くん」  澄んだ声が、俺の名前を呼ぶ。  名前の諸目が、揺蕩う焔の塊を映して煌めいた。あの呪文が、はっきりと紡がれる。 「トリック・オア・トリート」  ――今だ! 「待ってたぞ、名前!」  俺は叫ぶと同時に、懐から二つの箱を取り出した。一つは有名ショコラティエに特注した、バレーボールの形を模した芸術的なチョコレート。もう一つは飴細工職人に依頼して作ってもらった、白鳥沢カラーの紫と白が美しい螺旋を描く、ガラス工芸のような飴だ。……伝手と資金は、兄貴さんに援助してもらった。出世払いで。 「これが、俺の答えだ! 去年の俺とは違う! どうだ、驚いたか!」  高らかに勝利宣言を放つと、名前はぱちぱちと数回の瞬きを重ねた。そして、ふわりと花が綻ぶように、柔らかな笑みへと表情を変えた。 「凄い。……凄く、綺麗」  名前は小箱を受け取ると、丁寧に包みを解き、愛おしそうに中身を眺めている。その横顔を目の当たりにしただけで、俺の胸は達成感で張り裂けそうになった。勝った。俺は、ハロウィンを征服したのだ。 「ふふ。ありがとう、工くん。とっても嬉しい」  名前は礼を述べると、俺の隣に寄り添った。次いで、悪戯っぽく微笑みながら、耳元で囁く。 「でもね、工くん」  甘い香りが、鼻腔を擽る。 「お菓子をくれても、悪戯はしたいな」  え。  俺の思考は、そこで完全にフリーズした。
 わたしの言葉に、工くんの大きな身体が、またしても石像みたいに固まってしまった。驚きと混乱と「こんな筈では」と云う絶望。一年間、今日の為に一生懸命準備してくれた彼の、余りにも純粋な反応が愛おしくて、笑いを堪えるのに必死になる。  本当に分かり易くて、可愛い人。  工くんが差し出してくれた二つの箱は、工くんの不器用な愛情そのものだった。バレーボールの形のチョコレート。白鳥沢のユニフォームカラーの飴。どこまでも彼らしくて、只の高価なお菓子を渡されるよりも、わたしの心をずっと温かく満たしてくれる。去年のハロウィンから、わたしの為に悩み抜き、用意してくれた時間。全てが、どんなスイーツよりも甘い贈り物だった。  わたしはそっと飴細工の包みを開き、精巧な欠片を口に含んだ。優しい甘味が、舌の上でゆっくりと蕩けていく。 「美味しい」 「そ、そうか……?」  再起動に時間を要しているらしい工くんが、戸惑った声で応じる。わたしは逞しい肩に頭を預けた。彼の体温が、服越しにじんわりと伝わる。 「去年はね、『トリック』される筈だったでしょう?」 「あ、ああ。そうだな」 「だから、悪戯として、キスをしたの」  去年の出来事を話題にすると、工くんの耳が仄かに赤く染まる。些細な反応すら、わたしの恋心を擽った。 「でも、今年は違う」  わたしは身体を離し、工くんの真正面に回り込む。ジャック・オー・ランタンの頼りない光源が、彼の戸惑う瞳をオレンジ色に照らしていた。 「今年は、こんなに素敵な『トリート』を貰ったから。その、感謝の気持ちだよ」  囁きと同時に、わたしは彼の唇に、自分のそれを重ねた。  触れるだけだった去年とは違う。少しだけ大胆に、工くんの熱を確かめるように。驚きに見開かれた双眼が、至近距離でわたしを映している。チョコレートの箱を開けた時に漂ったカカオの芳醇な馨りと、彼の匂いが混じり合い、くらりと眩暈がした。  徐々に口唇を開放すると、工くんは熟した林檎のように真っ赤な顔で、完全に言葉を失っていた。コートの上で、誰よりも高く跳び、鋭いスパイクを打ち込むエースの姿は、今はどこにもない。わたしの前には、只の恋に不器用な、一人の愛おしい男の子が居るだけだ。 「チョコも、飴も、凄く甘いね」  わたしは笑って、工くんの長い指に、自らのそれを絡ませた。努力の証である、硬くなった皮膚の感触が心地良い。 「でも、わたしにとっては、工くんが一番甘いよ」  来年のハロウィン、一体、彼はどんな手で、わたしを驚かせてくれるのだろう。再来年も、その次の年も、全力で準備してくれるに違いない。そんな未来を想像するだけで、胸の奥から温かいものが込み上げる。  わたしが欲しいのは、高価なスイーツなんかじゃない。  工くんが、わたしの為に頭を悩ませてくれる時間自体が、最高の贈り物なのだと、この真面目な恋人は、いつ気づくのだろうか。 「楽しみにしているね、来年も」  揺れる橙色の灯火の中で、わたしはもう一度、甘ったるい毒のようなキスを贈った。お菓子があってもなくても、今宵が飛び切り甘くなる魔法を、わたし達はもう知っている。二人で過ごすハロウィンの温かい光景を、わたしはきっと、生涯忘れない。