怪しく嗤う月光
スマートフォンが部活前の静寂を破り、短く震えた。ディスプレイに表示された名前に、心臓が鷲掴みにされる。苗字名前。たった数文字が、俺の思考回路を鮮やかにショートさせた。
『今夜、わたしの家に来てほしいんだ。待っているね』
それだけの、極めて簡潔なメッセージ。しかし、日付は十月三十一日。巷ではハロウィンと呼ばれる、どこか浮かれた空気が漂う日だ。恋人からの、夜の誘い。この文字列の組み合わせが何を意味するのか、俺の思春期の脳細胞は瞬時にあらゆる可能性を計算し、軈て弾き出した答えにオーバーヒートを起こし掛けていた。
「う、おおおおし! 今日も一本集中!」
無駄に叫び、体育館の床をシューズで強く鳴らす。だが、俺の意識は既に白鳥沢学園を飛び出し、名前の待つ部屋へと飛翔していた。
「五色、浮かれてんじゃねぇぞ。そんなんでボール落としたら、殺す」
「ひっ! す、済みません、白布さん!」
背後から突き刺さる白布さんの冷やかな声に、俺の背筋が凍る。いけない、今は部活に集中しなければ。未来のエースたる者、私情でプレーを疎かにするなど言語道断。そう自分に言い聞かせても、脳裏にチラつくのは、名前の姿ばかりだ。
あの、静かな水面のような瞳。触れると消えてしまいそうな、白い頬。時折見せる、悪戯な光を宿した微笑み。彼女を想うだけで、身体の奥底から熱い何かが込み上げる。
「どうした、五色。集中が足りていないようだが」
牛島さんの重い一言がコートに響き渡った。圧倒的な存在感を前に、俺の浮ついた心は見事に粉砕される。そうだ、俺はこの人を超えるんだ。名前に相応しい男になる為にも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「押忍!」と腹の底から声を張り上げ、俺は改めてボールへと意識を向けた。しかし、練習の合間に見上げた窓辺には、既に夕闇が迫っていた。夜が、直ぐそこまで来ている。
寮のシャワーで汗を流し、クローゼットの前で仁王立ちになる。今夜、俺は戦場へ赴くのだ。いや、戦場ではない。もっと甘美でありながらも、未知なる領域へ。一体、どんな服が正解なんだ。悩みに悩んだ末、一番お気に入りの、少しだけ大人びて見えるジャケットに袖を通した。
苗字家のマンションは、街の喧騒から些か離れた閑静な場所に在る。道すがら視界に入る、オレンジ色に灯るジャック・オー・ランタンと、魔女やオバケに扮した子供達の姿が、否が応でも、今宵が特別な日であることを、俺に告げていた。高鳴る鼓動を抑えながらエントランスを抜け、目的の部屋番号のインターホンを押す。
『はい』
スピーカーから聞こえたのは、紛れもなく名前の声だった。けど、いつもより僅かに低く、どこか含みのある響きに感じるのは、気の所為だろうか。
「お、俺だ。工だ」
『ふふ、どうぞ』
ピッ、と電子ロックの解除音が鳴る。エレベーターを待つ時間さえもどかしく、階段を駆け上がった。扉の前で一度、大きく深呼吸をする。よし。
間もなくして、チャイムより先に、静かに入口が開かれた。
「いらっしゃい、工くん」
そこに立っていたのは、常通りの名前だった。ゆったりとした黒いワンピースを身に纏い、穏やかに微笑んでいる。だけど、背後に広がる室内の雰囲気は、明らかに普段と違っていた。
リビングは薄暗く、メインの照明は落とされている様子だった。ローテーブル上で揺らめくキャンドルの炎が、壁に数本分の長い影を伸ばしている。シナモンとクローブが混じった、甘くスパイシーな香りが鼻腔を擽った。異国の儀式にでも迷い込んだかのような錯覚に陥る。
「凄いな、これ……」
「ハロウィンだから、それっぽく雰囲気を変えてみたんだ」
ダイニングへ通されると、テーブルの上には豪勢な料理が並んでいた。だが、そのどれもが奇妙な見た目をしている。真っ赤なソースに浮かぶ、目玉と見紛うモッツァレラチーズ。指の形に成形されたソーセージ、蜘蛛の巣が描かれたパンプキンスープ。手が込んだメニューの数々は、食欲をそそると云うより、俺の好奇心と僅かな恐怖心を刺激した。
「全部、名前が作ったのか?」
「うん。工くんの為にね」
そう言って微笑む彼女の唇は、蝋燭の光を浴び、艶めかしく濡れているように見えた。俺はゴクリと喉を鳴らし、勧められるままに椅子へ腰を下ろす。
食事の間、名前はどこか上の空だった。いつもなら学校での出来事や、読んでいる本の話をしてくれるのに、今夜は殆ど口を開かず、俺の顔をじっと凝視している。深淵を思わせる双眸に見つめられていると、心の奥底まで見透かされている気分になり、落ち着かなかった。
ふと、窓の外に視線を遣る。厚い雲に覆われていた空から、いつの間にか満月が相貌を覗かせていた。銀色の光輝が、巨大な獣の眼光みたいに鋭く、地上を睥睨している。月光が、名前の白い肌を照らし、この世のものとは思えない程、幻想的な存在に魅せていた。あれは、只の月じゃない。これから起こる何かを予見して、怪しく嗤っているかのようだ。
「工くん」
静寂を破った名前の呼び声に、びくりと肩を揺らす。彼女はゆっくりと立ち上がると、俺の隣にやって来た。
「プレゼントがあるの」
差し出されたのは、ベルベットの小さな箱。期待と不安が入り混じった心地で蓋を開けると、中にはコウモリの形を象った、精巧なカフスボタンが収まっていた。
「これ……」
「うん。わたしの、眷属の印」
名前が耳元で囁いた、その瞬間。
パツン、と音がして、部屋の照明が全て落ちた。キャンドルの焔までもが、示し合わせたかの如く一斉に掻き消える。完全な闇が、俺達を包み込んだ。
「先頭文字、名前?」
暗闇に目が慣れない。只、直ぐ傍に彼女の気配を感じる。甘い馨りが、先程よりもずっと濃密になっていた。
そして、ひやりとした何かが、俺の首筋に触れた。
「工くんの血、美味しそうだね」
囁き声は、最早、俺の知っている名前のものではなかった。どこまでも甘く、抗い難い程の妖気を孕んでいる。ぞわり、と全身の産毛が逆立った。まさか。そんな、馬鹿な。彼女は、吸血鬼……?
思考が停止し、金縛りに遭ったように身体が動かない。唯一、首筋に迫る冷たい感触だけが、やけにリアルだった。
その時だった。
「――はい、カットー!」
パッと部屋中の明かりが点灯し、突然の眩しさに目を細める。眼前には、口の端に血糊を付けた名前が、悪戯っぽく笑っていた。そして、後ろには。
「いやぁ、工君はリアクションが良いね。今夜の君の表情、俺の新作ホラー『戦慄! 南瓜頭と吸血姫』の参考にさせてもらうよ」
そう言って満足気に頷いているのは、名前の兄である、兄貴さんだった。彼が着ているTシャツには、デカデカと『吸血鬼ごっこ大成功!』と云う、ふざけた文字が躍っている。
「……え? ど、ドッキリ……?」
俺は腰が抜け、その場にへたり込んだ。安堵と、盛大に担がれたことへの悔しさで、全身の力が弛緩する。
「うん。ハロウィンだから、少し驚かせてみたくなって。ごめんね、怖かった?」
名前が屈み込み、俺の顔を心配そうに覗き込む。瞳はいつもの穏やかな光を取り戻していた。彼女の突飛な一面に、俺は呆れるのを通り越して、どうしようもない愛しさが込み上げるのを感じた。
「もう……心臓に悪い……」
「ふふ、ごめん」
拗ねたように呟くと、名前は「お詫びに」と言って、俺の唇にそっと自分のそれを重ねた。柔らかく、甘い感触。一度のキスだけで、俺の単純な心は一瞬で上機嫌へと塗り替えられる。
「でも、眷属って云うのは本当だよ」
口唇を離した名前が、俺を真剣な眼差しで見つめる。
「工くんは、わたしの特別。誰にも渡さない」
その独占欲が、どんなスパイクよりも強く、俺の胸を打ち抜いた。
「……っ、当たり前だ!」
頬に集まる熱を隠すように、俺は叫ぶ。
「俺は、未来のエースだからな! 俺も、名前を誰にも渡したりしない!」
我ながら単純だと思う。だけど、彼女の一言で、俺の世界はこんなにも簡単に色鮮やかになるのだ。
夜空を見上げると、月は先程までの妖しい煌めきをすっかりと潜め、只静かな優しい光で、俺達を照らしていた。
その後、改めて食べた不気味な見た目の料理は、最初の印象を覆す程に美味しかった。俺の心臓は、吸血鬼ごっこの最中とは全く異なる理由で、夜が更けてもずっと騒がしく鳴り響いていた。