黒服のレディ
十月最後の日は、空が気紛れに表情を変える一日だった。澄み切った秋晴れかと思えば、薄墨を流したような雲が太陽を覆い隠し、直ぐにまた陽光が世界を琥珀色に染め上げる。そんな光と影の戯れを、わたしは店の窓からぼんやりと眺めていた。
ここは祖父が営むブックカフェ『雨滴文庫』。その名の通り、雨天限定で扉を開くのが常だけれど、今日はハロウィンだからと云う祖父の粋な計らいで、特別に営業している。古書のインクの匂いと、深煎り珈琲の芳醇な香りが混じり合う空間。壁一面の書棚には、背表紙の色褪せた本が静かに眠り、磨き上げられたジュークボックスが鈍い光沢を放っている。
「名前、その服、中々似合っているじゃないか」
カウンターの奥でグラスを乾拭きしている祖父が、満足気に目を細めた。わたしは自分の姿を硝子に映し、小さく息を吐く。いつもは着慣れた制服か、動き易い普段着ばかり。でも、今のわたしが身に纏っているのは、祖父がどこからか見つけてきた、年代物の黒いワンピースだった。詰まった襟元に包みボタンが慎ましく並び、ふわりと広がるスカートの裾は、歩く度に影の如く揺れる。古い洋画に登場する令嬢のようで、どうにも落ち着かない。
「……少し気恥ずかしいよ、お祖父ちゃん」
「ふふ、若い内はそれくらいが丁度いい。それに、今日はあの子が来るんだろう?」
悪戯っぽく笑う祖父の問い掛けに、頬が熱を帯びる。あの子――五色工くん。わたしの恋人。
部活を終えたら、ここに寄るとメッセージがあった。工くんがこの恰好を見たら、どんな顔をするだろう。驚いたように目を丸くして、それから、なんて言うのかな。想像するだけで心臓の辺りが擽ったくなり、むず痒い感覚に襲われる。
美術部のわたしにとって、工くんは最高のモチーフだった。鍛え上げられた、しなやかな筋肉の躍動。ボールを打ち抜く瞬間の、一点に集中した鋭い眼差し。スケッチブックはいつの間にか、彼のデッサンで埋め尽くされていた。線の練習だと言い訳しながら、本当はその強さも、時折見せる幼さも、全部を描き留めておきたかっただけ。
カラン、とドアベルが澄んだ音を奏でた。
来た。
心音が一度、大きく跳ねる。カウンターの陰へ半ば隠れるようにして入口を見遣ると、そこに立っていたのは、紛れもなく彼だった。
白鳥沢学園のジャージに身を包み、少し汗ばんだ黒髪が額に張り付いている。特徴的なぱっつんの前髪と、ぴょこんと跳ねたアホ毛。いつも通りの工くんだ。しかし、店内を見渡す瞳が、わたしを捉えた刹那、彼の時間がぴたりと止まった。
大きく見開かれた双眸が瞬きも忘れ、わたしに縫い付けられる。口を半開きにしたまま、工くんは化石みたいに固まってしまった。その様子が可笑しくて、今し方まで緊張していた筈なのに、自然と口許が綻んでしまう。
わたしは静かにカウンターから出て、工くんの方へ一歩を踏み出した。スカートの裾が、さわりと膝を撫でる。
「お帰り、工くん。練習、お疲れ様」
努めて普段通りに、そう挨拶した。果たして、わたしの声は届いているのだろうか。工くんは未だにぽかんとした表情で、わたしを見つめている。黒曜石みたいな諸目の中に、黒いワンピースのシルエットが小さく映っていた。
工くんの視線が、わたしの顔から首筋、ワンピースの胸元に続き、スカートの裾へと、美術品を鑑定するように、ゆっくりと滑り降りる。その度に肌が粟立つ感覚を知った。誰も、わたしのことなんて、ちゃんと見ていない。そんな風に思っていたのに、彼の眼差しは、まるで強い光みたいに、わたしの全てを暴き立てる。
「……先頭文字、名前……?」
漸く絞り出された声は掠れていて、どこか現実味を欠いていた。わたしは縦に頷く。
「うん、名前だよ。どう、かな。変じゃない?」
問い掛けると、工くんはぶんぶんと風切り音がしそうな勢いで、首を横に振った。同時に、雷に打たれたように硬直が解け、ずかずかと大股で歩み寄ってくる。その気迫に、わたしは思わず後退った。
「変なワケないだろ!」
店の空気を震わせる程の大声。祖父が「おっと、静かにな」と苦笑している。工くんは、わたしの眼前でぴたりと足を止め、大きな手で、わしわしと自分の髪を掻き混ぜた。
「いや、違う、そうじゃなくて……えっと、その……」
語彙を探し、視線を彷徨わせる横顔は夕陽に照らされ、赤く染まっている。この顔だ。試合中に見せる真剣な面持ちとも、仲間と笑い合う屈託のない表情とも違う。わたしだけに向けてくれる、不器用で愛おしい一面。
わたしはこの顔を描くのが、一番好きだった。
脳天に時速120キロのサービスエースを叩き込まれたような衝撃だった。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んだのは、見慣れたブックカフェの光景ではなかった。いや、内装は同じ筈なのに、カウンターに立つ一人の少女の存在が、世界の全てを塗り替えてしまっていた。
黒いワンピース。
普段の名前からは想像もつかない、淑やかでいながら、どこか妖艶ささえ感じさせる装い。夕陽が射し込む窓からの光が、彼女の輪郭を金色に縁取り、一枚の絵画のようだった。逆光で表情はよく見えない。だけど、シルエットだけで、彼女が苗字名前だと分かった。そして、普段の彼女とは全く違う"黒服のレディ"がそこに居ることも。
俺は完全に思考を停止させられた。足は床に縫い付けられ、声帯は機能を失う。練習後の火照った身体が急速に冷えていくのに対し、心臓だけが焼けるように熱い、奇妙な感覚。
名前がこちらへ歩いてくる。しなやかな動き、布地の擦れる微かな音、全てがスローモーションに見えた。
「お帰り、工くん。練習、お疲れ様」
いつも通りの澄んだ声音。お陰で、俺は漸く呼吸を忘れていたことに気づいた。慌てて息を吸い込むと、珈琲の香りに混じって、ふわりと甘い、名前の匂いがした。
「……先頭文字、名前……?」
自分の声が、他人のように聞こえた。本当に、目の前に居るのは、俺の彼女なのか? ハロウィンの魔法で、どこかのお姫様と入れ替わってしまったんじゃないか? そんな馬鹿げた考えが頭を過る。
「うん、名前だよ。どう、かな。変じゃない?」
変じゃない?
何てことを訊くんだ。
変どころの話じゃない。これは事件だ。俺の心臓にとって、極めて危険な、非常事態宣言を発令すべきレベルの大事件だ。
沸騰した薬缶みたいに頭から湯気が出そうで、俺は勢いよく首を振った。
「変なワケないだろ!」
思わず叫んでしまい、名前の肩がびくりと揺れる。しまった、声がデカ過ぎた。だが、そんなことを気にしている余裕はない。彼女に詰め寄りながら、必死で言葉を探す。
可愛い。綺麗だ。似合ってる。
そんな在り来たりな語彙では、衝撃の百分の一も伝えられない気がした。もっとこう、的確で、鋭くて、相手の心を撃ち抜くような、キレッキレの一撃はないのか。牛島さんを超えるエースになる俺が、こんな時に陳腐な科白しか言えないなんて、情けない。
「いや、違う、そうじゃなくて……えっと、その……」
駄目だ。乱れ飛ぶボールみたいに、語句が全然繋がらない。焦れば焦る程、頭の中は真っ白になる。
くすり、と名前の笑う気配がした。見れば、彼女は悪戯が成功した子供のような表情で、俺を見上げている。潤んだ瞳に、焦りまくる俺の姿が映っていて、猛烈に恥ずかしくなった。
「今日の名前は特別仕様でね。『黒猫座の淑女』と云う、うちの新作スイーツみたいなもんだ。心して味わいなさい、工君」
カウンターの向こう側から、名前のお祖父さんがひょっこりと顔を出し、にやりとほくそ笑んだ。黒猫座の淑女。何だ、その必殺技みたいな名前は。でも、妙にしっくり来た。今の名前は、普段の彼女とは違う、何か特別な存在に感じる。
軈て、お祖父さんは店の奥へ消え、俺と名前の二人きりになった。気まずい沈黙が落ちる。ジュークボックスから流れる古いジャズの音色だけが、やけに大きく聞こえた。
何か言わなければ。エースとして、彼氏として、この状況を打開しなければ。
「……今日の名前、なんか……凄く……」
俺は意を決して、口を開いた。名前が期待の眼差しで、俺を見つめる。
「……ブロックの隙間を抜く、神業的なクロスを不意に食らったみたいで……心臓に悪い」
言ってから、俺は頭を抱えた。
最悪だ。何で、バレーに喩えたんだ、俺は。ロマンチックの欠片もない。白布さんに「クソしょーもな」って貶されるヤツだ。
だけど、名前は怒るでも、呆れるでもなく、きょとんとした顔で瞬きを数回すると、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「ふふ、何それ。でも、工くんらしいね」
「……悪かったな」
「ううん、嬉しいよ」
名前はそう言うと、俺のジャージの裾をそっと掴んだ。白く、華奢な指。指先から伝わる温もりに、俺の心臓は漸く正常なリズムを取り戻し始める。
「あのね、工くん」
名前が躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「この服、工くんに見てほしくて、着てみたんだ」
――ドクンッ。
最後の、トドメの一撃だった。
どんな強烈なスパイクよりも威力のある、完璧な一言だった。俺の心のど真ん中に、寸分の狂いもなく突き刺さる。
もう駄目だ。降参だ。
俺は殆ど無意識の内に、目の前の小さな身体を壊さない限りに力強く抱き締めていた。内側にすっぽりと収まる、華奢な感触。シャンプーの甘い香りが、俺の理性を麻痺させる。
「……反則だ、名前」
「え?」
「それは、反則過ぎる……」
次期エースの俺が形無しだ。
腕の中で、名前のくすくすと云う笑声が聞こえる。振動が心地好くて、擽ったい。
「トリック・オア・トリート、だね」
「……お菓子をあげないと、どうなるんだ?」
「さあ、どうなるでしょう」
悪戯っぽく囁く声に、俺はもう、名前の為すがままになるしかないのだと悟った。
秋の日は短く、窓の外は深い藍色に染まり始めている。店内に灯されたランプの暖かい光源が、彼女にすっかり心を奪われたウイングスパイカーと、黒服のレディを優しく照らしていた。今夜はきっと、忘れられないハロウィンになる。そんな確信にも似た予感が、胸いっぱいに広がっていた。