喋る黒猫と赤い牙
秋風が体育館の床を舐めるように吹き抜け、俺の汗ばんだ首筋を冷たく撫でた。鷲匠監督の稲妻みたいな怒声がフロアに突き刺さり、ボールがコートを叩く乾いた音と、心臓の鼓動が重なる。牛島さんの放つスパイクは、まるで意志を持った砲弾だ。その圧倒的な存在感を背中に感じながら、俺は唇を噛み締める。もっと鋭いクロスを。あの人の領域に、一歩でも近づく為に。
「――工くん」
部活が終わり、寮へ向かう道の途中で、凛とした、柔らかな声に呼び止められた。夕闇が空を茜色から藍色へと塗り替える境界線の時間に、彼女は佇んでいた。苗字名前。俺の、唯一無二の恋人。
「名前」
名前の姿を認めた途端、バレーボールで満たされていた頭の中が、瞬時に彼女の色で染め上げられる。風に揺れる髪が、外灯の頼りない光を吸い込み、絹糸のように艶めいていた。深海の底を思わせる眼差しが、俺を真っ直ぐに射抜く。その視線だけで、心臓が持ち主の許可なく勝手に走り出すのだから、全く以て不公平だ。
「お疲れ様。今日も、良い音をさせていたね」
「! あ、ああ。でも、まだ全然だ。牛島さんには、程遠い……」
「そう。でも、わたしは、工くんのスパイクが一番好きだよ」
淡々と事実を告げるように、彼女は言う。言葉の破壊力ってヤツを、この無自覚な天才は理解しているのだろうか。単純だと笑われるかもしれないが、名前の一言で、俺の疲労は霧散し、明日への闘志が燃え盛るのだ。
「ところでね、工くん。少し、相談があるの」
「相談? 俺でいいなら、何でも聞くぞ」
胸を張って答えると、名前は不思議な角度で首を傾げた。その仕種一つで、道端の雑草さえも、絵画の背景に見えてくるから不思議だ。
「十月の終わりは、何の日か知っている?」
「十月の終わり……? ああ、ハロウィンか」
「うん。それでね、工くんと一緒に仮装をしてみたいんだ」
「か、仮装!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。仮装なんて、小学生の時以来、縁のない単語だ。強面の鷲匠監督や、ストイックな牛島さんの顔が脳裏を過り、見られているわけでもないのに、急に気恥ずかしさが込み上げる。
「俺が、仮装……」
「工くんは嫌?」
僅かに伏せられた睫が、心許ない影を白い頬に落とす。そんな表情をされたら、断れるワケがない。俺は、名前に心の底から弱いのだ。彼女が望むなら、やるしかないだろ。
「い、嫌じゃない! 全然! 寧ろやりたい! 凄くやりたい!」
「本当? 良かった」
ふわりと、夜に咲く白色の花っぽく、名前が微笑む。その微笑一つで、俺の世界は祝福されたように輝き出す。ああ、もう駄目だ。彼女の思う壺だ。でも、それが堪らなく嬉しいのだから、俺も相当、どうかしている。
「わたしはね、黒猫になろうと思うんだ」
「黒猫……! 似合いそうだ……!」
「ふふ、ありがとう。それで、工くんにはね……」
名前は可愛らしく目を細め、内緒話でもするように顔を寄せた。甘い香りが鼻腔を掠め、理性の箍が緩むのを感じる。
「わたしの、ご主人様になってほしいな。――赤い牙を持つ、吸血鬼の」
そして、訪れたハロウィンの夜。俺はどこか落ち着かない心地で、名前の住むマンション前に立っていた。エントランスの表札は全て無記名で、この巨大な建物に、苗字家の関係者以外に住人が居ないと云う事実を知らしめる。
チャイムを鳴らすと、直ぐに扉が開いた。迎えてくれたのは、名前の兄である、兄貴さんだった。相変わらずの美形だが、胸元に『〆切だけが友達』と、物悲しいフォントで書かれたTシャツを着ている。
「やあ、工くん。よく来たね。名前なら、今頃は準備の最終段階だ」
「お、お邪魔します! 兄貴さん、そのTシャツ……」
「ああ、これかい? 担当編集者からのプレゼントなんだ。皮肉が効いていて、気に入っているよ」
朗らかに笑う兄貴さんに案内され、リビングへと足を踏み入れる。直後、部屋の奥から現れた存在に、俺は呼吸の仕方を忘れた。
「あ、工くん。待っていたよ」
そこに居たのは、紛れもなく名前だった。だけど、いつもの彼女とは、まるで違う。艶やかな黒のベルベット生地で仕立てられたミニドレスは、彼女の透き通るような肌を一層際立たせている。頭には繊細なレースの猫耳、腰からはしなやかな尻尾が伸びていた。今夜の彼女は蠱惑的でありながら、イノセントな魅力を振り撒いている。心臓が喉までせり上がり、言葉を発することができない。
「どうかな。似合う?」
名前は、くるりと一回転してみせる。ふわりと広がるスカートの裾が、甘い幻影のように揺れた。俺は只、こくこくと頷くことしかできなかった。全身の血液が沸騰し、顔に集中していくのが分かる。
「工くんの衣装も、こっちに用意してあるんだ」
名前が指差したソファの上には、漆黒のマントと、小さなケースが置かれていた。中には、精巧に作られた付け牙が収まっている。
「わたしの吸血鬼さん。変身してみて」
名前に促されるままマントを羽織り、恐る恐る牙を付けてみる。鏡に映る自分の姿は、何とも言えない気恥ずかしさを感じさせたが、隣で微笑む黒猫を見れば、そんな些細なことはどうでもよくなった。
「うん、凄く格好良いよ。赤い牙の吸血鬼と、喋る黒猫だね」
満足そうに頷く名前に手を引かれ、俺達は彼女の自室へと向かった。兄貴さんは「俺はこれから、新しい物語の海に漕ぎ出すから、くれぐれも邪魔しないでくれよ。『納豆の妖精と、プリンセスの禁断の恋』について、構想を練るんだ」と、意味不明だが、格好良い科白を残し、書斎に消えていった。
名前の部屋は、間接照明の柔らかな光に満たされ、窓の外では、月が銀色の光彩を投げ掛けていた。ローテーブルの上には、カボチャの形をしたクッキーや、色とりどりのキャンディが並んでいる。二人きりの空間。甘い香りと静寂。俺の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
「黒猫から、吸血鬼さんにお願いがあるの」
名前が潤んだ双眸で、俺を見上げる。その眸に捕らえられたら、もう逃れる術はない。
「なんだ?」
「その牙で……わたしの首筋に、噛み付くフリをしてほしい」
脳天を殴られたような衝撃だった。名前の口から紡がれた、余りにも扇情的な願望。俺の思考回路はショート寸前だ。
「先頭文字、名前……それは……」
「駄目かな」
湿った諸目が、僅かに不安の色を帯びる。ああ、駄目だ。この表情に、俺は絶対に勝てない。
「……分かった」
覚悟を決め、ゆっくりと彼女に顔を近づける。名前は少しも身動ぎせず、白い喉を無防備に晒していた。甘い花の芳香が、俺の理性を麻痺させ、心臓は破裂しそうな程に激しく脈打つ。付け牙の先端が滑らかな肌に触れた瞬間、全身に電流が奔った。このまま本当に噛み付いて、俺だけの眷属にしてしまえたら、なんて、柄にもない独占欲が鎌首を擡げる。
数秒が永遠のように感じられた。そっと離れると、名前は平然とした表情で、でも、頬をほんのりと上気させていた。
「ふふ、ありがとう。吸血鬼さんは、とても優しいんだね」
その言葉に、俺が必死に理性を保っていたことを見透かされたような気がして、顔面から火が出そうだった。完全に、名前の掌の上で踊らされている。
「それでね、喋る黒猫には、もう一つ、本当に伝えたいことがあったんだ」
名前は居住まいを正し、俺を真剣な眼差しで見つめた。一体、何を言われるのだろう。俺の心臓は期待と不安で、再び激しく鳴り響く。
「工くんの好物は、カレイの煮付けだよね?」
「え? ああ、そうだけど。世界で一番美味いと思ってる」
「そのレシピを、先日、母から教わったの」
予想の斜め上を行く一言に、俺の頭は疑問符で埋め尽くされる。名前は小さく息を吸い込んだ。
「だから……今度、わたしに作らせてくれないかな。工くんの為に」
途端、俺の中で、何かが弾けた。
仮装とか、吸血鬼とか、そんな、全部が吹き飛んでしまった。只、目の前に居る愛しい彼女が、俺の為に、俺の好物を作ろうとしてくれている。その事実が、どんな甘い言葉や誘惑よりも、俺の心を深いところまで、強く揺さぶった。
気づいた時には、名前の華奢な身体を力いっぱい抱き締めていた。
「当たり前だろ!」
兄貴さんの邪魔をしそうな程、大きな声が出た。
「当たり前だ! 名前が作ったものなら、そんなの、世界一どころか、宇宙一美味いに決まってる! 毎日作ってほしいくらいだ!」
腕の中で、くすくすと笑う気配がした。
「ありがとう、わたしの吸血鬼さん」
顔を上げた彼女の双眼は深海じゃなかった。満天の星空を閉じ込めたように、きらきらと輝いていた。俺はもう我慢できず、桃色の唇に、自分のそれを重ね合わせていた。ハロウィンの夜に現れた、喋る黒猫と、牙を持つ吸血鬼。二人の甘い宵は、まだ始まったばかりだ。