ハロウィン・カレイ・コンフィデンス

 ハロウィンの夜に交わした約束は、俺の脳内に、甘い呪いのようにこびり付いていた。  鷲匠監督の雷鳴が体育館に轟いても、牛島さんのスパイクが床を抉る轟音を立てても、俺の鼓膜の奥では、名前の「作らせてくれないかな」と云う声が、可憐な鈴の音みたいに鳴り響き続けている。カレイの煮付け。その料理を思い浮かべるだけで、腹の底から力が湧いてくるのだから、俺の身体はとことん単純に出来ているらしい。 「工、集中しろ!」 「ハイ!」  鷲匠監督の鋭い叱責に背筋を伸ばし、俺はボールに意識を集中させる。そうだ、浮かれている場合じゃない。名前に格好悪いところは見せられない。彼女が作ってくれる予定の、宇宙一美味いカレイの煮付けを食べるに相応しい男になる為にも、俺はもっと強くならなければいけないのだ。  そして、約束の週末、俺は心臓をバレーの試合前よりも激しく高鳴らせながら、苗字家の前に立っていた。空は高く澄み渡り、秋の陽光が頬を優しく撫でる。チャイムを押す指が、微かに震えた。  程なくして、開いた扉の向こうに現れたのは、名前でも、兄貴さんでもなかった。 「……誰?」  俺より少し背の低い、線の細い少年だった。切り揃えられた髪に、何故か、名前を彷彿とさせる、静かな光を宿した双眸。歳は、俺の一つ下くらいだろうか。上質なカーディガンを羽織った姿は、育ちの良さを物語っている。 「俺は、五色工。名前に呼ばれて……」 「ああ、あんたが。話は聞いてる」  少年は品定めをするような視線で、俺を頭の天辺から爪先まで一瞥すると、面倒臭そうに溜息を吐いた。 「俺は、苗字名前の弟」 「弟!? 名前に弟が居たのか……!」 「あんた、姉さんのこと、何も知らないんだな。まあ、入れよ」  くんに促されるまま、俺は遠慮がちに中へと足を踏み入れた。リビングの方から、醤油と味醂が煮詰まった、堪らなく食欲をそそる香りが漂ってくる。その発生源であるキッチンには、淡い水色のエプロンを身に着けた、世界で一番愛しい女の子の後ろ姿が在った。 「あ、工くん。いらっしゃい」  振り返った名前は、頬をほんのりと上気させ、些か緊張した面持ちで微笑んだ。そんな彼女を見た瞬間、胸に芽生え掛けていたくんへの警戒心など、春の雪みたいに呆気なく溶けて消え失せた。 「名前! 良い匂いがするんだけど!」 「うん。今、母に教わった通りに作っているところ。でも、初めてだから、上手く出来るか分からない」 「名前が作ってくれるなら、どんな味でも美味い!」  力強く断言すると、名前は嬉しそうに目を細めた。隣で、くんが呆れたように「単純な奴」と呟いたのが聞こえたけど、今は全く気にならない。  椅子に座るよう勧められ、くんと気まずい沈黙の中、向かい合うことになった。名前は再びキッチンで小さな背中を丸め、鍋の中を覗き込んでいる。 「……あんた、バレーやってるんだってな」 「あ、ああ! 白鳥沢で、ウイングスパイカーをやってる!」 「ふぅん。姉さん、昔は身体が弱かったから、あんたみたいな体育会系の喧しい奴とは、縁がなかったんだけど」  くんの言葉は棘を含んでいるようで、どこか寂しげな響きも持っていた。 「名前が、病弱……?」 「今は、もうすっかり元気だけど。小さい頃は、よく熱を出して寝込んでた。だから、誰かの為に台所に立つなんて、俺は見たことがない。……姉さんを泣かせたら、許さないからな」  俺を真っ直ぐに射抜く眼差しは、紛れもなく、名前と同じ深淵の色をしていた。姉を心から大切に想っていることが、痛い程に伝わる。 「泣かせたりしない! 俺は、名前を世界一幸せにする!」  胸を張って宣言すると、くんはふいと顔を逸らし、「……声、デカいんだよ」と耳を赤くしながら呟いた。  その時、書斎の扉が勢いよく開かれ、兄貴さんが姿を現した。今日のTシャツの胸元には『〆切は倒すもの』と勇ましい筆文字が躍っている。 「おお、工くん! 未来の義弟よ、よく来たね! 何やらキッチンから、神々の食卓に並ぶような芳香が漂ってくるけれど……もしや、あれは我が家に伝わる、秘伝の……!」 「兄貴兄さん、大袈裟だよ。只のカレイの煮付けだから」  名前がくすくすと笑いながら、大きなトレイをダイニングテーブルに運んできた。艶やかな飴色に煮付けられたカレイが、湯気と共に甘辛い匂いを立ち上らせている。白く輝く炊き立てのご飯に、豆腐とワカメの味噌汁、ほうれん草のお浸しまで添えられていた。 「工くん。冷めない内に、どうぞ」  促されるまま、俺は期待に震える手で箸を取った。ふっくらとした白身を一口、口に運ぶ。  途端、俺の中で、何かが爆発した。  優しい甘さと、醤油の香ばしさ。生姜の爽やかな風味が、完璧な調和を保って、口中に広がる。身は繊細な程に柔らかく、味が芯まで染み込んでいる。世界で一番好きだった、母さんのカレイの煮付けを、今日、この瞬間に超えてしまった。 「う……美味い……!」  絞り出した声は、情けない程に上擦っていた。涙腺が緩み、視界が滲む。俺は夢中で白米を掻き込んだ。名前が、俺の為だけに作ってくれたカレイの煮付けと、白いご飯。その無限ループは、幸福そのものだった。 「……そんなに泣く程?」  くんが呆れ顔で言う。兄貴さんは「分かる、分かるよ、工くん。愛と云う名のスパイスが、素材の旨味を極限まで引き出しているんだね」と一人で納得していた。 「良かった。工くんの口に合ったみたいで」  名前は心底ほっとした様子で、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。  食事が終わり、くんが「俺はゲームの続きがあるから」とリビングを去り、兄貴さんが「さて、新たな物語の神を降ろしに行くか。『鯖の味噌煮の騎士と、塩むすびの姫君の逃避行』だ」と書斎に戻れば、その場には、俺と名前の二人だけが残された。  夕陽が窓から射し込み、名前の髪を蜂蜜色に縁取っている。俺は言葉にならない感謝と愛情をどう伝えればいいのか分からず、只、彼女の手を握り締めた。 「名前、本当にありがとう。人生で一番美味かった」 「ふふ、大袈裟だよ」 「大袈裟じゃない! 本当に! だから……その、毎日でも……」  言い掛けて、俺はハッと口を噤んだ。名前がどれだけ心を込めて、慣れない料理をしてくれたのか。それを理解していながら、軽々しく「毎日」なんて、余りに無神経だ。 「ごめん、今の……」 「いいよ」  俺の謝罪を遮り、名前は切なげに微笑んだ。 「毎日、工くんの胃袋を掴んでしまったら、きっと、直ぐに飽きてしまうから」 「そんなこと、絶対にない!」 「……だからね、少しずつ。工くんの好きなものを、一つずつ覚えて、作れるようになっていきたいんだ。時間は沢山あるから」  ――Love me little, love me long.  ――長く愛してほしいなら、少しだけ愛しなさい。  どこかで聞いた一文が、ふと頭を過った。  名前がくれたのは、美味しい手料理だけじゃない。これから先、二人で積み重ねていく、温かくて、穏やかで、果てしない未来への約束も含まれているんだ。  俺は込み上げる愛しさに耐え切れず、名前の華奢な身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。 「……俺、名前が居ないと、もう駄目みたいだ」  腕の中で、名前が小さく頷く気配がした。 「うん。わたしも、工くんが居ないと、とっくに駄目だよ」  重ねた唇は、カレイの煮付けよりも、ずっと甘い味がした。俺達の長く続く物語は、この甘辛い記憶と共に、また新しい一ページが開かれたのだ。