魔女はお菓子を悪戯に変える
十月最後の夜が、どこかの街を橙色と紫色のグラデーションに染め上げていた。宮城県の澄んだ空気は、既に冬の気配を纏い始め、吐く息が白く輪郭を描いては霧散する。俺、五色工は、白鳥沢学園のジャージの襟を立て、悴む指先を温めようとポケットに突っ込んだ。
商店街のショーウィンドウには、陽気な骸骨や、牙を剥くカボチャのランタンが飾られ、仮装した子供達の甲高い笑い声が冷たいアスファルトに反響している。世間はハロウィンと云う、異国の祭りに浮かれているらしい。普段なら「そんなものより、練習だ」と一蹴してしまいそうな喧騒も、今日ばかりは心地良かった。何故なら、行く道の先に、俺の恋人――苗字名前が待っているからだ。
『明日は、小さなハロウィンパーティーをしよう』
昨日、彼女から届いた簡潔なメールの文面を思い出すだけで、心臓がバレーの試合終盤みたいに激しく脈打つ。寮生活の俺にとって、名前と過ごす時間は何よりの褒美であり、明日への活力だった。特に、彼女の住むマンションは別世界への入口めいており、苗字家と管理人以外に住人が居ないと云う不思議な建物で、静寂が支配する長い廊下の先に、名前の部屋である聖域が存在する。
エントランスの暗証番号を打ち込み、重厚なガラス扉を潜る。人の気配がしない、しんと静まり返ったロビーを抜け、エレベーターで最上階へ。一度、目的の扉前で深呼吸をしてから、チャイムを鳴らす。直ぐに微かな足音が聞こえ、カチャリと鍵が開けられた。
「いらっしゃい、工くん」
そこに立っていたのは、俺の知らない名前だった。
いや、勿論、名前本人なのだが、いつもと雰囲気が全く違う。彼女は夜闇を丸ごと紡いだような、シンプルな黒いワンピースを身に纏っていた。普段、下ろされていることが多い艶やかな髪は緩く編み込まれ、片方の肩に流されている。頭には、控え目な尖がり帽子。物語から抜け出してきた、美しい魔女みたいだった。
「先頭文字、名前……! そ、その格好は……!」
「ふふ、魔女のつもり。どうかな?」
悪戯っぽく小首を傾げる仕種に、心臓が鷲掴みにされる。夜の海を溶かし込んだ静かな双眸が、楽しそうに揺れていた。
「に、似合ってる! 凄く! 奇跡を起こしてこそのエース、……じゃなくて、魔女だな!」
「ありがとう。そろそろ、中に入って。外は寒かったでしょう」
我ながら意味不明なことを口走ってしまったが、名前は気にした素振りもなく、俺を家へと招き入れた。彼女が動く度、ふわりと甘く清潔な香りが鼻腔を掠める。
部屋の中も、名前の魔法に掛かっているようだった。ローテーブルには蜘蛛の巣を模したレースが敷かれ、小さなカボチャのオブジェや、黒猫のキャンドルが置かれている。壁はコウモリのガーランドで飾られ、温かみのある間接照明が幻想的な影を落としていた。そして、ダイニングテーブルの中央には、湯気の立つシチューやサラダ、こんがりと焼かれたキッシュが並んでいる。全てが、俺の為に用意されたのだと思うと、胸の奥から熱いものが込み上げる。
「凄い……全部、名前が?」
「うん。兄貴兄さんが『腹を空かせた若き翼竜の胃袋を満たすには、これくらい必要だろう』って、食材を沢山買ってくれたから」
「翼竜……」
名前の兄、兄貴さんは時々、俺を独特な言葉で表現する。会う度に変な文字入りの服を着ている風変わりな人物だが、名前を心から大切にしている、優しい人だ。
二人でテーブルに着き、名前の手料理に舌鼓を打つ。他愛もない学校の話、部活の話、次に観たい映画の話。名前は相槌を打ちながら、俺の雑談を静かに聴いてくれる。彼女と一緒に居ると、試合中の高揚感とはまた違う、穏やかで満たされた気持ちになる。日頃の猛練習で張り詰めた心身が、緩やかに解きほぐされていくのが分かった。
食事が一段落した頃、名前はキッチンへ向かい、デザートを手に戻ってきた。銀の皿に載せられているのは、濃厚なチョコレートの色をしたブラウニーだ。粉砂糖が雪のように降り掛かり、傍らには熟れたベリーが添えられている。
「美味そうだな」
「ハロウィン限定の、特別なデザートだよ。ねぇ、工くん。こんな言い伝えを知っている?」
「言い伝え?」
名前はフォークを片手に、意味深に微笑んだ。窓の外で揺れる葉陰が、白い頬を掠める。
「魔女はね、お菓子を悪戯に変えるんだ」
彼女の一言が、呪文のように響いた。名前が言うと、どんな冗談も真実味を帯びてしまうから不思議だ。俺はゴクリと喉を鳴らし、目の前のブラウニーを見つめた。
「悪戯、って。どんな?」
「さあ。食べてみないと、分からないんじゃないかな」
促されるまま、俺はフォークでブラウニーを一口大に切り分け、口に運んだ。瞬間、濃厚なカカオの馨りと共に、舌の上で蕩けるような甘さが広がった。しっとりとした生地の中に混ぜ込まれたナッツの食感が、良いアクセントになっている。
「美味い! 凄く美味しい!」
「良かった。……それで、どんな味がする?」
「え? うーん、凄く濃厚で……カカオの風味が確りしてて、甘さも丁度いい。今まで食べたどんなチョコレートケーキより、これが一番だ!」
「ふふ。悪戯には、もう気づいた?」
問い掛けの意味が理解できず、俺は首を傾げた。悪戯? 何か変わったものでも入っていたのだろうか。まさかの、その他とか。いや、それは、名前の嫌いなものか。
考え込む俺を見て、名前は楽しそうに諸目を細めた。そして、悪戯の答えを教えてくれる。
「そのブラウニーにはね、食べると、正直な気持ちしか言えなくなる魔法を掛けたんだ」
「――は?」
一瞬、思考が停止した。魔法? 正直な気持ちしか言えなくなる?
馬鹿な、そんな非科学的なことがある筈ない。きっと、ハロウィンに因んだ、名前流のジョークだろう。そう高を括っていた。
「わたしのこと、今、どう思ってる?」
じっと、俺の目を見て訊ねる。吸い込まれそうな瞳に見つめられ、俺はいつものように、当たり障りのない、それでいて、愛情が伝わる言葉を選ぼうとした。可愛いとか、好きだとか、そう云うワードを。
しかし、俺の口から飛び出したのは、全く制御不能な、心の奥底からの叫びだった。
「世界で一番可愛いと思ってる! その魔女の格好も、反則なくらい似合ってて、さっきから心臓が煩くて、練習より疲れる! て云うか、もう結婚したい! こうして、名前の作った飯が毎日食いたいし、毎晩、隣で寝たい! スパイクを決めた時より、名前が笑ってくれる方が、何百倍も嬉しいんだ!」
堰を切ったように溢れ出す、本音の奔流。しまった、と思った時には、もう遅い。勢いは止まらず、俺の脳内を赤裸々に暴露していた。
「あ、いや、ちがっ、今のはその、心の声と云うか……!」
俺は慌てて、両手で自分の口を塞いだ。顔から火が出るとは、正にこの事だ。茹で上がったタコのように、全身が真っ赤になる感覚。何だ、これは!? 本当に魔法なのか!?
名前は肩を小さく震わせながら、口許を隠し、くすくすと笑っていた。その姿すら愛らしく、また叫び出しそうになる衝動を、必死に堪える。パニックに陥る俺を、彼女は楽しそうに見つめていた。
目の前で、工くんが見る見るうちに朱で染まっていく。大きな身体を縮こまらせ、自分の口を懸命に塞ぐ様は、大型犬が叱られることに怯えているみたいで、どうしようもなく愛おしかった。わたしは込み上げる笑いを抑えながら、この可愛らしい騒動の顛末を静かに見守っていた。
勿論、お菓子に魔法なんて掛けていない。
只のチョコレートブラウニー。レシピ通りに心を込めて作っただけ。
でも、工くんはとても素直で、真っ直ぐな人だから。『魔法を掛けた』と云う、ほんの少しの暗示と切っ掛けを与えるだけで、普段は照れから言えないような言葉を贈ってくれるのでは、と淡い期待を抱いていた。結果は、わたしの想像を遥かに超えるものだったけれど。
『世界で一番可愛い』
『結婚したい』
『スパイクを決めた時より嬉しい』
工くんの口から紡がれる、飾り気のない、何よりも雄弁な愛の言の葉達。一つひとつが熱を帯びた雫みたいに染み渡り、心の内側からじんわりと温められる。余り揺らぐことがない感情の湖面に、彼と云う存在の投じた小石が、美しい波紋をどこまでも広げていくようだった。
「工くんは本当に素直だね」
漸く笑いが収まり、そう声を掛けると、彼はビクリと肩を揺らした。未だに口許を塞いだまま、こちらを潤んだ眼で窺っている。必死な表情に愛しさが募った。
「先頭文字、名前! この魔法、どうやったら解けるんだ!? 明日の朝練で、牛島さんに『貴方のストレートより、俺の方がキレッキレです!』とか、正直に言っちまったらどうするんだ!」
「ふふ、大丈夫。それは、いつも言っていることだよ」
「ぐっ……! そ、それはそれ、これはこれだ!」
あたふたする彼に、わたしは椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいた。工くんの顔を覗き込むようにして囁く。
「魔法を解く方法が、一つだけ在るよ」
「本当か!? どんな方法だ!?」
藁にも縋る思い、と云った形相の彼に、わたしは悪戯な魔女のように微笑んでみせた。
「魔女のキスだよ」
工くんの大きな双眼が、驚きに見開かれる。その隙を逃さず、わたしは上体を屈ませ、彼の唇に自分のそれを重ねた。触れた瞬間、甘いチョコレートの芳香がふわりと混じり合う。最初は緊張していた彼の身体から、力が抜けていくのが分かった。そっと口唇を離し、彼の頬に手を添える。
「……もう、大丈夫だよ」
そう告げると、工くんは恐る恐る、確かめるように呟いた。
「……名前が、好きだ」
そして、はっとした顔で、再び口を押さえる。
「あ! まだ言ってしまう!」
「それは魔法の所為じゃない。工くんの意思だよ」
わたしの指摘に、彼は雷に打たれたように固まった。軈て、自分から出た言葉が、誰かに言わされたものではなく、紛れもない自身の選択だったと理解したらしい。彼の頬は更に深く、燃える赤色に染まった。
純粋な反応が、堪らなく愛おしい。
わたしは彼の大きな手を取り、指を絡めた。
「Treat for Trick」
わたしの囁きに、工くんは不思議そうな面持ちになる。
「悪戯をされたお返しに、お菓子をくれないかな」
お菓子、と云う単語に含ませた、甘やかな響き。それが伝わったのか、工くんの鋭い眼差しが熱を帯び、わたしを捉えた。魔法に戸惑う男の子ではなく、一人の雄としての強い光が宿っている。
夜空では、ハロウィンの月が、静かに町を照らしていた。室内のランプの温かな灯りが、これから始まる二人だけの夜を優しく包み込んでいる。魔女の悪戯は、最高に甘いお菓子へ変わる予感がした。