黒服のレディ
十月三十一日。カレンダーの数字が、街の空気を普段よりも浮つかせている。教室の窓から見える欅並木は、夏の濃緑をすっかり手放し、乾いた喝采みたいな音を立てていた。ハロウィン。その一語だけで、クラスメイト達の会話も心成しか弾んでいるように聞こえる。
「トリック・オア・トリート、名前ちゃーん!」
背後から響いたのは、鼓膜を揺さぶる太陽みたいな声音。振り向かなくても誰だか分かる。私の恋人、木兎光太郎くんだ。彼の声なら、どんな喧騒の中でも正確に探し当てられる。
「はい、光太郎くん。お菓子をどうぞ」
振り返り、鞄から小さな包みを掬い上げるようにして差し出す。今朝、実家のパン屋『Bakery Cotorie An』で焼いた、南瓜の種を梟の目みたいにあしらったミニクッキーだ。彼は「お、サンキュ!」と大きな掌でそれを受け止めると、包装を秒で破き、一口で頬張った。頬を膨らませ、「うめー!」と笑う顔はリスを想起させ、高校生と云うより、もっとずっと幼い生き物に見える。
「今日の放課後! 部活終わったら、直ぐ行くから。駅前の時計台のとこで待ってて!」
「うん、分かった。練習、頑張ってね」
「おう! 名前ちゃんにカッコイイとこ見せる為にも頑張る!」
ヘイヘイヘーイ! と上機嫌に自分の席へ戻る背中を見送りながら、私は短く息を吐いた。光太郎くんの存在は、穏やかな水面に投じられた石のようだ。静謐な心に、幾つもの幸福な波紋を広げる。
放課後、一旦帰宅し、店の手伝いを短時間で済ませる。カウンターの隅に『決戦前夜のカーボローディングセット』と名付けた惣菜パンやゼリーの詰め合わせを並べ、自室へと向かった。
今日のデート。ハロウィンだから、いつもと違う自分になってみたかった。
クローゼットの奥から取り出したのは、一枚の黒いワンピース。普段、好んで着る温白色や淡いアースカラーとは、正反対の色。少し前に、姉から「あんたも、偶にはこう云うの着なさいよ」と半ば強引に買わされたものだ。細いベルトでウエストをマークする、些か背伸びしたデザイン。滑らかな生地が肌を伝う感覚は、何だか落ち着かない。
鏡に映る自分は、着慣れない所為か他人のようだった。髪も、高い位置で結んでいたシュシュを外し、サイドを一寸だけ編み込んで、緩く下ろしてみる。仕上げに、ドレッサーの引き出しから小さなスティックを手に取った。カシスとローズが混じり合った、甘くもどこか蠱惑的な香りのリップ。愛用中のシトラスミントの爽やかさとは異なる、夜の色彩を纏ったフレーバー。これが、私の"安心のスイッチ"になるかは、まだ分からない。
――遣り過ぎたかな。
一抹の不安が胸を過る。光太郎くんは、いつもの私の方が好きかもしれない。でも、彼の驚いた顔が見てみたい、と云う仄かな悪戯心が憂いを上回った。大丈夫。もし変だったら、正直に言ってくれる筈だ。彼はそう云う人だから。
約束の時間、駅前の時計台の下で、光太郎くんを待つ。街は夕闇に染まり始め、南瓜のランタンやゴーストの装飾が、オレンジ色の光を灯していた。仮装した子供達の楽しそうな声が遠くに聞こえる。
軈て、聞き慣れた大声が雑踏を切り裂いて飛んできた。
「名前ちゃーん! お待たせー!」
声のした方へ視線を向けると、梟谷のジャージを着た彼が、大きな身体を揺らしながら走ってくるのが見えた。その姿を認め、自然と口許が綻ぶ。
ところが。
私の恰好が、彼の視界へ完全に入った瞬間、光太郎くんの動きがコマ送りの映像みたいにぎこちなくなり、遂にぴたりと止まった。勢い余って、数歩よろめいたものの、私との距離を五メートル以上も残したまま、彼は立ち尽くしている。
「……光太郎くん?」
呼び掛けると、彼はびくりと肩を跳ねさせた。桑染色の瞳が、初めて見る生き物でも観察するかの如く、私を上から下まで、ゆっくりと、何度も往復する。いつものように「ヘイヘーイ!」と駆け寄っては、私の頭をわしわしと撫でることも、ぎゅっと抱き締めてくれることもない。
「……お、おう」
漸く絞り出された声は酷く掠れていた。光太郎くんは気まずそうに視線を彷徨わせ、首の後ろをがしがしと掻いている。
何かが、おかしい。
歩き出しても、奇妙な距離感は変わらなかった。普段なら、既に繋がれている筈の手は、所在なげに宙を揺蕩い、私達の間には、見えない壁でも在るかのように、人一人が通れるくらいの空間が出来ている。
「あの、今日の服……変、だったかな」
耐え切れずに尋ねると、光太郎くんは「えっ!? いや、そんなことは……!」と慌てたように、首を横に振る。けれど、決して、目を合わせようとしない。
日頃の彼なら「名前ちゃん可愛い! 世界で一番!」「今日の服も、すげー似合ってる!」と、こちらの頬が熱くなる言葉を、何の衒いもなく投げ付けてくれるのに。
今日は、何もない。称賛も、揶揄いも、何一つ。
沈黙が冷たい雨と成り、私の心に降り注ぐ。折角、勇気を出したのに。光太郎くんに喜んでほしかっただけなのに。大人びた黒なんて、私には似合わなかったんだ。背伸びし過ぎた、滑稽なピエロにしか見えていないのかもしれない。
じわり、と目の奥が熱くなる。俯いた視界に映るのは、不格好な黒いワンピースの裾と、光太郎くんとの間に広がる、埋めようがないアスファルトの灰色だけだった。
部活終わりの身体は心地良い疲労感に満ちていた。赤葦に「木兎さん、浮かれ過ぎて転ばないでくださいよ」と釘を刺されたが、浮かれるなと云う方が無理な話だ。だって、今から、名前ちゃんとデートなんだから!
練習後のクールダウンもそこそこに、俺は駅へと全力疾走した。早く逢いたい。名前ちゃんの顔が見たい。あの柔らかい声が聞きたい。
「名前ちゃーん! お待たせー!」
雑踏の中に探し人を見つけた。時計台の下に佇む、見慣れた、それでいて、全く見慣れないシルエット。
瞬間、俺の足は急ブレーキを掛けた。
(……え、誰?)
いや、名前ちゃんだ。間違いなく。でも、何か違う。
いつものふわりとした、温白色の雰囲気じゃない。そこに立っていたのは、夜の闇を丸ごと切り取って仕立てたような、滑らかな漆黒を纏う一人のレディだった。
風に揺れる髪。普段より、色気を増した唇。しなやかな首筋から続く鎖骨のラインを、黒い服が意地悪く縁取っている。
ふわりと秋風に乗って届く、未知の甘い香り。
ズキュウウウン!!!
脳内で、聞いたことのない効果音が鳴り響いた。心臓が、勝利へのラスト一本を決めた時よりも激しく脈打つ。ヤバい。これは、ヤバい。
可愛いとか、綺麗とか、そう云う言葉が全て陳腐に感じるくらい、目の前の名前ちゃんは、俺の知らない"女の人"の顔をしていた。
「……光太郎くん?」
声を掛けられて、俺は我に返った。やべえ、見惚れてた。
駆け寄ろうとした足が動かない。何故なら、俺の身体は正直だからだ。思春期特有のどうしようもない現象が、今まさに最大級の警報を鳴らしている。こんな状態で迂闊に近づいたら、抱き締めでもしたら、俺は、俺でなくなってしまうかもしれない。
「……お、おう」
何とか返事を絞り出すのが精一杯だった。
歩き出しても、隣を行く名前ちゃんを直視できない。ちらりと盗み見た横顔が街のネオンに照らされて、余りにも綺麗で、また心臓が煩くなる。手を繋ぎたい。でも、触れたら最後、理性の糸がぷっつりと切れてしまうだろう。
俺は必死だった。脳内で「心頭滅却! 心頭滅却! 心頭滅却って、どう書くんだっけ!?」と叫びながら、バレーボール部の憲章を暗唱しようと試みる。駄目だ、全然集中できねえ。
ちら、と名前ちゃんの顔を窺うと、いつの間にか俯いて、しょんぼりしていた。
(……あ)
しまった。俺の態度、絶対おかしいよな。もしかして、嫌われたと思ってる? 服が変だって、俺が引いたって勘違いしてる?
違う。違うんだ、名前ちゃん。
変なわけない。寧ろ逆だ。逆過ぎて、俺の語彙力と理性が完全にキャパオーバーしてるだけなんだ。
でも、なんて伝えればいい?
「今日の名前ちゃん、なんかエロくて直視できねえ」なんて、口が裂けても言えるか!
萎れたように揺れる髪。その姿が、俺の胸をナイフみたいに抉る。
ダメだ。このままじゃダメだ。俺は梟谷の主将で、エースだぞ。こんなところでしょぼくれてどうする! ここで決めなきゃ、いつ決めるんだ!
「……名前ちゃん、こっち」
俺は意を決して、名前ちゃんの手首を掴んだ。いつもより熱く感じる肌にどきりとしたが、もう構わない。人気の少ない、ビルの間の路地へと彼女を引き込む。
ドン、と壁に手を突いて、退路を塞ぐ。所謂、壁ドンってヤツだ。黒尾辺りに見られたら「姉ちゃんの少女漫画、読み過ぎ」と笑われそうだが、今はそんなこと、どうでもいい。
「……あのさ、名前ちゃん」
不安そうに見上げてくる、潤んだ瞳。ああ、クソ。可愛い。
俺は一度、ぐっと息を吸い込んだ。顔中が燃えるように熱い。でも、言うしかない。
「今日の服……! すげー……綺麗で……! 可愛くて……! なんか、その……いつもと違って、心臓に悪い……!」
発声がしどろもどろになる。でも、続ける。
「だから、あんま近づけなかった……! ごめん! 変とか、似合ってないとか、そんなんじゃ全然なくて! 寧ろ逆! 逆なんだよ!! 俺の処理能力が追い付いてなかっただけなんだよ!!」
必死に訴える俺を、名前ちゃんはぽかんと見つめていた。そして、数秒の沈黙の後。
ふ、と彼女の唇が綻び、軈て「くすくす」と鈴を鳴らすような笑い声が路地に響いた。
「なんだ、そうだったの」
安心したように笑う彼女の表情を見て、俺は全身から力が抜けるのを感じた。
「笑うなよ! こっちはマジで、試合より緊張したんだからな!」
「ごめんなさい。でも、嬉しい。……光太郎くんに、そう思ってもらえて」
そう言って、名前ちゃんはそっと、俺の頬に片手を添えた。小さくて、温かい手の平。
「もう、大丈夫?」
悪戯っぽく首を傾げる彼女に、俺は天を仰いだ。
「……ぜんっぜん、大丈夫じゃねえ!!」
それでも、俺はその手を絶対に離さないと誓って、強く握り締めた。
「でも、離さねえからな!」
「ふふ。……トリック・オア・トリート、光太郎くん」
夜の匂いを纏った彼女が、お道化たように囁く。お決まりの言葉に、俺の最後の理性が音を立てて砕け散った。
「お菓子ないし、名前ちゃんに悪戯してほしい」
気づけば、欲求が口を衝いて出ていた。名前ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、今まで見た中で一番綺麗に、花が咲くように微笑んだ。
「じゃあ、トリックで」
甘いカシスの香りが鼻先を掠める。ハロウィンの夜は、まだ始まったばかりだ。