魔女はお菓子を悪戯に変える

「じゃあ、トリックで」  囁かれた言葉は甘い毒のように、俺の鼓膜から染み渡り、思考回路を痺れさせた。  路地裏のコンクリートの壁はひやりと冷たいのに、名前ちゃんに触れられていた頬と、彼女を囲う腕の内側だけが発火したみたいに熱い。遠くで鳴り響く雑踏のサイレンさえ、この状況を煽る為のBGMに聞こえた。  トリック。悪戯、か~。  一体、どんな悪戯をされるって云うんだ。俺の脳細胞が、フル回転で予測を立て始める。キスされる? いや、それじゃご褒美だ。なら、擽りの刑とか? それとも、俺の弱点を把握してて、そこを突かれるとか?  思考が迷走する俺を置き去りにして、名前ちゃんは悪戯っぽく目を細めた。普段の陽だまりみたいな、穏やかな微笑みじゃない。月光を浴びて妖しく咲く、夜の華みたいな笑みだ。  名前ちゃんは、ゆっくりと背伸びをした。可愛い顔が、俺の視界を占拠する。カシスとローズの香りが濃密になって、呼吸の仕方を忘れそうになった。艶々と潤んだ唇が、僅かに開き、近づく。  ――来る。  俺は覚悟を決めて、ぐっと両目を瞑った。勝利を決める最後のスパイクを打つ瞬間みたいに、心臓が喉元までせり上がる。  だが、待てど暮らせど、柔らかな感触は訪れない。  代わりに、ぞくりとするような温かい息が、右の耳朶を撫でた。 「……光太郎くんの、そう云う顔。もっと見たいな」  吐息と共に紡がれた声は、鼓膜を直接震わせる凶器だった。  ズキュウウウン、なんて生易しいもんじゃない。ドッゴオオオオン!!! と、脳天に稲妻が直撃したような衝撃。ヤバい。これは本当にヤバい。 「……っ、先頭文字名前ちゃん……」 「なあに?」  俺がしどろもどろに名前を呼ぶと、彼女は楽しそうに喉を鳴らした。完全に遊ばれてる。この小さな魔女に、まんまと手玉に取られている。  名前ちゃんの細い指が、今度はジャージのジッパーの金具を弄び始めた。ちり、と冷たい金属が首筋に触れる。その些細な刺激にすら、身体が過剰に反応してしまう。 「さっきまでの光太郎くん、ずっと変だったから。私、嫌われちゃったのかと思って、ちょっと悲しかったんだよ」  拗ねたような声音で、俺の鎖骨の窪みをなぞる。指先の軌跡に沿って、鳥肌が立った。  違う、違うんだ。嫌うどころか、好き過ぎて、俺のCPUが処理落ちしてただけなんだ! そう叫びたいのに、声が出ない。喉がカラカラに乾いて、意味のある言葉を紡げなかった。 「だから、これは仕返し。……悪戯、まだ足りない?」  俺を見上げる瞳は潤み、蕩けるように甘い光を宿している。皆の知らない名前ちゃんだ。俺だけに見せてくれる、特別な顔。  その事実が、猛烈な独占欲を掻き立てる。  ――ダメだ。もう限界だ。  エースとして、主将として、男として、ここで決めなきゃいつ決める。理性の糸が焼き切れる音が、確かに聞こえた。 「……っ、名前ちゃん、反則だ、それ……!」  俺は呻くように言うと、壁に突いていた手で、彼女の細い手首を掴んだ。驚きを浮かべ、見開かれる双眸。攻守交替のホイッスルが、俺の脳内で高らかに鳴り響く。 「俺が悪戯される番は、もう終わり!」  宣言すると同時に、名前ちゃんの腰をぐっと引き寄せた。小さな悲鳴が口から漏れる。逃がさない。今度は、俺の番だ。  さっき寸止めされた唇を、俺から塞ぎに行った。最初は強張っていた彼女の身体から、次第に力が抜けていく。カシスの香りに混じって、名前ちゃん自身の甘い匂いがした。  路地裏の薄闇が、俺達の共犯者みたいに、全てを隠してくれる。何度も重ねてきた筈なのに、今日のキスは全然違った。焦らされた分の熱が、全部、このキスに注ぎ込まれる。もっと深く。もっとこの子を、俺だけのものにしたい。そんな、我儘でどうしようもない欲求に、腹の底から突き上げられた。  どれくらい、そうしていただろう。どちらからともなく唇が離れ、互いの熱い吐息が白く交差した。銀色の糸が名残惜しそうに、俺達の間に引かれている。 「……は、……これが、俺からのトリート」  息も絶え絶えに告げると、名前ちゃんは真っ赤な顔で頷いた。俺を潤み切った眼差しで見つめ、満足そうにふにゃりと笑う。 「……私のトリック、効き過ぎちゃったみたいだね」 「そうだよ! 心臓、一個じゃ足りねえかと思った!」  大袈裟に言うと、名前ちゃんは「ごめんなさい」と謝りながらも、俺の胸元に嬉しげに額を擦り付けた。仕種が可愛過ぎて、鎮火し掛けた筈の何かが、また勢いよく燃え上がりそうになる。 「……もう一回」 「ふふ。それは、また今度のお楽しみ」  小悪魔は悪戯っぽく、俺の唇に人差し指を当て、優しく首を横に振った。  俺は天を仰いで、幸福な溜息を吐く。完敗だ。今日のところは、この可愛い魔女に白旗を上げるしかないらしい。  路地裏から出ると、入る前の気まずい距離が嘘みたいに、ぴったりと身体を寄せ合って歩いた。今度は迷わず、名前ちゃんの小さな片手を固く握り締める。 「来年のハロウィンは、覚えとけよ! 俺が、名前ちゃんを腰砕けにさせるくらいの、すげえ悪戯してやるからな!」 「えー、楽しみ。期待しないで待ってるね」  くすくすと笑う声が夜気に溶ける。  街のオレンジ色の灯りが、繋いだ手と、世界で一番可愛い俺の彼女の横顔を優しく照らし出していた。ハロウィンの夜は、まだ始まったばかりだ。いや、寧ろ、ここからが本番なのかもしれない。