俺のセンサーがビービービー!
「今日の俺、120点ッ……!!!」
体育館に、俺の声が木霊する。床を焦がす、キュ、と云うシューズの音、叩き付けられたボールが空気を引き裂く轟音、チームメイトの汗の匂い。その全てが混ざり合った熱気の中で、俺のゲス・ブロックが完璧に決まった時の高揚感は、何物にも代え難い。スパイクコースを読み切り、掌にボールが吸い付くあの瞬間、世界は俺の為だけに在るって、本気で思えるんだ。
「天童、うるせえ」
「若利くん、今の見た!? 俺の完璧な読み!」
「ああ。だが、声が大きい」
相変わらず、若利くんは温度の低い返事しかくれないけど、まあいい。この心地良い疲労感と達成感を胸に抱いて、俺は上機嫌で部活を終えた。汗を拭いて、寮へ戻ろうとした時、ポケットに入れていたスマホが控えめに震えた。画面に表示された名前は、たった一行。
『
名前』
その文字を見ただけで、俺の心臓はバレーの試合中みたいに煩く跳ね始める。さっきまでの高揚感とは質の違う、もっと甘くて、じわりと全身を痺れさせるような熱が込み上げる。俺の、世界で一番可愛くて、世界で一番ワケ分かんない恋人、
苗字名前。
『覚くん、今日、うちに来ない?』
短い文面。絵文字もなければ、感嘆符の一つもない。だけど、その無機質なテキストの向こう側に、静かな湖面を思わせる彼女の瞳が透けて見えるようで、俺の喉はカラカラに乾いていく。
思春期特有の現象、なんて生易しいもんじゃない。彼女を想うだけで、俺の身体中の細胞が沸騰しちゃうんだ。
『すぐ行く!!! チョコアイス買ってく!』
返信する指先がもどかしい。寮の自室に荷物を叩き込むように放り投げ、俺は弾かれたように駆け出した。
名前ちゃんと付き合い始めて、季節が一巡りした。
俺達は、お互いが初恋で、初めての人だった。彼女の何もかもが俺のもので、俺の何もかもが彼女のもの。物理的な距離なんて、とっくの昔にゼロになった筈なのに。
時々、どうしようもなく、
名前ちゃんを遠くに感じることがある。
手を伸ばせば触れられる距離に居るのに、その心の内側だけが、深い霧に包まれた森の奥みたいに見えなくなる。俺のゲスは、コートの上では冴え渡るのに、彼女の心を読むことに掛けては、見当違いの方向に跳んじまうみたいに、尽く空振るんだ。
恋までの距離。
ゼロの筈なのに、無限に感じるこの距離は、一体、なんなんだろうな。
そんなことを考えながら、俺は
名前ちゃんが住むマンションの前に辿り着いた。
いつ来ても異様な建物だ。町の中心部に聳え立つ、やけにモダンで巨大なコンクリートの塊。エントランスの表札は全て無記名で、明かりが灯っているのは、
苗字家と管理人の部屋だけ。この世から切り離された孤島みたいだ。
インターホンを鳴らすと、すぐに「どうぞ」と云う彼女の澄んだ声が聞こえて、重厚なガラスのドアが開いた。静寂に包まれたエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。その間も、俺の心臓はずっと煩いままだった。
「いらっしゃい、覚くん」
ドアを開けてくれた
名前ちゃんは、いつも通りだった。
夜の海を溶かして閉じ込めたような、どこまでも深い色の瞳。血の気と云うものを感じさせない程に透き通った白い肌。ほんのりと色づいた薄い唇。精巧に作られたビスクドールみたいに完璧な美しさと、どこか人間離れした無機質さが同居している。そのアンバランスさが、俺を狂わせる。
柔い髪がさらりと耳から滑り落ちる様を、俺はただ見惚れて眺めていた。
「ただいま、
名前ちゃん」
買ってきたチョコアイスの袋を差し出すと、彼女は「ありがとう」と言って受け取り、ふわりと花の蜜みたいな甘い香りをさせた。その香りに引き寄せられるように、俺は彼女の華奢な身体を腕の中に閉じ込める。
「ん……覚くん、汗の匂いがする」
「部活帰りだからね~! 男の勲章でしょ?」
「ふふ、そうだね。でも、わたしはこの匂い、嫌いじゃないよ」
擽ったそうに笑いながら、俺の胸に頭を預ける。この瞬間が堪らない。俺だけの特権。俺だけの
名前ちゃん。さっきまで感じていた心の距離なんて、一瞬で忘れちまう。
もっと、もっとだ。もっと、
名前ちゃんを感じたい。俺は彼女の髪に鼻先を埋めて、その匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。拒まれることなんてないと知っているから、少しだけ大胆に、耳朶に唇を寄せた、その時だった。
「あ、そうだ。覚くん、
兄貴兄さんが呼んでいたよ。リビングに居る」
ピタリ、と俺の動きが止まる。
ギギギ、とブリキの玩具みたいに顔を上げると、
名前ちゃんは相変わらずの涼しい面差しで、俺を見上げていた。
「……
兄貴くんが?」
「うん。『面白い恋人くんを連れてきなさい』って」
名前のお兄さん、
苗字兄貴。
妹を溺愛する、ちょっと(いや、かなり)変わった作家さんだ。初めて会った時、「君は面白い子だね。俺の物語の登場人物にしたいくらいだ」と真顔で言われたのを思い出す。気に入られてるのは嬉しいけど、あの人の「面白い」は大体、厄介事の始まりを意味するんだ。
俺のゲスが警報を鳴らしている。ビッ、ビッ、ビッ! ヤな予感がする!
「えー、今? 俺、
名前ちゃんといちゃいちゃしたいんだけど」
「すぐ済むと思う。わたしも一緒に行くから」
そう言って、俺の手を引く
名前ちゃんの力は弱々しいのに、不思議と逆らえない。細い絹糸で手繰り寄せられるみたいに、俺はリビングへと導かれた。
重厚なマホガニーの扉の前で、
名前ちゃんがこくりと頷く。俺は深呼吸を一つして、覚悟を決めた。
「失礼しまーす……」
扉を開けた瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
広いリビング。天井まで届く本棚。窓の外には星空が広がり、その手前には、見るからに高級そうな革張りのソファ。
そして、そのソファに、王様みたいに踏ん反り返って座っている、一人の男。
但し、全裸で。
「………………は?」
口から零れたのは、そんな間抜けな音だった。
見間違いか? 疲れてんの、俺。いや、違う。何度見ても、そこに居るのは
名前のお兄さんで、その身体には一片の布も纏われていなかった。長い脚を組み、肘掛けに片腕を乗せ、何か深遠な思索にでも耽っているかのような表情で、虚空を見つめている。完璧な彫刻のような肉体美が月明かりに照らされて、妙な芸術性を帯びていた。
「やあ、覚くん。待っていたよ」
俺の存在に気づいた
兄貴くんが、実に優雅な動作でこちらを向いた。その涼やかな美貌と、下半身のありのままの姿とのギャップが凄まじ過ぎて、俺の脳の処理能力は完全に限界を超えた。
「な、ななな、何してるんですか、
兄貴くん!? 服! 服はどこ!?」
「服? ああ、今、俺は生まれ落ちたままの姿で、世界の真理と向き合っているんだ。衣類と云う名の虚飾を剥ぎ取り、魂の本質に触れようと試みている」
何を言っているんだ、この人は。
俺が混乱の余り口をパクパクさせていると、隣の
名前ちゃんが至って冷静な声で言い放った。
「
兄貴兄さん。風邪を引くよ。それに、覚くんが困っている」
「む……そうか。それは済まないことをしたね、覚くん。だが、これも創作の為なんだ。次の物語は、"解放"をテーマにした、裸の王様を主人公にしようと思っているんだよ」
そう語って、悪びれもなく笑う
兄貴くんに、俺はもうツッコむ気力も湧いてこなかった。
名前ちゃんは溜め息一つ吐かず、近くのハンガーに掛かっていた黒いバスローブを手に取ると、兄の肩にふわりと掛けた。
「取り敢えず、これを着て。話はそれから聞く」
「ああ、ありがとう、
名前。君の優しさが、兄の魂を潤すよ」
ごく自然にバスローブを羽織り、何事もなかったかのようにコーヒーを啜り始める
兄貴くん。そして、その異常な光景を日常として処理している
名前ちゃん。
ああ、そうか。
この家では、これが普通なんだ。
俺の常識とか、世間の当たり前とか、そんなものはここでは一切通用しない。ゲス・ブロックで相手の思考を読む? 無理だ。この人達の思考は、銀河系の彼方くらい遠い。
「それで、覚くん。君に訊きたいことがあったんだ」
「……は、はい。なんでしょうか」
「君にとって、恋とは一体なんだい?」
全裸で哲学を語っていた男が、今度はバスローブ一枚で恋を問うてきた。カオスだ。カオス過ぎる。
俺は必死に頭を回転させた。恋とは?
名前ちゃんのこと。彼女に逢えるだけで嬉しくて、触れたら蕩けそうで、でも、時々凄く不安になる、この感情のこと?
「えーっと……ジェットコースター、みたいな?」
「ほう、ジェットコースター」
「すっげー楽しくて、ドキドキして、でも偶に、落ちる時みてーに怖くなる、みたいな~……感じです」
我ながら陳腐な答えだと思ったが、
兄貴くんは「ふぅん」と面白そうに目を細めた。
「成る程。実に、君らしい答えだ。ありがとう、参考になったよ。さて、俺は仕事に戻る。
名前、覚くんとゆっくり過ごしなさい」
そう言うと、
兄貴くんは現れた時と同じく、嵐のように去っていった。
残されたのは、静寂と、俺と、
名前ちゃんと、ソファに残る微かな温もりだけだった。
「……ごめんね、覚くん。兄が変なことをして」
ぽつりと、
名前ちゃんが謝った。俺はまだ放心状態から抜け出せずにいたけれど、彼女のその声にハッと我に返った。
「い、いや! 全然! 流石、
兄貴くんだなって! 発想が凡人とは違う!」
「そうかな」
「そうだよ! あの……
名前ちゃん、いつもあんな感じなの? お兄さん」
恐る恐る尋ねると、
名前ちゃんは少しだけ考える素振りを見せてから、こくりと頷いた。
「そうだね。昔から、ああ云う人だよ。自分の世界に没頭すると、周りが見えなくなる。でも、悪い人じゃないんだ」
「うん、それは知ってる。知ってるけど……心臓に悪い……」
俺がへなへなとソファに崩れ落ちると、
名前ちゃんが隣にそっと座って、俺の肩に頭を乗せた。さっきよりも近い距離。彼女の髪の匂いが、俺の荒ぶった神経を少しずつ鎮めていく。
「覚くんは、わたしと居て、疲れない?」
不意に、
名前ちゃんがそんなことを尋ねた。
その声は、いつもの澄んだ声とはちょっと違って、水面に落ちた雫のように、微かな揺らぎを含んでいた。
俺は彼女の方を向いた。深い色の瞳が、俺を不安気に見つめている。
ああ、そうか。
名前ちゃんも不安だったのか。
掴みどころがないのは、俺の方から見た彼女だけじゃない。彼女から見た俺だって、きっと同じなんだ。バレーに熱中して、大声で叫んで、かと思えば、急に真顔になる。そんな俺と一緒に居て、彼女なりに何かを感じていたのかもしれない。
俺は、さっきまでの混乱が嘘みたいに、心が凪いでいくのを感じた。
なんだ。俺達、同じじゃないの。
「疲れるワケないじゃん!」
俺は満面の笑みで、
名前ちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「寧ろ面白過ぎて、今日の俺、120点どころか200点ッ! でもさ」
一度、言葉を切る。そして、ずっと胸の奥に仕舞っていた本音を、そっと零した。
「でも、時々、
名前ちゃんがどこか遠くに行っちゃいそうで、怖くなる時がある。俺の手が届かない、凄く綺麗な場所に、一人でふわーって居なくなっちゃいそうで」
それは、俺の一番正直な気持ちだった。
俺の告白に、
名前ちゃんは少しだけ目を見開いた。そして、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。それは、俺が今まで見たどんな彼女の表情よりも、綺麗で愛おしかった。
名前ちゃんは何も言わずに、俺の手を取った。自分の細い指を、俺のゴツゴツした指に一本ずつ絡める。ぴったりと合わさった手の平が、じんわりと熱を持つ。
「わたしは、ここに居るよ」
静かな、芯の通った声だった。
「どこにも行かない。覚くんの隣に、ちゃんと居る」
その一言と、手の平から伝わる温もりだけで、俺の心は完全に満たされた。
さっきまで無限に感じていた距離が、一瞬でゼロになる。いや、違う。ゼロになったんじゃない。
この、触れ合っているのに測り切れない、もどかしくて、愛おしい距離。
この距離を一歩ずつ、時には大きく飛び越えながら、二人で埋めていく。それが、俺と
名前ちゃんの恋の形なんだ。
「
名前ちゃん」
「うん」
「……好きだよ」
「わたしも、覚くんが好きだよ」
絡めた指先に、きゅっと力が籠もる。
恋までの距離は、まだ測れない。
でも、それでいい。この果てしない道程を、君と二人で歩いていけるなら、それは世界で一番、幸せなことだから。
俺は彼女の手を強く握り返し、今度こそ、その薄桃色の唇に、自分のそれを重ねた。リビングの窓から差し込む月明かりが、そんな俺達を優しく照らしていた。