唇を離すと、吐息が混じり合う程の至近距離で、名前ちゃんの深い色の双眸と視線が絡んだ。月明かりを映した眸は、まるで静かな夜の湖面だ。さっきまで、俺の心臓を支配していた嵐のような感情が、その静けさに吸引されて、穏やかになる。 「……チョコアイス、溶けちゃうね」  俺が悪戯っぽく笑うと、名前ちゃんも「本当だね」と小さく微笑んで、俺の胸に頬を預けた。ソファに身を委ね、彼女の柔い髪の匂いを吸い込む。このまま時間が止まっちゃえばいいのに、なんて、柄にもないことを本気で思った。 「ねぇ、名前ちゃん」 「うん?」 「兄貴くんが、俺を『面白い恋人くん』って言ってたじゃん?」 「うん、言ってたね」 「俺、兄貴くんに初めて会った時のこと、思い出しちゃった」  そう、あれは確か、俺と名前ちゃんが付き合い始めて、まだ一月も経たない、春の風が少しだけ肌寒い日だった。
『覚くん、今日、兄が帰ってきているの。会ってみない?』  スマホの画面に映し出された、たったそれだけのメッセージ。俺は部活の帰り道、その場で天を仰いだ。  名前ちゃんの、お兄さん。  どんな人なんだろう。妹が連れてきた、真っ赤な髪を逆立てた長身の男を見て、どう思うだろうか。もしかしたら、鬼みたいな形相で「妹に近づくな!」なんて言われちゃうかもしれない。俺のゲスが、最悪のシナリオを次々と受信して、警報を鳴らしっ放しだ。  それでも断るなんて選択肢は、俺の中には存在しなかった。名前ちゃんの家族に会える。それは、彼女の世界にもう一歩、足を踏み入れるってことだから。 『是非! 会わせてください!』  心臓をバクバクさせながら返信して、俺はいつものコンビニで一番高そうな菓子折を買い、例の孤島みたいなマンションへと向かった。  インターホンを鳴らす指が、微かに震える。ドアを開けてくれた名前ちゃんは、淡い桜色のワンピースを着ていて、その可愛さに、俺の緊張は一瞬で吹き飛んだ。いや、違う種類の緊張に塗り替えられた。 「いらっしゃい、覚くん」 「お、お邪魔します……!」  手土産を渡すと、名前ちゃんは「ありがとう」と受け取り、俺をリビングへと案内してくれた。  重厚なマホガニーの扉。向こう側には、中ボスが待ち構えている。俺はゴクリと唾を呑み込んだ。 「兄貴兄さん、覚くんが来てくれたよ」  名前ちゃんの澄んだ声に促され、廊下から足を踏み入れた俺の目に飛び込んだのは、予想とは全く違う光景だった。  窓から射し込む西日が、部屋中を黄金色に染めている。天井まで届く本棚には、びっしりと本が詰まっている。そして、室内の中心、巨大なデスクを前に、一人の男が猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。  その男性こそ、名前ちゃんのお兄さん、苗字兄貴。  名前ちゃんに似た、怜悧な美貌。だけど、身に纏っているのは、ヨレヨレのスウェット。袖には、筆文字でデカデカとこう書かれていた。 『面白い話、降ってこい』  ……は?  俺の脳味噌は、その奇抜なファッションセンスを理解するのに、数秒を要した。鬼の形相も、威圧的なオーラもない。只、何かに取り憑かれたように液晶画面を睨み付け、指を動かし続ける男が居るだけだった。 「やあ」  俺達の存在に気づいたのか、お兄さんがゆっくりとこちらを振り返った。仕種は滑らかで優雅なのに、着ている服とのミスマッチ感が半端ない。彼は椅子を回転させ、俺の頭の天辺から爪先までを、値踏みするようにじっとりと眺めた。 「君が、名前の言っていた『面白い恋人』くんか」 「は、はい! 天童覚です! 宜しくお願いします!」  背筋を伸ばし、人生で一番綺麗な角度でお辞儀をする。俺のゲスは、この男の思考を読もうと、必死にアンテナを巡らせていた。だけど、深い霧の中みたいにちっとも掴めない。何を考えているのか、好意的なのか、敵対的なのか、全く分からない。こんな感覚は、コートの上でも味わったことがなかった。  お兄さんは、ふぅん、と一つ頷くと、突拍子もない質問を投げ掛けた。 「覚くん。君は、世界で一番美しい音は、何だと思う?」  美しい、音?  バレーボールが床に叩き付けられる轟音か? 完璧なブロックが決まった時の、相手の舌打ちか?  いや、違う。もっと、こう……詩的な答えを求められている気がする。俺は必死に頭を回転させた。 「えーっと……名前ちゃんの、オーボエの音、とか?」  隣に立つ名前ちゃんの顔を盗み見ると、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いていた。我ながら、100点満点の回答じゃないか?  ところが、お兄さんは表情一つ変えずに、静かに首を横に振った。 「違うな」 「えっ」 「世界で一番美しい音。それは、〆切間際の作家がキーボードを叩く音だよ。悲壮感と創造性が入り混じった、魂の叫びだ」  真顔で、とんでもないことを言い放った。  この人、ヤバい。  俺のゲスが結論を導き出した。お兄さんは、俺の常識が通用する相手じゃない。だったら、もう取り繕うのは止めだ。 「成程! 深いッスね!」 「だろう?」  俺が吹っ切れたように納得すると、お兄さんは初めて、唇の端を僅かに持ち上げた。 「君、面白いね」 「え?」 「君のその目、面白い。コートの上で、相手の全てを見透かそうとする、狩人の目だ。だが、今は外敵を前にした獣のように戸惑い、警戒している。感情が全部、顔に書いてある。実に分かり易い」  見透かされている。  俺のゲス・ブロックなんてお見通しで、更に奥、俺の心の内側まで、この人は簡単に見抜いちゃうんだ。  今まで、俺は「妖怪みたい」「何を考えてるか分からない」と散々言われてきた。俺のプレースタイルも、性格も、白鳥沢に来るまでは、中々理解されなかった。孤独じゃなかった、なんて語ったら嘘になる。  なのに。  初めて会ったお兄さんは、俺のことを「面白い」「分かり易い」と称した。  それは、俺にとって、どんな称賛の言葉よりも、胸に深く突き刺さる評価だった。  堰を切ったように感情が込み上げる。嬉しい、とか、認められた、とか、そう云う単純な一言じゃ表せない、もっと温かくて、擽ったい感覚。  気づいたら、俺は笑っていた。  コートの上で、相手を煽る時の挑発的な笑みじゃない。チームメイトにお道化てみせる時の、ふざけた笑顔でもない。  只、嬉しくて、楽しくて、どうしようもなくて。  計算も裏もない、子供みたいな無邪気な笑い声が、俺の口から零れていた。 「へへっ、そうですか? 俺、面白いですか!」  自分でも驚く程、弾んだ声が出た。  ふと感じた視線に横を向くと、名前ちゃんが見たこともないくらい優しい顔で、俺に注目していた。双眸には、愛おしいものを映す時の、柔らかな光が灯っていた。  その眼差しに射抜かれて、俺の心臓はまた、大きく跳ねた。 「ああ、面白い。実に面白いよ、覚くん」  お兄さんはそう言って、満足そうに頷いた。 「君は面白い子だね。俺の物語の登場人物にしたいくらいだ」  それが、俺と兄貴くんの、奇妙で忘れられない初対面だった。
「……ってことが、あったよね~」  回想から戻り、腕の中に居る名前ちゃんの様子を覗き込む。彼女は、俺の話を静かに聞いていたみたいで、小さく頷いた。 「あの時、兄貴くんに『面白い』って言われてさ。正直、すっげー嬉しかったんだ。今まで、そんな風に褒められたこと、なかったから」  俺が少し照れながら打ち明けると、名前ちゃんは胸元から顔を上げて、俺の目を真っ直ぐに見つめた。 「わたしも、あの時の覚くんの顔、凄く好きだよ」 「え?」 「本当に嬉しそうに、子供みたいに笑うから。わたし、覚くんのあんな顔、初めて見た。だから、わたしも嬉しくなった」  そう言って、名前ちゃんはふわりと微笑んだ。  花が綻ぶ、って表現は、きっとこう云う瞬間の為にあるんだろう。俺の胸中に、温かい光がじんわりと広がる。  ああ、そうか。  俺が、名前ちゃんの知らない一面に惹かれるように、名前ちゃんも、俺の知らない一面を見て、何かを感じてくれていたんだ。  俺達はお互いの未知なる部分を見つける度に、こうやって少しずつ、心の距離を埋めていく。 「名前ちゃん」  俺は彼女の頬に、そっと手を添えた。ガラス細工みたいに繊細だけど、確かな温もりがある。 「俺さ、名前ちゃんの前だと、色んな顔になっちゃうみたいだ」 「うん。わたしは、どんな覚くんも好きだよ」  その言葉が、最高の肯定だった。  俺はもう一度、彼女の唇に、自分のそれを重ねる。今度はさっきよりもっと深く、調べるように。  恋までの距離は、やっぱり未だ測れない。  でも、それでいい。  一歩進む毎にお互いの新しい顔が見つかる、この果てしない旅路こそが、俺と名前ちゃんの恋なんだから。  チョコアイスが溶けてしまう前に、甘い時間をもう少しだけ。  俺は、名前ちゃんを抱き締める腕に、そっと力を込めた。窓の外では、月が二人を見守るように、静かに輝いていた。