日常が非日常に変わる時。

 静まり返ったマンションのリビングに、低い息を吐く音が響く。  白布賢二郎は玄関を抜けた瞬間から、既に嫌な予感がしていた。名前の住むマンションには、以前から何度も足を運んでいる。二人は恋人同士であり、親戚でもある為、ここに来るのはもはや日常の一部になっていた。だが――  それは、日常を根本から覆す、衝撃的な光景だった。 「……兄貴さん」 「ん?」  そこに居たのは、ソファに堂々と腰掛けた苗字兄貴。但し、全裸で。まるで王様のような座り方で、足を組み、無造作に頬杖をついている。表情はいつも通りの涼しげなもので、何事もないかのように白布を見つめていた。その余裕たっぷりな態度に、白布の神経は限界寸前まで張り詰めていく。 「……お邪魔してます」  白布は、無駄に冷静な態度で挨拶をした。もはや怒る気にもなれない。何故なら、苗字兄貴とはこういう男なのだ。常軌を逸した行動が、彼の日常を侵食していることを、白布は深く理解していた。 「賢二郎、いらっしゃい」  そこへ、やっと名前が姿を見せた。白布の視線が、ついそちらに向かう。  ――相変わらず、綺麗だ。  絹糸のように滑らかな髪がさらりと揺れ、夜の海のような瞳がこちらを射抜く。クラシカルなワンピースが、透き通るような肌によく映えていた。しかし、彼女の表情はどこか困惑している。その困惑の中に、僅かながら隠された戸惑いと、それとは裏腹な僅かな興味が、白布の神経を一層逆撫でする。 「兄貴兄さん……賢二郎が来るから、服を着ていてほしかった」 「ふむ? 着ていない方がいい気がしてね」 「どこが?」 「この部屋の空気が、そう言っているんだよ」  兄貴は肩を竦め、のんびりと足を組み替えた。その無頓着さに、白布は心の中で大きく溜め息をつく。 (いや、流石にこれは耐えられない)  だが。次の瞬間、彼はとんでもない事態に気がついた。名前が、こちらに向かって静かに歩み寄ってきたのだ。 「賢二郎、どうかした?」  心配そうに覗き込む名前。その瞳には、本心とはまた違う何かが揺れている。 「いや……その……」  白布は目を逸らそうとした。が、それが逆効果だった。名前のふわりとした香りが、鼻腔を掠める。それは、ジャスミンと紅茶が混ざり合ったような、微かに官能的な香り。思春期特有の現象が、起こり掛けた。  ――いや、こんな状況でなってたまるか。 「兄貴兄さん」 「うん?」 「せめて、タオルくらい巻いて」 「成る程、タオルか。確かに優雅さは損なわれないね」  兄貴は納得したように頷き、ソファの背に掛かっていたタオルを手に取った。が、そのタオルを、ただ肩に掛けただけだった。まるで、ファッションだとでも言うように。 「……いや、そうじゃないでしょう」  白布のツッコミも虚しく、兄貴は満足げに頷く。その余裕たっぷりな態度に、白布は内心で苦笑いを浮かべていた。 「それで、今日は何の用かな?」 「……名前と勉強する約束だったんです」  冷静さを取り戻す為、深く息を吐く。今日は名前と勉強をする予定で訪れた。決して、こんな意味の分からない状況に巻き込まれる為ではない。 「成る程ね。じゃあ、俺はそろそろ執筆に戻るよ」  兄貴は漸く立ち上がる。タオルを肩に掛けたまま。白布は、もう何も言わなかった。諦めと言うよりも、寧ろこの状況に慣れてしまった無力感に近いものを感じていた。 「賢二郎、ごめんね」  不意に、名前がこちらを見上げた。その瞳には、申し訳なさと、それから……少しだけ楽しんでいるような色も混じっていた。この状況を密かに愉しんでいるかのような、僅かな戸惑いと興味が、白布の心を揺さぶる。  ――お前、面白がってるだろ。  白布は何も言わず、ただその指通りの良い髪を指先でそっと梳く。その仕草には、名前への愛おしさと、今の状況への困惑が絶妙に混ざり合っていた。 「……お前が謝ることじゃない」  静かに囁くと、名前の頬が僅かに赤く染まる。こういう時、白布はやっぱり名前に甘い。黙って傍に居るだけでは、ダメなのか。いや、そんなわけがない。 「賢二郎?」  それ切り、何も言わずに見つめるだけの白布に、名前が戸惑ったように瞬きをする。その瞬きの中に、好奇心と狡猾さが微かに揺れる。白布は、少しだけ唇を歪めた。 「……勉強、しようか」  漸く、日常に戻る準備が整った。――とは言え。先程の光景が、暫く脳裏から離れなかったのは、言うまでもない。白布の脳裏には、兄貴の全裸の姿と、名前の僅かに赤らんだ頬が、しつこいくらいに焼き付いていた。