静まり返ったマンションのリビングで、白布賢二郎は僅かに息を吐いた。吐息に含まれた緊張が、空気中に霧のように拡散していく。  あの衝撃的な光景――兄貴の全裸姿――を目にしてしまった直後ではあったが、何とか気を取り直し、名前と共に勉強を始めようとしていた。しかし、その映像は網膜に焼き付いて離れず、集中力を削いでいく。 「……さて、やるか」  意識を現実に引き戻すように、白布は声に出した。その声音は、自分で思っていたよりも低く、掠れていた。 「うん」  名前の応答は、静かな水面に落ちた雫のように、穏やかな波紋を広げる。  白布がテキストを開くと、名前もノートを準備する。その仕草は落ち着いているようでいて、どこか柔らかく、ほんのりとした甘さを纏っていた。ページを捲る指先が、蝶のように優雅に舞う。 「数学からでいい?」  白布は、自分の声に冷静さを取り戻そうと努めた。 「いいよ。今日は微分をやると言っていたね」  名前の声は、夏の夕暮れのように優しく、耳に溶け込む。  普段通りの会話なのに、白布の意識はどうしても名前に引き寄せられる。磁石に引かれる鉄のように、抗えない力で。  傍に座る彼女の絹糸のように滑らかな髪から、仄かにジャスミンの香りがする。その香りは、部屋の空気を微かに甘く染めていく。先程の出来事を忘れさせるような、静かで穏やかな雰囲気。しかし、それが逆に白布の心を落ち着かなくさせた。穏やかさの下に潜む、名状し難い緊張感。 「……賢二郎?」  ふと、耳元で名前の声が響いた。 「……ん?」  呼ばれて、はっとする。心ここにあらずとばかりに、白布は現実に引き戻された。名前が不思議そうに瞬きをしていた。その長いまつげが、一瞬一瞬、白布の心を掴んで離さない。 「どうかした?」  心配そうに覗き込まれ、白布は思わず顔を背けた。名前の眼差しは、余りにも透明で、心の奥まで見通されそうで怖かった。 「いや……何でもない」  言葉に詰まり、目を逸らす。だが、名前は逃がさない。すっと身を寄せ、じっと白布の顔を覗き込む。僅かな距離で、彼女の吐息が頬を撫でる。甘い香りを含んだそれは、白布の理性を少しずつ溶かしていく。 「……まだ、さっきのことで動揺してる?」  その言葉に、白布は内心で驚いた。彼女はいつもこうだ。自分の心を、透明な水の中を覗くように見通してしまう。 「別に」  強がりの言葉は、自分でも説得力がないと感じた。 「ふふ、顔が赤いよ」  笑いながら、指先で白布の頬をそっとなぞる。その触れ方が余りにも優しくて、白布の鼓動が跳ね上がった。名前の温もりが、肌から心の奥まで染み渡っていく。 「……お前な」  白布は、声に力を込めようとするが、その声音は思った以上に柔らかく響いた。 「何?」  名前の目は、星を散りばめたように輝いていた。その瞳に映る自分は、きっと普段より和やかな表情をしているのだろう。 「勉強するんじゃなかったのか」  努めて冷静に言うと、名前はくすっと笑った。その笑みは、部屋の空気を更に暖かく変えていく。 「勿論。でも……ちょっとくらい、甘えてもいい?」  その囁きに、白布は観念したように息を吐く。名前の言葉には、いつも抗えない。それは、単なる甘さではなく、彼女の本質が持つ魅力だった。 「……はぁ、もういい。こっち来い」  そう言うと、名前は素直に白布の隣に身体を寄せた。シルクのドレスのように滑らかな動きで、距離を縮める。二人の間には、もう空気すら入り込めない程の親密さがあった。 「賢二郎、あったかい」  日向ぼっこをしている猫のように寄り添う名前の髪を、白布は無意識に梳く。細くてしなやかな髪糸が指の間を滑る感触は、やけに心地いい。まるで、光の線を手の中で遊ばせているようだ。 「お前、ほんと自由だよな」  その言葉には、非難ではなく、密やかな愛情が込められていた。 「賢二郎の前だからだよ」  ぽつりと名前が言う。その声音が余りにも愛おしくて、白布は思わず彼女の頬を撫でた。頬の下で、名前の鼓動が伝わってくる。二人の心臓が、同じリズムを刻んでいるようだった。 「……お前、そういうこと言うと、勉強どころじゃなくなるってわかってる?」  低く囁くと、名前は擽ったそうに目を細めた。その仕草は、白布の心の奥に熱を灯す。 「どうなってしまうの?」  悪戯っぽく問い掛ける唇を、白布はもう遮るしかなかった。誘惑に負けたわけではない。そうせずにはいられなかっただけだ。  静かに名前の髪を掻き上げ、そっと唇を寄せる。 触れ合うだけの優しい口づけ。 しかし、その一瞬で、世界の全てが二人だけのものになったような錯覚を覚えた。  名前のまつげが微かに震え、目を閉じる気配がした。その仕草すら、愛おしい。宝石を手に取るように、白布は名前の存在全てを愛おしいと感じた。 「……勉強するんじゃなかったの?」  唇を離した後、僅かに困ったように呟く名前に、白布は少しだけ笑う。その笑顔は、普段の彼からは想像できないほど柔らかく、温かいものだった。 「……俺に聞くなよ」  その返答には、優しい責めと、諦めと、そして密やかな期待が混ざり合っていた。  どちらからともなく、二人は寝室のベッドに移動した。手が自然と絡み合い、足取りは軽く、まるで舞うように。  教科書とノートは開いたまま。勉強の痕跡だけが、静かにリビングに残されていた。もう暫く、続きはお預けになりそうだった。  窓から差し込む夕暮れの光が、二人の姿を優しく包み込む。それは、時間が二人だけの為に流れ始めたことを告げているようだった。