「別に」と返された黒いレースの夜。 恋人の"好き"を探して始まる、下着と誤解のラブコメ調修復記。

名前視点→黒尾視点。性的なニュアンスが含まれます。
 十一月の空気は、まるで薄い硝子のように澄み渡り、窓辺に置いたポインセチアの燃えるような赤が、冬の到来を静かに告げていた。わたしはベッドに腰掛け、膝の上で開いたままの『恋日記』に視線を落とす。インクの黒が連なるそのページには、数日前の夜の出来事が、まだ生々しい熱を帯びて記されていた。  鉄朗くんの誕生日。初めて、本当の意味で一つになった夜。  ポインセチアの花言葉は『祝福』『私の心は燃えている』。あの夜は、この花のように、わたし達の関係が祝福されていると信じて疑わなかった。わたしの肌を辿る彼の唇の熱さも、切実に名前を呼ぶ掠れた声も、何もかもが愛おしくて、この日記はわたしの独占欲の証明書になった。  けれど、その完璧な記憶の中に、たった一つだけ。硝子に走った細い亀裂のような、無視できない棘が、心の柔らかい場所にちくりと刺さったまま、抜けずにいる。  わたしの肌を包む、黒いレースの下着。  それを見た時の、鉄朗くんの反応。 『……お前、こういうの、好きなのか』 『うん。鉄朗くんは、好き?』  期待を込めて問い返したわたしに、彼は一瞬、言葉を詰まらせた。そして、ほんの少し視線を逸らし、こう言ったのだ。 『……別に』  たった三文字の、素っ気ない返答。  飄々とした笑みの下に、色々な感情を隠すのが上手い彼だけれど、わたしと二人きりの時は、存外分かり易い。けれど、あの時は違った。  素肌を晒し、鉄朗くんの全てを受け入れようとしていた、無防備な状態のわたしにとって、その一言は想像以上に重く響いた。まるで、わたしの趣味、わたしの好きだという気持ちそのものを遠回しに否定されたような気がして。  わたしは面積の少ない、繊細なデザインの下着が好きだ。それは誰の為でもなく、ただ自分の為。美しいものを身に纏うと、背筋が伸びて、心が満たされるから。けれど、恋人である彼に、それを好ましくないと思われているかもしれない。日記には書けなかった可能性が、冷たい染みとなって胸の内に広がっていく。  このまま、見ない振りをして過ごすこともできる。でも、それでは駄目だと思った。わたし達の間に、澄み切った冬空を覆うような曇り空が存在し続けるなんて、耐えられない。  わたしはスマートフォンを手に取ると、メッセージアプリを開いた。宛先は勿論、一人しかいない。 『鉄朗くん。次のオフの日、時間はありますか。少し、相談したいことがあるの』  送信ボタンを押すと、すぐに既読の印が付いた。数秒の間を置いて、返信が届く。 『おう。空いてる。相談って、どうした?』  画面の向こうで、鉄朗くんの心配している顔が目に浮かぶようだ。わたしは小さく息を吸い込み、返事を打ち込んだ。 『会った時に話すよ。ちょっと、買い物に付き合ってほしいんだ』  わたしの好きなものを、鉄朗くんがよく思っていない。  それなら、彼の好きなものを、わたしが知ればいい。  鉄朗くんの為に、彼の好みに染まる。それは屈辱なんかではなく、寧ろ、甘美な独占欲の裏返し。貴方の色で、わたしを満たしてほしい。そんな、新しい愛の形。  わたしは立ち上がり、クローゼットを開けた。色とりどりのレースやシルクが並ぶ、秘密の小箱。その奥で眠っている、まだ値札が付いたままのランジェリーに、そっと指を触れさせた。
 日曜の昼下がり。俺は名前の住むマンションのエントランスで、落ち着きなくコンクリートの壁に背中を預けていた。突き刺すような十一月の空気が、俺と名前の間に出来た見えない壁を思わせて、妙に落ち着かない。 『相談したいことがある』  名前からのメッセージは、その日からずっと、俺の頭の片隅に引っ掛かっていた。深刻な悩みだったらどうしよう。俺に何か、不満でもあるんだろうか。柄にもなく、様々な憶測が頭の中をぐるぐると駆け巡る。  やがて、重厚なエントランスの扉が静かに開き、名前が姿を現した。白いタートルネックのニットに、チェック柄のスカート。冬の街並みに溶け込むような、清廉で落ち着いた装いだ。けれど、その表情はどこか硬く、深海の底を思わせる瞳は、何かを決意したように真っ直ぐ前を見据えている。 「よお。待ってた」 「うん。ごめんね、待たせて」  並んで歩き出す。いつもなら、俺の腕にそっと絡み付いてくる彼女が、今日は少しだけ距離を置いて歩いている。その間に吹き込む冬の風が、やけに冷たかった。その些細な変化が、俺の不安を更に煽る。 「で、相談って何だよ。買い物って、なに買うんだ?」  堪え切れずにそう切り出すと、名前は不意に足を止め、俺の方に向き直った。そして、一度、きゅっと唇を結んでから、意を決したように口を開く。その声は、冬の空気のように凛と澄んでいた。 「鉄朗くんの好きな下着を、一緒に選んでほしい」 「…………は?」  俺の口から、知能指数が著しく低下したような声が漏れた。好きな、下着? 一緒に、選ぶ?  予想の斜め上どころか、大気圏外から飛来したような言葉に、俺の思考回路は完全にショートする。何かの暗号か? 新手のドッキリか? いや、目の前の名前は、至って真剣な顔をしている。 「……いや、えっと、なんでまた急に……」 「この前の、鉄朗くんの誕生日の夜のこと」  名前の口からその言葉が出た刹那、俺の脳裏には、あの夜の光景が鮮やかにフラッシュバックした。雪のように白い肌に映える、黒いレースの下着。その蠱惑的な姿に、俺の理性が焼き切れそうになった、あの瞬間が。 「わたしが着けていた下着、鉄朗くんは、好きじゃなかったでしょう」 「はぁ!? なんでそうなんだよ!」  思わず、素っ頓狂な声が出た。好きじゃなかった? 馬鹿言え。好きとか嫌いとか、そういう次元の話じゃなかった。あれは最早、男子高校生の致死量を超える劇物だった。 「だって、『別に』って言った」  潤んだ双眸でそう訴える名前を見て、俺は漸く全てのピースが繋がったのを理解した。  ああ、クソ。俺の馬鹿野郎。  あの時の「別に」は100パーセント、俺の照れ隠しと下らない見栄だった。あんなもん目の前にして「うおっ、すげぇ好き!」なんて素直に言える程、俺の心臓に毛は生えていない。好きだと認めた瞬間に、なけなしの理性が完全に崩壊して、獣みたいに彼女を貪ってしまいそうで怖かったのだ。だから、咄嗟に照れを隠すように、態と素っ気ない言葉を落とした。  まさか、その一言が、こんな風に彼女を傷付けていたなんて。  俺は頭をガシガシと掻き毟り、目の前の愛しい恋人に向かって、深く、深ーく溜め息をついた。 「……名前」 「……何」 「降参だ。全面降伏」  俺は彼女の華奢な肩を掴むと、ぐっと自分の胸に引き寄せた。驚いたように身を硬くする彼女の耳元に、唇を寄せる。 「……あれ、嫌いなワケねぇだろ。寧ろ、好き過ぎて、どうにかなりそうだったんだよ」 「……え?」 「好きだって言ったら、俺、お前のこと滅茶苦茶にしちまいそうで、怖かったんだ。だから……その、格好付けちまった。悪かった」  絞り出すように告白すると、腕の中の身体から、ふっと力が抜けるのが分かった。顔を上げた名前の頬は、夕焼けみたいに真っ赤に染まっている。その破壊力に、余裕を失った心臓が煩く鳴り始めた。 「……本当?」 「本当だ。信じろ」  俺が真剣な顔で頷くと、名前は俯いて、小さく「……そう」と呟いた。その声が安堵に震えている。  こいつをこんなに悩ませていたのか。自分の不甲斐なさに、腹の底から情けなさが込み上げてくる。 「だから、お前が選ぶものが、俺の一番好きなものに決まってる。お前が自分の為に、好きだって思って着るものが、一番綺麗なんだよ」  今度こそ、真っ直ぐに本心を伝える。  すると、名前は顔を上げて、ふわりと微笑んだ。凍て付いた硝子が陽の光を浴びて溶けていくような、柔らかな笑み。 「……うん。でも、折角だから、やっぱり鉄朗くんに選んでほしいな。わたしが知らない、鉄朗くんの『好き』を、わたしに教えて」  悪戯っぽく細められた眼差しが、俺を射抜く。  もう、逃げ場はなかった。  結局、俺達は近くのデパートのランジェリー売り場に足を踏み入れることになった。色とりどりのレースやシルクが並ぶ、男一人では絶対に立ち入れない聖域。煌びやかな空間と女性店員の視線に、俺は終始挙動不審だった。 「鉄朗くん、これとこれなら、どっちが好き?」  名前がネイビーのシルクのセットと、ワインレッドのレースのセットを手に、無垢な面差しで尋ねてくる。そのワインレッドが、彼女の部屋にあったポインセチアの赤と重なって見える。俺は小声で「……どっちもヤベェ……」と呟きながらも、必死に平静を装って「……こっちの、赤いヤツ……とか?」と指差すのが精一杯だった。  最終的に、名前が元々好きだという繊細なデザインのものと、俺が選んだ少し大胆なデザインのもの、両方を購入して、俺達はデパートを後にした。  すっかり日の暮れた帰り道。紙袋を提げた名前は、今度は俺の腕にぴったりと寄り添っていた。硝子のように冷え切っていた空気が、彼女の体温で嘘のように温められていく。 「なあ」 「ん?」 「今度、それ着けてるとこ、見せてくれよな」  耳元で囁くと、名前は足を止めて、俺を見上げた。そして、唇の端をくい、と持ち上げる。それはいつもの穏やかな微笑みとは違う、真冬に咲くポインセチアのように鮮烈で、蠱惑的な笑みだった。 「うん。楽しみにしていてね、鉄朗くん」  そのイミシンな微笑みに、俺はゴクリと喉を鳴らす。  どうやら、俺の知らない彼女の『好き』は、まだまだ沢山ありそうだ。そして、それを一つひとつ知っていくことが、これから先の人生の途轍もなく大きな楽しみになることを、俺はこの温かな空気の中で確信していた。