選んだのは、ランジェリーじゃなくて、君の心そのものだった。

性的なニュアンスが含まれます。
 十二月の声を聞くと、街は途端に浮き足立つ。煌びやかなイルミネーションが夜を飾り、ショーウィンドウにはサンタクロースと並んで、幸せそうな恋人達のマネキンが微笑んでいた。そんな喧騒を背に、俺は慣れた足取りで、苗字家のマンションへと向かう。この道の先にある静謐な空間と、そこに待つ唯一無二の存在を想うだけで、凍て付くような冬の空気さえ、好ましい刺激に変わるのだから不思議なものだ。  部活を終えた身体に染み渡る、心地良い疲労感。けれど、合鍵で重厚なドアを開け、彼女の部屋から漏れる柔らかな光を目にした瞬間、その疲れは跡形もなく霧散する。 「来たぞ、名前」 「うん、お帰りなさい、鉄朗くん。お疲れ様」  ソファに腰掛けて本を読んでいた名前が、顔を上げて軽く微笑む。白とグレーを基調とした、彼女自身を映したかのように静かで整然とした居室。その静けさの中に、壁一面の本棚や、窓辺で青々と茂る観葉植物が、確かな生命の温もりを灯していた。  俺はコートを脱ぎながら、彼女の隣にどかりと腰を下ろす。ふわりと、清潔で甘いシャンプーの香りが鼻腔を擽った。ごく自然に肩を抱き寄せると、名前は当たり前のように、俺の片肌に頭を預け、再び物語の世界へと戻っていく。その無防備さが、俺の心臓を容赦なく締め付けた。  この前のオフ。二人で出掛けた日曜日のことを思い出す。名前を悩ませていた下らない誤解が解け、俺の不甲斐なさを許してくれた、柔らかな微笑み。そして、俺が選んだ、少し大胆なワインレッドのランジェリー。あの日の記憶は、まだ生々しい熱を帯びて、俺の脳裏に焼き付いている。  俺の腕の中で、名前がぱらり、と本のページを捲る。その長い睫毛が落とす影、血の気の薄い白い首筋、薄桃色の唇。その全てが芸術品のように完璧で、俺の独占欲を静かに煽り立てた。  触れたい。もっと深く。この両腕の中に、完全に閉じ込めてしまいたい。  そんな衝動が、血液に乗って全身を駆け巡る。理性のブロックが、じりじりと後退していくのを感じた。マズい、このままだと、俺のポーカーフェイスが崩壊する。  俺が内心でそんな攻防を繰り広げているとは露知らず、名前はふと文字の海から視線を浮かせ、俺を見上げた。深海の底を連想させる、何もかも見透かすような瞳。 「ねぇ、鉄朗くん」  その唇から紡がれたのは、俺の理性の最後の砦を粉砕するには、余りにも破壊力が強過ぎる言葉だった。 「今日は、鉄朗くんが選んでくれた下着をつけているよ」  シン、と世界から音が消えた。  窓の外を走る車の音も、部屋の加湿器が立てる微かな音も、何もかもが遠くなる。俺の耳に届くのは、ドクン、ドクン、と警鐘のように鳴り響く、自分の心臓の音だけ。  ……鉄朗くんが、選んでくれた、下着……?  俺の脳内で、思考が猛烈な速度で回転を始める。  待て、待て待て。俺が選んだ、ってのは一体、どっちのことだ?  あの時、名前は二つのものを購入した。一つは、彼女が元々好きだと云う、黒くて繊細なレースのデザイン。あれも確かに、俺は「良いな」と同意した。だから、広義では「俺が選んだ」と言えなくもない。  そして、もう一つ。俺が最終的に指を差してしまった、あの、ワインレッドの、布面積が極端に少ない、サテンリボンが蠱惑的な、致死量レベルの劇物。  どっちだ。  どっちなんだ、名前。  訊きたい。喉まで出掛かっている。「どっちのヤツ?」と。だが、そんなことを尋ねれば、俺がどれだけそれを意識しているか、白状するようなものだ。主将としての威厳も、頼れる男としての余裕も、全てが木っ端微塵に吹き飛んでしまう。挑発上手な策略家、黒尾鉄朗の名が廃る。 「……へぇ、そうなんだ」  絞り出した声が、自分でも引く程に上擦っていた。俺は平静を装う為、何でもない風に彼女の髪をそっと撫でる。だが、その指先は僅かに震えていた。  名前は、そんな俺の内心の嵐など、全く気づいていないかのように、「うん」と小さく頷き、また視線を本に戻してしまう。その無垢な横顔が、悪魔の囁きよりも俺を追い詰めた。  頼むから、何かヒントをくれ。  思考のトスが全く上がらない。レシーブも乱れ捲りだ。完全に思考回路が機能不全に陥っている。  時間だけが、刻一刻と過ぎていく。もう、駄目だ。限界だった。  俺は、名前が読んでいた書籍を取り上げると、その華奢な肩を掴み、自分の方へと向き直らせた。驚いたように瞬きする彼女の双眸を、真っ直ぐに見つめる。 「……名前」 「……何?」 「……確かめても、いいか?」  掠れた声で、不器用にそう尋ねる。これ以上、気の利いた台詞は思い浮かばなかった。  すると、名前は不思議そうに首を傾げた後、ふわりと、全てを分かっているかのような、悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「何を?」  ……こいつ、絶対に分かってやがる。  その確信が、俺の最後の理性を焼き切った。 「……お前の、全部だよ」  もう言葉は要らない。俺は衝動のままに彼女を抱き締め、その身体をソファの座面に押し付ける。驚愕に目を見開く彼女の唇を、有無を言わさず塞いだ。最初は抵抗するように強張っていた肢体から、ふっと力が抜けていく。  この腕に抱く人。  この軽くて、温かくて、壊れてしまいそうに繊細な体躯。その内側に隠された秘密を、俺は今から暴くのだ。  唇を離し、名前が着ているニットの裾に、震える指を滑り込ませる。冷たい外気に晒されていた指先が、彼女の肌の熱に触れ、じわりと溶かされていくようだった。ゆっくりと、焦らすように服を捲り上げていく。俺の視線は、その先に現れるであろう布地の色に、全神経を集中させていた。  そして、視界に飛び込んできたのは。  雪のように白い玉肌の上で、鮮烈なコントラストを描く、深いワインレッド。  サテンリボンが、名前の胸の谷間で艶かしく結ばれている。  ――俺が、選んだ方。 「…………っ!」  声にならない吐息が漏れた。脳が沸騰するような熱さに包まれる。見下ろした先の名前は頬を朱に染めながらも、満足気に、蠱惑的に微笑んでいた。それは完璧なブロックを決めた時のような、勝利を確信した者の笑み。 「鉄朗くんが、一番好きだって言ったから。わたしも、好きになろうと思って」  その言葉が、最後の引き金だった。 「……降参だ」  俺は再び彼女の唇を求めながら、心の中で白旗を上げた。全面降伏だ。このミステリアスで、無垢で、何よりも狡猾な恋人には、到底敵いっこない。  窓の外では、いつしか雪が舞い始めていた。けれど、この部屋の熱は、真冬の寒ささえも溶かしてしまうだろう。  俺は彼女の独占欲を、俺自身の獰猛なそれを、この腕の中で確かめるように、ただ深く、名前を求めた。