初めて触れた唇の味と、
未来の合鍵の在り処。

Title:初めてのキス
 その日の放課後、俺の心臓はいつもより、幾分か騒がしく脈打っていた。原因は明確だ。隣の席の彼女、苗字名前から「わたしの部屋に来てみない?」と、明日の天気を尋ねるような気軽さで誘われたからである。  付き合い始めて、まだ二週間。クラスメイトという関係性に"恋人"という新たな名前が付いたばかりで、俺達はまだ互いのテリトリーに踏み込むタイミングを計り兼ねている、そんな初々しい段階にあった。だというのに、彼女は時折、こちらの心臓に悪い爆弾をいとも容易く投下してくる。  電車を乗り継ぎ、教えられた住所の前に立った時、俺は思わず足を止めた。都心の一等地に聳え立つ、要塞のようなデザイナーズマンション。エントランスの表札は全て無記名で、住人の存在そのものを秘匿しているかのようだ。場違いな空気に気圧されながらインターホンを鳴らすと、ややあって、重厚なオートロックの扉が静かに開いた。 「……お邪魔します」  エレベーターで最上階へ向かい、指定された部屋の前に立つ。深呼吸を一つして、ドアノブに手を掛けようとした、その時だった。ガチャリ、と内側から扉が開く。 「やあ、君が黒尾鉄朗くんか」  そこに立っていたのは、名前ではなかった。  すらりとした長身に、名前と同じ色の、夜の闇を溶かしたような髪。整い過ぎた顔立ちは、芸術品じみた冷ややかさを湛えている。俺の記憶が正しければ、この人は確か。 「……苗字兄貴さん。名前のお兄さんの」 「いかにも。名前から、話は聞いているよ」  兄貴さんは値踏みするように、俺を頭の天辺から爪先まで一瞥した。普段なら「何か用ですカ?」とでもお道化てみせる場面だが、その射抜くような視線の前では、俺の得意なポーカーフェイスも形無しだ。背中に嫌な汗がじわりと滲む。  彼が着ている黒いTシャツには、白抜きで『〆切厳守』と、やけに達筆な明朝体で書かれていた。ツッコむべきか、スルーすべきか。俺の思考がコンマ数秒、フリーズする。 「ふむ。成る程。噂のトサカヘッドは、実物の方が迫力があるね」 「寝癖です」 「ほう。それは面白い。……まあ、入りなさい。名前は自分の部屋に居る」  兄貴さんは存外、俺をあっさりと中に招き入れた。静まり返った廊下を抜け、リビングの扉の前で「あそこが、名前の部屋だ」と顎で示される。そして、俺の肩をぽん、と叩き、意味深に微笑んだ。 「妹を宜しく頼むよ。泣かせたら……分かるね?」  その目は笑っていなかった。俺は背筋を伸ばし、主将として審判と向き合う時よりも真剣な顔で、こくりと頷く。兄貴さんは満足気に頷くと、リビングのソファにどかりと腰を下ろし、何事もなかったかのようにノートパソコンを開いた。  逃げるように踵を返し、名前の部屋のドアをノックすると、「どうぞ」と涼やかな声がした。 「よお。来たぞ」 「うん、いらっしゃい、鉄朗くん」  そこに広がっていたのは、彼女自身を映したかのような空間だった。白とグレーを基調とした、静謐で整然とした部屋。けれど、壁一面の本棚には専門書から漫画までが雑多に並び、窓辺には丁寧に育てられた観葉植物が青々と茂っている。彼女の複雑な内面をそのまま具現化したような、不思議な居心地の良さがあった。 「すげぇな、このマンション。要塞みてぇ」 「そう? わたしは生まれた時からこういう場所で育ったから、余り分からないな」  ベッドの端に腰掛けた俺の隣に、名前がすとんと座る。ふわりと清潔で甘いシャンプーの香りがした。二人きりの密室。急に心臓が煩く鳴り始める。何か話さなければ、と焦る思考を見透かしたように、彼女が口を開いた。 「鉄朗くんは、どうしてバレーボールをしているの?」 「……ん? なんだよ、急に」 「知りたいと思ったから。鉄朗くんが、何かに夢中になっている時の顔、わたしは結構好きだよ」  真っ直ぐな瞳でそう言われ、言葉に詰まる。こういう、彼女の気負いのないストレートな物言いが、俺の心を乱すのだ。  俺は少し迷ってから、ぽつりぽつりと話し始めた。幼馴染みの研磨のこと。引っ込み思案だった、ガキの頃の自分。「俺達は血液だ」という言葉に込めた、チームへの想い。  名前はただ静かに相槌を打ちながら、俺の話に耳を傾けていた。彼女の深海の底を思わせる瞳は、俺の言葉の奥にある、俺自身でさえ上手く言語化できない感情までも見透かしているようだった。  気づけば、窓の外は夕暮れの茜色に染まっていた。オレンジ色の光が斜めに差し込み、名前の白い頬や長い睫毛に柔らかな陰影を落としている。その神々しいまでの光景に、俺は息を呑んだ。  薄い、桃色の唇。そこから紡がれる言葉の一つひとつが、俺の世界を鮮やかに彩っていく。  触れたい。  その衝動は最早、理屈では抑え切れない奔流となって、俺の全身を駆け巡った。マズい、このままだと、思春期特有の生理現象が暴走し兼ねない。俺は無意識に拳を握り締め、必死に理性を繋ぎ止めようとした。  その時、名前がふとこちらを向き、俺の顔をじっと見つめた。 「鉄朗くん、顔が赤いよ。熱でもあるの?」  無垢な問い掛けが、俺の理性の最後の砦をいとも容易く粉砕した。 「……っ、お前の、所為だよ」  掠れた声が、自分でも驚く程に弱々しく響く。俺はもう、抗うことをやめた。衝動のままに彼女の華奢な腕を取り、ぐっと引き寄せる。見た目通りの軽い身体が、俺の腕の中に難なく収まった。  名前は動揺した様子もなく、ただ静かに、俺を見上げている。その瞳が期待と、ほんの少しの不安で揺らめいているように見えた。 「……名前」  名前を呼ぶ。それだけで、胸が張り裂けそうだった。 「……しても、いいか?」  策略家だなんだと言われる俺が、こんなにも不器用に相手の許可を求める日が来るなんて。  名前は答えの代わりに、そっと目を閉じた。長い睫毛が、夕陽に照らされた頬に影を落とす。それが、彼女からの肯定の合図だった。  俺はゆっくりと顔を近づけた。世界から、音が消える。リビングでキーボードを叩く兄貴さんの音も、窓の外を走る車の音も、何もかもが遠くなっていく。ただ、目の前の彼女の存在だけが、現実の全てだった。  そっと、唇を重ねる。  初めて触れた彼女の口唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて、温かかった。シャンプーとは違う、彼女自身の甘い香りが鼻腔を擽り、頭の芯が痺れるような感覚に陥る。トクン、トクン、と自分の心臓の音が、耳の奥で喧しく響いていた。  ほんの数秒。けれど、永遠にも感じられる時間だった。  ゆっくりと唇を離すと、そこには頬を朱に染め、潤んだ瞳で俺を見つめる名前が居た。初めて見る、感情を隠し切れていない彼女の表情。その破壊力は、どんな鋭いスパイクよりも強烈に、俺の心を撃ち抜いた。 「……っ」  照れ臭さと、とんでもないことをしてしまったという高揚感で、言葉が出てこない。何か気の利いた台詞を探して口を開き掛けた、その時。 「おや、良い雰囲気だね。邪魔したかな?」  ひょっこりとドアの向こうから、兄貴さんが顔を覗かせた。その手にはマグカップが二つ。完全にタイミングを読まれていた。 「っ、兄貴さん……!」 「うん、君は合格だ」  兄貴さんはにこやかにそう言うと、ずかずかと部屋に入ってきて、俺の目の前に立った。そして、ポケットから無造作に一本の鍵を取り出す。 「これは、このマンションの合鍵だ」 「……は?」 「君は、もう家族みたいなものだからね。いつでも来るといい。だが、妹を泣かせたら、地の果てまで追い駆けるから、そのつもりで」  そう言って、俺の手に鍵を握らせる。家族? 合鍵? 怒涛の展開に、俺の脳の処理能力はちっとも追いついていなかった。隣で、名前が「兄貴兄さん……」と呆れたように呟いているが、その口元は微かに綻んでいる。  手の平に残る、金属の冷たい感触。  唇に残る、彼女の柔らかな感触。  「ただいまー」なんて、いつか自然に言える日が来るのかもしれない。  そんな途方もない未来を予感しながら、俺はただ、真っ赤な顔で鍵を握り締めることしかできなかった。