五月の空は、飽和状態のスポンジのように重たい灰色をしていた。朝から降り続く雨はアスファルトを叩き、窓ガラスを濡らし、世界から彩度という彩度を奪い去っていく。湿り気を帯びた空気が肌に纏わり付くような、そんな日の放課後。わたしは一人、音駒高校の体育館へと向かっていた。  約束があったわけではない。ただ、彼が戦う姿をこの目で見ておきたかった。  黒尾鉄朗という人間は、わたしにとって尽きることのない興味の源泉だ。教室で冗談を言っては友人達と笑い合う、どこにでも居る男子高校生の顔。わたしだけに見せる、少し意地悪で、底抜けに甘い恋人の顔。そのどれもが彼の一部であることは理解している。けれど、わたしのまだ知らない顔がある筈だった。彼が主将として、チームという生命体を率いる時の顔だ。  体育館の重い扉をそっと開けると、むわりとした熱気が肌を撫でた。汗とサロンパスの匂い。床を擦るシューズの鋭い音と、ボールが叩き付けられる鈍い衝撃音。そして、空間を切り裂くような選手達の声。それら全てが渾然一体となって、外の静かな雨の世界とは隔絶された、一つの熱狂的な宇宙を形成していた。  わたしは邪魔にならないよう、ギャラリーの隅にそっと紛れる。すぐに、彼の姿を見つけた。  コートの中央、誰よりも高く聳えるようにして立つ、背番号1。  雨の湿気を含んだ彼の髪は、トレードマークのトサカが普段よりも少しだけ萎れ、一部が額に張り付いている。それが妙に生々しく、大人びて見えた。彼の目はボールの行方を追って、怜悧に動いている。仲間へ送る指示は短く、的確で、その声は混沌としたコートを統べる、一本の鋭い糸のようだった。  ああ、これが彼の戦場なのだ、とわたしは思った。  試合は拮抗していた。一進一退の攻防が続き、体育館のボルテージは最高潮に達している。彼の表情に、普段の飄々とした笑みはない。あるのは、ただ勝利だけを見据える真剣な眼差し。わたしは息を殺して、その一挙手一投足を見守った。  そして、その瞬間は訪れた。  相手チームのエースが、渾身の力でスパイクを打ち込む。体育館の誰もが息を呑む、強烈な一撃。けれど、鉄朗くんは完璧に読んでいた。獣が獲物に飛び掛かる直前の静けさで、彼はネット際に跳躍する。しなやかに伸びた腕が、ボールの軌道に分厚い壁を作り出した。  ドンッ、という重い音と共に、ボールが相手コートに叩き付けられる。完璧なシャットアウト。  その刹那、彼の唇の端が、ぐ、と吊り上がったのをわたしは見た。  獲物を仕留めた肉食獣のように目が細められ、勝利を確信した傲慢さと、純粋な喜悦が滲み出ている。それは、獰猛で、独善的で、そして、どうしようもなく美しい笑みだった。  心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。  ぞくり、と背筋を駆け上がったのは、恐怖ではなく、歓喜に近い戦慄。  ――あれは、わたしだけが知っていればいい顔だ。  他の誰にも見せたくない。チームメイトにも、対戦相手にも、観客席の誰にも。この広い体育館で、あの表情の本当の意味を理解できるのは、わたしだけであってほしい。そんな、身勝手で強烈な独占欲が、わたしの胸の奥で静かに産声を上げた。  わたしはあり得ないくらい、この人に恋をしている。  その事実が、降り頻る雨音のように、わたしの世界を満たしていった。
「っしゃア!!」  床に叩き付けられたボールの感触と、チームメイトの雄叫びが、全身の疲労感を心地良く吹き飛ばしていく。試合終了を告げるホイッスルが鳴り響き、俺はネットを挟んで相手チームと握手を交わした。口では「あざーした」なんて軽口を叩きながらも、脳内では今日の試合内容を冷静に反芻している。あの場面のブロックのタイミング、研磨との速攻の連携、レシーブのフォーメーション……。 「おーい、黒尾、お疲れさん。彼女、来てくれてたんだな」  背中を叩いてきた夜久の視線の先を追って、俺は観客席を見上げた。そこに、名前が居た。  喧騒の体育館の中、彼女の周りだけがシンと静まり返っているように見える。ただ一人、一枚の絵画のように立っている彼女の姿を認めた瞬間、主将モードだった俺の頭のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。 「うおっ、マジかよ……」 「ちゃんとカッコイイとこ、見せられたか?」  ニコニコと笑う海の言葉に、俺は「ったりめーだろ」と返しつつも、心臓が急に煩く鳴り始めるのを感じていた。いつから見てたんだ? 今日の俺、ダセェとこなかったか? 思考が途端に、恋する男子高校生のそれに成り下がる。  大急ぎで片付けを済ませ、まだ熱気の残る髪をタオルで乱暴に拭きながら、俺は彼女の元へと小走りで向かった。階段を数段飛ばしで駆け上がり、名前の隣に立つ。 「よお」  声を掛けると、名前はゆっくりと顔を上げた。深海の底を思わせる瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。その視線に射抜かれて、何故か無性に緊張した。 「見てたか?」  口から出たのは、我ながら随分と得意気な台詞だった。少しでも格好良く見られたい、褒めてほしい。そんなガキみたいな見栄と下心が透けて見えるようで、内心、舌打ちする。もっと気の利いた言葉はなかったのか、俺。  名前は瞬きもせず、俺をじっと見つめている。何かを吟味するような、その沈黙がやけに長く感じられた。やがて、彼女の薄い唇が静かに開く。 「うん、格好良かったよ」  たったそれだけの、飾り気のない一言。  けれど、その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、世界がスローモーションになった気がした。名前の真っ直ぐな瞳には、お世辞や社交辞令といった不純物が一切含まれていない。ただ心の底からそう思ったのだと、雄弁に物語っていた。  ズキュン、と心臓を直接撃ち抜かれたような衝撃。  どんな鋭いスパイクよりも、どんな完璧なブロックよりも、彼女のその一言は強烈に、俺の心を揺さぶった。 「……そっか」  俺は照れ臭さを誤魔化すように、ガシガシと頭を掻くことしかできない。顔が熱い。絶対に赤くなっている。  二人で並んで昇降口を出ると、あれ程までに激しく降っていた雨は、いつの間にか霧のような小糠雨に変わっていた。俺が差し出した一本の傘の中に、名前がすっぽりと収まる。肩が触れ合う距離。甘い香りが、雨の匂いに混じって鼻腔を擽った。  隣を歩く彼女は、何も言わない。けれど、その沈黙は少しも気まずくなかった。寧ろ、言葉にしなくても、確かな何かが通い合っているような、満たされた静けさだった。  さっきの、コートの上で見せた獰猛な顔。あれを、彼女はどう思っただろうか。引かれなかっただろうか。そんな不安が微かに胸を過る。  だが、隣に居る彼女の穏やかな横顔を見ていると、そんな心配は馬鹿らしく思えてきた。こいつはきっと、俺の全部を、良いも悪いもひっくるめて、ただ"黒尾鉄朗"として見てくれている。  ああ、クソ。  あり得ないくらい、こいつに惚れてる。  傘の柄を握る手に、無意識に力が籠もる。この横に居る小さな体温を、誰にも渡したくない。そんな、熱くて甘い独占欲が、雨上がりの空気を満たすように、俺の胸にじんわりと広がっていくのだった。