黒尾鉄朗専用、閲覧注意。
観察日記に綴られた愛の告白と、全裸兄の洗礼。

 夕暮れの茜色がアスファルトに長い影を落とす頃、俺は最寄り駅の改札を抜けた。今日の部活は自主練までみっちりやった所為で、全身が心地良い疲労感に包まれている。制服の下の腕には、レシーブ練で付いたであろう微かな赤み。けれど、足取りは驚く程に軽かった。この道の先には、俺の唯一無二の恋人、苗字名前が待っている。  「ただいまー」なんて、自分の家でもないのに口走りそうになるのを堪え、慣れた手つきでポケットから鍵を取り出す。名前の兄である兄貴さんから「君はもう家族みたいなものだから」と渡された合鍵だ。あの人は時々、突拍子もないことを言い出すが、俺を気に入ってくれているのは本当らしい。  重厚なドアを開けると、ひんやりと静かな空気が俺を迎えた。このマンションは、名前兄貴さん以外に住人が居ない。だから、いつだって生活音というものが希薄だ。シン、と静まり返った廊下を進み、リビングのドアノブに手を掛ける。 「名前ー? 来たぞー」  声を掛けながらドアを開けた、その瞬間。俺は己の目を疑った。  広いリビングの中央、上質な黒革のソファに、一人の男が踏ん反り返るようにして座っていた。脚を組み、肘掛けに片腕を乗せ、王か皇帝のような尊大な態度で。  苗字兄貴名前の兄で、新進気鋭の作家。黒髪の美形で、いつも黒い服をスタイリッシュに着こなしている筈の男が。  ――全裸で。  一点の曇りもなく、生まれたままの姿で。芸術品のような肉体を惜し気もなく晒し、窓から差し込む西日を全身に浴びている。その手には、読み掛けであろうハードカバーの本が一冊。何食わぬ顔で読書に耽っているのだ。 「……えっと、……は?」  俺の口から、知能指数が著しく低下したような声が漏れた。なんだ、この状況は。新手のドッキリか? いや、このマンションにそんな悪戯を仕掛けるような人間は居ない。俺はそっとドアを閉めようか一瞬迷ったが、それはそれで失礼な気がして、中途半端に開けたまま固まってしまった。 「おお、鉄朗くん。来たのか」  俺の存在に気づいた兄貴さんが、本から顔を上げた。その表情は至って真面目だ。服を着ているか着ていないかなんて、些細な問題だと言わんばかりに。 「こ、こんにちは、兄貴さん。えーっと……その、お召し物が、大変、斬新ですね……?」 「ふむ。これはだね、今度の物語の主人公が、ありのままの姿で世界と対峙するキャラクターでね。その心情を深く理解する為に、俺自身が先ず、しがらみを全て脱ぎ捨ててみようと思って」 「しがらみ……服って、しがらみなんですか……」 「ああ。布一枚隔てるだけで、世界の解像度は著しく下がる。君も試してみるかい?」 「全力で遠慮します」  俺が渇いた笑いを浮かべていると、パタパタと軽い足音がして、名前がキッチンからひょっこりと顔を出した。その手には、二人分のマグカップが握られている。 「あ、鉄朗くん。来ていたんだね。お疲れ様」 「お、おう。ただいま……って、名前! お兄さん、あの、その……」  俺がしどろもどろに兄貴さんを指差すと、名前は事もなげに一瞥し、ふぅん、と小さく息を吐いた。 「兄貴兄さん、またやっているの。風邪を引くよ」 「名前。これは創作の為の神聖な儀式なんだ」 「それなら、せめて下着くらいは身に付けるべきだと思う。お客様も居るんだし」  お客様。俺のことか。いや、それ以前の問題が山積している気がする。名前は俺の手を取り、リビングを素通りして、自分の部屋へと誘導した。全裸の兄貴さんは、再び静かに読書の世界へと戻っていく。嵐の後に訪れた静けさのようだ。 「ごめんね、鉄朗くん。兄が変なところを見せて」 「いや、変とかそういうレベルを通り越して、もはや哲学的だった……」  名前の部屋は、彼女自身を映したように静謐で整然としている。けれど、本棚に並ぶ本のジャンルは多岐に渡り、窓辺には丁寧に育てられた観葉植物が青々と茂っていた。ベッドに腰を下ろすと、隣に座った名前が、俺の肩に頭を預ける。シャンプーの清潔で甘い香りが鼻腔を擽った。  さっきまでのカオスが嘘のように、穏やかな時間が流れ始める。俺は彼女の細い肩を抱き寄せ、柔らかな髪をそっと撫でた。血の気の薄い白い肌、深海の底を思わせる瞳。いつ見ても、この世のものとは思えないくらい綺麗だ。 「……疲れたでしょう。部活、大変だった?」 「まあな。でも、お前に会ったら、全部吹っ飛んだ」 「ふふ、嬉しいな」  素直な言葉を口にすると、名前は嬉しそうに目を細める。こういう瞬間が、堪らなく愛おしい。俺の腕の中で、彼女は少し身動ぎして顔を上げた。その視線が、机の上に置かれた一冊のノートに向けられている。ごく普通の大学ノートだ。 「鉄朗くん。見せたいものがあるんだ」 「ん? なんだ?」  名前は立ち上がると、そのノートを手に取って戻ってきた。表紙には、彼女の繊細な筆跡で、こう書かれている。 『恋日記』 「……こ、恋日記?」 「うん。わたしの、鉄朗くん観察日記だよ」  悪戯っぽく笑う名前に、俺の心臓がドクン、と大きく跳ねた。観察日記? 俺の? 一体、何が書かれているんだ。試合中のダメ出しとか、寝癖が酷いとか、そういうことだろうか。冷や汗が背中を伝う。 「ちょっと、見せてくれるかな」 「いいよ。じゃあ、読んであげる」  名前はそう言うと、ノートの最初のページを開いた。俺はゴクリと喉を鳴らし、彼女が紡ぐ言葉に全神経を集中させた。
 隣の鉄朗くんが固唾を呑んで、わたしを見つめている。大きな身体を小さくして、これから宣告を受ける罪人のような顔をしているのが、少し可笑しくて、とても愛おしい。  わたしはゆっくりと息を吸い込み、日記の最初の行を読み上げた。 「『四月十五日、晴れ。今日、鉄朗くんが猫に話し掛けているのを見た』」 「ぶっ!?」  鉄朗くんが盛大に噴き出した。 「『公園の隅で、一匹の茶トラ猫を相手に「お前もさ、ボスってのは大変だよな」「分かるぜ、その気持ち」と真剣な顔で語り掛けていた。鉄朗くんの言う「俺達は血液だ」という言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。彼の中では、きっと猫も人も、等しく巡るべき生命なのだろう。そういうところが、とても好きだ』」  読み終えると、鉄朗くんは顔を真っ赤にして天を仰いでいた。 「……マジかよ……見られてたのか、アレ……」 「うん。ずっと見ていた」  わたしは構わず、次のページを捲る。 「『五月二十日、雨。部活の練習試合、応援に行った。体育館の湿った空気の中、彼のトサカヘッドが汗で濡れて、普段より少しだけ大人びて見えた。鋭いブロックを決めた時、一瞬だけ見せた獰猛な笑み。あれは、わたしだけが知っていればいい顔だと思う。他の誰にも見せたくない。試合の後、「見てたか?」ってちょっと得意気に訊かれたから、「うん、格好良かったよ」とだけ答えたけれど、本当は心臓が張り裂けそうだった』」  ちらり、と横目で彼の反応を窺う。耳まで真っ赤に染めて、大きな手で顔を覆ってしまっている。その指の隙間から覗く目が、どうしようもなく動揺しているのが分かった。 「……やめろ……やめてくれ……なんか、すげぇ恥ずかしい……」 「どうして? 本当のことしか書いていないよ」  わたしにとって、黒尾鉄朗という人間は、尽きることのない興味の対象だ。主将として、チームを率いる怜悧な策略家の一面。後輩の面倒を見る世話焼きな一面。わたしにだけ見せる、甘えたで、少し意地悪な一面。その全てが、わたしという世界を彩る、何よりも鮮やかな絵の具になる。  この日記は、その色彩を一つも逃さない為の、わたしだけの記録。  わたしは最新のページを開いた。それは、つい先日の夜のこと。二人が初めて、本当の意味で一つになった日の記録。 「『十一月十八日、曇りのち晴れ。昨日は、鉄朗くんの誕生日だった。そして、わたし達の初めての夜。少しだけ震えていた彼の手が、とても優しかったのを憶えている』」  鉄朗くんの息を呑む音が、静かな部屋に響く。 「『わたしの肌に触れる彼の唇は、想像していたよりもずっと熱くて、少しだけ泣きそうになった。彼がわたしの名前を呼ぶ声は、切実で、必死で、まるで祈りのようだった。独占欲の強い人だとは知っていたけれど、あの時の彼は、世界の全てからわたしを隠して、自分だけのものにしてしまいたい、という顔をしていた』」  わたしは一旦言葉を切り、鉄朗くんの顔を真っ直ぐに見つめた。彼の色素の薄い瞳が、熱を帯びて揺らめいている。あの夜と同じ目だ。 「『わたしも同じ気持ちだったよ、鉄朗くん。貴方の全てを、わたしだけのものにしたかった。鉄朗くんの心臓の音も、熱い吐息も、わたしを求める強い腕も。全部。この日記は、誰にも見せるつもりのない、わたしの独占欲の塊。でも、鉄朗くんになら、見せてもいいかなって思ったの』」  わたしが日記を閉じても、鉄朗くんは暫く何も言わなかった。ただ、わたしをじっと見つめていた。その瞳の奥にある感情が、愛しさなのか、喜びなのか、それとも羞恥なのか、判別がつかない。  やがて、彼は大きな溜め息をつくと、くしゃりと髪を掻き混ぜた。 「……降参だ」 「何に?」 「お前にだよ。……俺、お前がそんな風に俺のこと見てるなんて、思ってもみなかった」  そう言うと、鉄朗くんは力強い腕で、わたしをぐっと引き寄せた。彼の胸に顔を埋めると、トクン、トクン、と速い鼓動が伝わってくる。 「俺もお前のこと、日記に書けるくらい、毎日考えてる。朝起きて、寝癖を直しながら、名前はもう起きたかな、とか。授業中、ノートを取りながら、お前の横顔、綺麗だな、とか。部活中、ボール追いながら、早く終わらせて会いに行きてぇな、とか」  耳元で囁かれる彼の声は、少し掠れていて、とても甘い。 「お前のその日記、俺が死んだら、棺桶に一緒に入れてくれよな」 「うん、分かった。でも、その前に、まだまだ沢山のページを埋めないとね」  わたしが顔を上げると、鉄朗くんの唇が優しく重なった。リビングではきっと、兄がまだ全裸で哲学的な思索に耽っているのだろうけれど、今のわたしには、そんなことはどうでもよかった。  この腕の中が、わたしの世界の全て。  そして、この『恋日記』は、その世界がどれ程に美しく、愛おしいものであるかを証明する、二人だけの秘密の証。  わたしはそっと目を閉じて、彼の独占欲を全身で受け止めた。