風が吹いた瞬間、心の位置がズレた気がした。

Title:風が吹いた瞬間
 風が吹いた瞬間、だった。  埃っぽい校庭の隅、体育祭の練習とかいう、俺にとっては苦行でしかない時間の合間。ぎらぎら照り付ける初夏の太陽から逃れるように、体育倉庫の壁に凭れて、ぼんやりと空を眺めていた。雲一つない青空はどこまでも続いていて、見ているだけで気が遠くなる。早く終わんねえかな、なんて考えていた時だ。  ふと視界の端に白い塊が見えた。  なんだ、と思って目を向けると、それは苗字名前だった。同じクラスの、いつも教室の隅で静かに本を読んでいる、存在感の薄い女子。いや、存在感が薄いと言うよりは、周囲の喧騒から意識的に距離を置いているような、そんな印象の奴。病弱で休みがちだって噂は聞いていたけれど、実際に話したことは殆どない。  その苗字が校舎の壁際、一番日陰になっている場所に、蹲るように座り込んでいた。体操服の白さが、妙に際立って見える。顔色は紙みたいに真っ白で、普段から血の気がないとは思っていたけれど、今日は一段と酷い。細い肩が小さく震えているようにも見えた。 (……貧血か?)  別に、俺がどうこうする義理はない。クラスメイトなんて、掃いて捨てる程に居る。一人や二人が体調を崩したところで、俺の日常には何の影響もない。そう思うのに、何故か目が離せなかった。  風が、ざあっと吹いた。  砂埃が舞い上がり、苗字の柔らかそうな髪がふわりと宙に浮いた。その瞬間、彼女の身体がまるで陽炎みたいに透けて見えた気がした。このまま風に攫われて、消えてしまいそうな、そんな儚さ。 (……放っとけねえな、なんか)  気づけば、俺は立ち上がり、苗字の方へ歩き出していた。自分でも、なんでこんな面倒なことに関わろうとしているのか、よく分からなかった。ただ、あのままにしておけない、という妙な焦燥感だけが、俺の背中を押していた。 「……苗字さん」  声を掛けると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。大きな、どこか焦点の合わない瞳が、俺を捉える。その瞳は深海の底みたいに暗くて、感情が読み取れない。 「……国見、くん……?」  か細い声だった。今にも消え入りそうで、耳を澄まさないと聞き取れないくらい。その声を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅうっと締め付けられるような、変な感覚に襲われた。なんだ、これ。 「……大丈夫か? 顔色、すげー悪いけど」  ぶっきら棒な言い方になったのは、自分でも分かっていた。もっとマシな声の掛け方があっただろうに。  苗字は、こくりと小さく頷いた。けれど、その顔色は少しも良くならない。寧ろ、さっきよりも青白い気がする。額には、薄っすらと汗も滲んでいた。 「……保健室、行くか?」  そう提案すると、苗字は力なく首を横に振った。 「……だ、大丈夫……だから……」  声が途切れ途切れだ。大丈夫なわけがない。なんで強がるんだか。 「大丈夫じゃないだろ、どう見ても。立てるか?」  俺は少し屈んで、苗字の顔を覗き込んだ。間近で見ると、その肌の白さは異常な程で、まるで陶器みたいだった。薄い唇も血の気が引いて、殆ど色がない。 (……なんか、本当に、このまま消えそうだな)  その細い腕を掴んで、無理矢理にでも立たせた方がいいのかもしれない。けれど、触れたら壊れてしまいそうな気がして、躊躇してしまう。  苗字は、俺の視線から逃れるように俯いてしまった。長い前髪が顔に掛かり、表情が見えない。ただ、肩で浅い呼吸を繰り返しているのが分かった。  風がまた、強く吹いた。  今度は、彼女の体操服の袖がはためく。その下に隠された腕は、驚く程に細かった。ガラス細工みたいに脆くて、儚い。 (……こいつ、本当に、ちゃんと飯食ってんのか?)  余計なお世話だとは思う。けれど、気になって仕方がなかった。  彼女の声が、余りにも小さくて。  その存在が、余りにも希薄で。  まるで、この世界に留めておくのが難しい、透明な何かを見ているような。 「……苗字さん」  もう一度、名前を呼んだ。  彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はさっきよりも、少しだけ潤んでいるように見えた。 「……ごめ、なさい……迷惑、掛けて……」 「別に、迷惑とかじゃないけど」  俺は、ぶっきら棒に答えるしかなかった。 「……少し、休めば……治る、から……」 「そんなんで治るなら、医者要らないだろ」  思わず、ツッコミを入れてしまった。苗字はきょとんとした顔で、俺を見ている。その表情がなんだか幼く見えて、少しだけ胸の奥が温かくなった気がした。 「……取り敢えず、保健室行くぞ。俺が肩貸すから」 「……でも……」 「でもじゃねえ。倒れられた方が、後々面倒臭い」  我ながら、酷い言い草だと思う。けれど、こうでも言わないと、この頑固な奴は動きそうになかった。  俺は半ば強引に彼女の腕を取り、ゆっくりと立たせた。思った通り、苗字の身体は驚く程に軽くて、そして冷たかった。 「……ちゃんと、掴まってろよ」  そう言って、苗字の腕を自分の肩に回させる。彼女は戸惑いながらも、俺の言葉に従った。その時、ふわりと、彼女の髪からシャンプーの匂いがした。甘くて、優しい匂い。なんだか落ち着かない。  ゆっくりと保健室に向かって歩き出す。彼女の足取りは覚束なく、時々、ふらつきそうになるのを、俺が支えた。  その間、俺達は一言も話さなかった。ただ校庭の喧騒と風の音だけが、やけに大きく聞こえていた。  風が吹く度に、彼女の髪が、俺の頬を掠める。その都度、心臓が妙なリズムで跳ねるのを感じた。  この感情が何なのか、その時の俺には、まだ分からなかった。  ただ、このか細くて、今にも消えてしまいそうな存在をどうにかして繋ぎ止めなければいけないような、そんな切迫感だけが胸の中にあった。  風が吹いた瞬間。  俺の中で、何かが変わった。  それはまだ名前も知らない、淡くて、不確かな感情の始まりだったのかもしれない。  そして、その感情は、彼女の小さな声と、儚い姿と共に、俺の記憶の中にずっと残り続けることになる。いつまでも消えない、大切な何かのように。