ただの声の筈だった――それが、俺の世界を変えてしまうまでは。

Title:恋の手触り
 ――そう言えば、俺が初めて、名前のことを"好きだ"と明確に自覚したのも、彼女の声が切っ掛けだったかもしれない。  あれは中学二年の、まだ肌寒い春先のことだった。  三月の終わりだというのに、吐く息が白く見える日も珍しくない。部活のランニングで火照った身体には、寧ろ心地よいくらいの冷気が、制服の隙間から滑り込んでくる。金田一とは校門で別れ、一人、夕暮れ時の道を家路へと向かっていた。空は淡いオレンジと紫が混じり合ったような、複雑な色合いに染まり始めている。どこかの家から漂ってくる夕飯の匂いが空腹を刺激した。今日の晩飯、何かな。そんな、いつもと変わらない、どうでもいいことを考えていた時だった。  ふと視界の端に見慣れない動きを捉えた。  道の少し先、古びた書店の軒先で、誰かが何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回している。夕闇に溶け込みそうな、華奢なシルエット。その柔らかそうな髪には見覚えがあった。  苗字名前。同じクラスの、いつも教室の隅で分厚い本を読んでいる、少し変わった女子。  普段、彼女はクラスの誰とも積極的に関わろうとせず、自分だけの透明な膜に包まれているかのように、静かに存在している。休み時間も、移動教室も、大抵一人だ。そんな彼女が、こんな往来で、落ち着かない様子で何かを探しているなんて、珍しいにも程がある。 (……何やってんだ、あいつ)  別に、俺が気にすることじゃない。クラスメイトなんて、顔と名前が一致すれば、それで充分。それ以上の関係性を求める気も、求められる気もなかった。特に、苗字名前という人間は、俺の日常とは最も遠い場所に居る存在だと思っていた。  なのに、何故か目が離せない。  彼女は時折、不安そうに眉を寄せ、小さな唇をきゅっと引き結んでいる。その姿が迷子の子供のようで、普段のミステリアスな雰囲気とは懸け離れていた。白い肌は夕暮れの薄明かりの中でも際立って見え、どこか儚げな印象を強めている。 (……放っとくか)  それが一番合理的で、面倒がない選択の筈だ。俺は一度視線を外し、そのまま通り過ぎようとした。  けれど、数歩進んだところで、足が止まる。  何故だろう。分からない。ただ、あの不安そうな横顔が、妙に脳裏に焼き付いて離れなかった。見えない糸で引かれているような、奇妙な感覚。 「……はぁ」  小さく溜め息をつき、俺は踵を返した。自分でも、柄にもないことをしている自覚はあった。面倒事は嫌いな筈なのに。 「……あの」  声を掛けると、苗字はびくりと肩を震わせ、驚いたように顔を上げた。大きな、深海を思わせるような瞳が、俺を真っ直ぐに捉える。その瞳には、一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。 「国見くん……?」  その声だった。  ほんの少しだけ上擦って、微かに掠れていたけれど、鈴を転がすような、澄んだ声の響き。  それがスローモーションのように、俺の耳に、そして心の奥深くに、じんわりと染み込んできた。  瞬間、胸の奥が、きゅう、と奇妙な音を立てて締め付けられる。今まで感じたことのない、甘酸っぱいような、少しだけ息苦しいような、複雑な感情が堰を切ったように湧き上がってきた。  なんだ、これ。  心臓が、やけに煩い。バクバクと警鐘を鳴らしているみたいに。  目の前の苗字は、俺が声を掛けたことにまだ驚いているのか、大きな瞳を瞬かせている。その表情は、普段の何を考えているか読めない彼女とは少し違って、どこか幼く見えた。 「……何か、探し物か?」  何とか絞り出した声は、自分でも驚く程にぶっきら棒だった。もっと、マシな言い方があっただろうに。 「あ……うん。この辺りで、本を……失くしてしまったみたいで……」  苗字は俯き加減に、小さな声で答えた。長い睫毛が頬に影を落としている。その仕草の一つひとつが、やけに鮮明に目に映った。 「本?」 「うん……父から借りた、大切な本なんだ」  そう言って、彼女は再び足元に視線を落とし、アスファルトの僅かな凹凸までも見逃すまいと、真剣な眼差しで辺りを探し始めた。その真剣な横顔を見ていると、何故か"手伝わない"という選択肢が、自分の中から消えていくのを感じる。 「……どんな本だよ? 俺も探す」 「え……? でも……国見くん、忙しいでしょう?」  苗字は少し遠慮がちに、けれど、どこか期待するような目で、俺を見上げた。その瞳の揺らぎに、また胸が騒ぐ。 「別に。暇だし」  嘘だ。本当はさっさと帰って、塩キャラメルでも食べながらゴロゴロしたい。でも、口から出たのはそんな言葉だった。 「……ありがとう」  ふわりと、彼女の唇に小さな笑みが浮かんだ。それは本当に些細な変化だったけれど、俺には暗闇に灯った小さな蝋燭の炎のように、温かく、そして眩しく見えた。  その笑顔を見た瞬間、心臓がまた、ドクン、と大きく跳ねる。  この感情は、一体、何なんだろう。  ただのクラスメイトに対して抱くには、少しばかり熱量が高過ぎるような気がする。  二人で書店周辺の地面を探し始めた。夕暮れの薄暗さが増してきて、細かいものは見え難い。それでも、苗字は諦めずに、一つひとつの影を丹念に目で追っていた。その姿は、宝物を探す冒険家のようだ。 「……どんな装丁? 色とか、大きさとか」 「えっと……濃紺の表紙で、少し厚めの……洋書だよ。題名は、確か……」  彼女が口にした題名は、俺には全く聞き覚えのない、やたらと長くて小難しいものだった。いかにも彼女が読んでいそうな本だ、と妙に納得する。  暫くの間、俺達は黙々と本を探した。時折、苗字の細い指先が、地面を探る俺の指先に、ほんの僅かに触れることがあった。その度に、びくりと身体が強張り、心臓が変なリズムを刻む。ひんやりとした、彼女の手指の感触。それが電気みたいに、俺の全身を駆け巡った。  これが、手触り、というヤツなのだろうか。  形のない感情が、確かな感触を伴って、俺の中に流れ込んでくるような。 「……あった!」  不意に、苗字が声を上げた。その声は喜びに弾んでいて、先程までの不安気な響きはどこにもない。彼女が指差す先、植え込みの影に、濃紺の背表紙が半分埋もれるようにして落ちているのが見えた。 「良かったな」  俺が言うと、彼女は満面の笑みで頷いた。その笑顔は、さっきの控えめなものとは違って、太陽みたいに明るくて、俺の胸の奥を直接照らし出すような、そんな力強さがあった。  ああ、こいつ、こんな風に笑うんだ。  その発見は、俺にとって、本が見つかったことよりもずっと大きな衝撃だったかもしれない。  苗字は大切そうにその本を拾い上げ、表紙に付いた土を丁寧に払い落としている。その仕草が壊れ物を扱うように優しくて、彼女の物に対する愛情が伝わってくるようだった。 「国見くん、本当にありがとう。見つけてくれて……ううん、一緒に探してくれて、とても嬉しかった」  苗字は本を胸に抱き、改めて向き直ると、俺に深々と頭を下げた。その丁寧な感謝の言葉と真っ直ぐな眼差しに、俺は少しだけ狼狽える。 「……別に。通り掛かっただけだし」  照れ隠しに、また素っ気ない言葉しか出てこない。それでも、苗字は嬉しそうに微笑んでいた。 「それでも、わたしにとっては、凄く助かった。ありがとう」  その時の、彼女の声のトーン。  感謝の気持ちが込められた、温かくて、少しだけ甘やかな響き。  それがまた、俺の心臓を強く揺さぶった。  もう、誤魔化しようがない。  この胸の高鳴りは、この息苦しさは、このどうしようもない感情の昂りは――きっと、そういうことなんだろう。  俺は、苗字名前のことが、好きなのかもしれない。  その自覚は、パズルの最後のピースが嵌った時みたいに、すとんと胸に落ちてきた。  今まで感じていた、彼女に対する漠然とした興味や、何故か目が離せない感覚、そして、彼女の声を聞いた時の胸の騒めき。それら全てが、一つの答えへと繋がっていく。 「……じゃあ、俺、こっちだから」  これ以上、この場に居るのは何だか気まずくて、俺は早々に立ち去ろうとした。 「うん。気を付けて帰ってね、国見くん」  苗字は、少し名残惜しそうな表情を浮かべながらも、小さく手を振って見送ってくれた。その姿が夕闇の中に溶けていくまで、俺は何度も振り返りそうになるのを必死で堪えた。  家までの帰り道、さっきまでの気怠さはどこかへ消え去り、代わりに、胸の中には奇妙な熱っぽさが渦巻いていた。  苗字名前の声。  彼女の笑顔。  そして、ほんの僅かに触れた、彼女の指先の冷たさと、そこから伝わってきた微かな温もり。  それら全てが、俺の中で何度も何度も反芻される。  あれが、きっと始まりだった。  理屈では説明できない、けれど、確かに存在する、淡くて、それでいて鮮烈な"恋の手触り"。  俺の日常に、予測不能な同居人が、音もなく忍び込んできた瞬間だったのかもしれない。  そして、その声のトーンは、いつまでも消えないメロディのように、俺の心を振動させ続けることになるのだろう。  まだ肌寒い、春の夕暮れのことだった。