予測不能な同居人。

Title:恋の感触
 朝の光が、まだ微睡んでいる町を静かに照らし始めていた。国見英は慣れた足取りで目的のマンションのエントランスを抜け、エレベーターの無機質な上昇音を聞いていた。苗字名前の部屋の前に立ち、軽く息を整える。インターホンを鳴らすまでもなく、合鍵でドアを開けるのはいつものことだ。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わり、カチャリ、と軽い音を立ててロックが解除される。 「……お邪魔します」  呟きは、しんと静まり返った廊下に吸い込まれた。リビングへと続く扉を開け、一歩、足を踏み入れる。いつもなら、コーヒーの香りか、或いは名前の気配が迎えてくれる筈の空間。しかし、今朝は違った。  目に飛び込んできた光景に、国見は文字通り動きを止めた。思考が、一瞬白む。  リビングの中央、柔らかな朝日が差し込むソファに一人の男が座っていた。  黒曜石のような艶やかな黒髪、彫刻のように整った顔立ち。苗字兄貴名前の兄だ。  それはいい。問題は、その格好だ。  彼は生まれたままの姿――つまり、全裸だった。 「…………」  国見は無意識に一度、強く瞬きをした。寝不足だろうか。それとも、まだ夢の中に居るのか。しかし、数秒後、再び焦点を合わせた視界に映る現実は変わらない。  兄貴は王侯貴族でもあるかのように尊大に足を組み、ソファの背に深く身体を預けている。その視線は、何か深遠な真理でも見出したかのように虚空を射抜いていた。白い肌は滑らかで、鍛えられたと言うよりは、元々備わっているような、しなやかな筋肉のラインが朝日に淡く浮かび上がっている。芸術品と言われれば、そう見えなくもないかもしれない。  だが、ここは名前の住まうマンションの一室であり、今は休日の朝だ。そして何より、彼は服を着ていない。どこからどう見ても、異常事態だ。  国見の侵入に気づいたのか、兄貴がゆっくりと顔をこちらに向けた。その動きには、奇妙な程の落ち着きがある。そして、形の良い唇が静かな笑みを象った。 「……英くん、おはよう」  その声は、哲学者が弟子に語り掛けるかのように穏やかで低く、そして場違いな程に澄んでいた。 「…………」  国見は混乱する頭を必死で整理しようと試みた。  1.ここは恋人である、苗字名前の家である。  2.目の前に居るのは、その兄、苗字兄貴。天才作家として名を馳せる、少々(いや、かなり)風変わりな人物。  3.彼は現在、一切の衣類を身に着けていない。  4.にも拘らず、その状況を微塵も意に介していない様子で、寧ろ誇らしげですらある。  ……導き出される結論は一つ。矢張り、おかしい。どう考えても、おかしい。 「……あの、何やってるんですか?」  沈黙は国見の肌に重く圧し掛かるようで、耐え切れずに絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れていた。  兄貴は国見の問い掛けに、ふむ、と小さく息を漏らし、僅かに目を細める。思案するようなその仕草さえ、どこか芝居がかっているように見えるのは、この状況の所為だろうか。やがて、彼は事もなげに答えた。 「……執筆の合間の気分転換だよ」 「気分転換……」  国見はオウム返しに呟くしかなかった。理解が追いつかない。 「ああ。思考が行き詰まった時、こうして原初の姿に立ち返ると、新たな発想が天啓のように降りてくることがあるんだ。衣服という社会的な束縛から解放されることで、精神も自由になる。謂わば、創造性の為の脱皮、かな」 「…………」  国見は心の底から思った。この人は、矢張りどうかしている、と。そして、その"どうかしている"が、常人には到底到達できない領域にまで達しているのだ、と。 「ねぇ、英くん」  兄貴が、再び口を開く。 「……何ですか」  警戒心を隠さずに応じる。 「君は、服を着たまま執筆するタイプかい? それとも、俺と同じように、時には全てを脱ぎ捨てて、己の内なる声に耳を澄ませるタイプ?」 「執筆しないんで」  反射的に、コンマ数秒で返答する。すると、兄貴は「それは実に残念だな」と、人類の損失であるかのように、本心から惜しむような表情で深く息をついた。 「……いや、残念とか、そういう問題じゃないと思いますけど」  国見はこめかみを押さえながら、もう一度、深々と溜め息をつく。何故、自分はこんな非日常極まりない朝の風景の中に放り込まれているのだろうか。せめて、名前が来る前に、この状況をどうにかしなければ。  そう思った矢先だった。  廊下の奥から、微かな足音が聞こえてきた。  パタ、パタ、という、スリッパの柔らかな音。焦るでもなく、急ぐでもない、ゆったりとした歩調。  そして、国見にとって、世界で最も心地よく響く声が、鼓膜を優しく震わせた。 「英くん、おはよう」  声のした方へ顔を向ける。そこに立っていたのは、眠たげな目を少し擦りながらも、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべた、絹糸を束ねたような髪の少女――苗字名前だった。  彼女はまだ、リビングの惨状に気づいていない。その無垢な笑顔が、今の国見には眩し過ぎた。  しかし、その平穏は一瞬で破られる。  名前の視線が、国見の背後、リビングの中央へと向けられ――ぴたり、と動きを止めた。  彼女の表情から、ふわりとした微笑みが消える。かと言って、驚愕や怒りが浮かぶわけでもない。ただ静かに、無表情に、ソファに鎮座する兄を見つめている。  国見は、この場の異常さをどう説明したものか、言葉を探して口を開き掛けた。だが、彼が何か言うよりも早く、名前が淡々とした、しかし、有無を言わせぬ響きを持った声で言い放った。 「兄貴兄さん、服を着て」 「……うん?」  兄貴は、何かの間違いではないか、とでも言うように、小さく首を傾げる。 「服を、着て」  繰り返された名前の声は先程よりも僅かに低く、穏やかながらも絶対的な命令の響きを帯びていた。それは長年、この兄の奇行に付き合わされてきた者だけが持つ、特殊なスキルなのかもしれない。  兄貴は何か反論を試みようとしたのか、顎に手を添え、思索するようなポーズを取る。 「名前……しかしだな、人は生まれたままの姿が最も自然であり、宇宙の真理と調和する形態であってだな……」 「服を、着て」  名前は、兄の小難しい理屈を一刀両断にするように、三度、同じ言葉を繰り返した。有無を言わせぬ、と言うより、最早、それ以外の選択肢が存在しないかのような響き。 「……はい」  観念したように、兄貴はあっさりと頷き、実に素直な動作でソファから立ち上がると、何もなかったかのように隣の自室へと姿を消した。嵐が過ぎ去った後のような、奇妙な静寂がリビングを満たす。  国見は呆気に取られて、思わず、名前を見つめていた。 「……凄いな、お前」  感嘆とも呆れともつかない声が漏れる。  名前は兄が消えた扉を一瞥してから、ふぅ、と小さく息をつき、国見に向き直った。 「もう慣れたよ、兄のああいう言動は。昔からだから」  少し困ったように笑う名前に、国見は微かに眉を寄せた。 「……いや、慣れちゃダメな案件だと思うけど」  常識的に考えて、と心の中で付け加える。  しかし、そんな国見の内心のツッコミを知ってか知らずか、名前は彼の直ぐ目の前まで歩み寄ると、立ち止まり、じっと国見の顔を見上げた。  その瞳には、先程の兄に対するものとは全く違う、穏やかで、少しだけ不安そうな色が浮かんでいる。 「……?」  国見が不思議に思って目を合わせると、名前はゆっくりと右手を伸ばし――躊躇うように、けれど確かに、彼の左手の指先に、そっと触れた。  ひんやりとした、細い指。けれど、その触れた場所から、小さな、確かな温もりが、じわりと国見の皮膚を通して心へと伝わってくる。 「英くん……来てくれて、嬉しい」  名前は微かに頬を染めながら、小さな声で呟いた。  その言葉と、指先に伝わる温かさに、先程までの喧騒と非日常感が、嘘のように遠ざかっていくのを感じる。  国見は、少しだけ目を伏せた。  何度、こうして触れ合っても、何度抱き締めても、彼女のこういう不意打ちの仕草や、真っ直ぐな好意の表れに、心臓が慣れることはない。いつも新鮮な戸惑いと、それ以上の愛しさが胸を満たす。  ……多分、これが理屈では説明できない、"恋の感触"というものなのだろう。  朝の光の中で、兄の奇行という名の嵐が過ぎ去ったリビングで、国見は名前の冷たい指先を、壊れ物を扱うようにそっと、しかし、確かに握り返しながら、静かにそう思った。指先に宿る確かな温もりだけが、今の国見にとってのリアルだった。