Title:いつまでも消えない君の声のトーンが心を振動させるの
朝の衝撃的な光景――全裸でソファに鎮座する、
苗字兄貴という名のカオス――が落ち着いてから、数時間が経過した。今、リビングには穏やかな午後の陽光が差し込み、先程までの非日常が嘘だったかのように、静かで平和な時間が流れている。俺はソファに深く腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
名前はキッチンで、俺の為に紅茶を淹れてくれている。カチャカチャという食器の微かな音と、湯気の立つ音だけが、午後の静寂を優しく彩っていた。
しかし、俺の頭の中では、まだあの兄の残像がチラついている。あの、一切の迷いも羞恥心も感じさせない、堂々とした裸体。そして、「創造性の為の脱皮」などという、凡人には到底理解不能な持論。……正直、まだ少し引き摺っている。あれはトラウマレベルと言っても過言ではないかもしれない。
「英くん、お待たせ」
不意に背後から声が掛かった。振り返ると、
名前がティーカップを二つ、小さなトレーに乗せて、こちらへ歩いてくるところだった。いつもの、少しゆったりとした、けれど優雅な足取り。彼女が纏う空気は常にどこか澄んでいて、俺のささくれ立った神経を鎮めてくれる。
「ありがと」
礼を言うと、
名前はこくりと頷き、俺の前にティーカップを置いた。そして、ふわりと微笑みながら、尋ねてくる。
「英くん、お砂糖は要る?」
その声のトーンが、不意に俺の鼓膜を強く打った。
それは普段の彼女の声と、何ら変わりない筈だった。落ち着いていて、少し高めで、そして透明感のある、心地よい響き。なのに、今、この瞬間、その声がやけに、俺の心臓の奥深くを揺さぶったのだ。ドクン、と、まるで警告音のように大きく。
「……その声、なんか、ヤバい」
思わず、口から言葉が漏れていた。自分でも何を言っているのか分からない。ただ本能的に、そう感じたのだ。
名前はきょとんとした顔で俺を見つめている。大きな、深海のような瞳が不思議そうに瞬いた。
「え……? どの声?」
「いや……何でもない」
咄嗟に誤魔化す。上手く説明できる気がしなかったし、そもそも、この感覚を言葉にすること自体が野暮な気がした。
名前は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は追及せず、自分の紅茶に角砂糖を一つ落とした。カラリ、と軽い音が響く。
声、というのは厄介なものだ。
忘れようとしても忘れられない記憶のように、それは人の心に残り続ける。特に大切な人の声は。
音には形がない。だからこそ、余計に人の記憶の奥深くに染み込んで、いつまでも消えないのかもしれない。
名前の声も、きっとそういう類のものなのだろう。普段は意識していなくても、ふとした瞬間にこうして、俺の心を強く振動させる。それは心地よい痺れにも似ていて、少しだけ息苦しい。
――そう言えば、俺が初めて、
名前のことを"好きだ"と明確に自覚したのも、彼女の声がきっかけだったかもしれない。
あれは中学二年の、まだ肌寒い春先のことだった。部活の帰り道、偶然、一人で歩いている
名前を見掛けた。普段、余りクラスの輪に入ることなく、いつも静かに本を読んでいるような彼女。その日は珍しく、何かを探しているようにきょろきょろと辺りを見回していた。何となく気になって声を掛けると、彼女は少し驚いたように顔を上げ、そして、俺の名前を呼んだのだ。
「国見くん……?」
その時の、ほんの少しだけ上擦った、けれど澄んだ声の響き。それが、まるでスローモーションのように、俺の耳に焼き付いた。その瞬間、今まで感じたことのない感情が胸の奥から湧き上がってきたのを、今でもはっきりと憶えている。あれが、きっと始まりだった。
そんな過去の記憶に意識が飛んでいた時、リビングのドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは――。
「ふふっ……声とは、魂の震えだと思わないかい?」
開口一番、それだった。
リビングのドアを開けて入ってきた
兄貴さんは、確かに服を着ていた。黒いシンプルなスウェットにTシャツ。それはいい。問題は、その胸元にデカデカと白糸で刺繍された文字だった。
《 声フェチ万歳 》
(何、その強烈な自己主張……)
俺は喉まで出掛かったツッコミを、ぐっと抑え込む。隣に座る
名前が全く驚いた様子もなく、静かに紅茶を啜る姿に、逆に驚きを禁じ得ない。この兄妹の日常は、一体、どうなってるんだ。
「突然、どうしたんですか、
兄貴さん……そのTシャツはさて置き」
俺が何とか言葉を絞り出すと、
兄貴さんは「ああ、これかい?」と事もなげに胸の刺繍を撫で、にこりと微笑んだ。
「いや、朝の君達の声を聞いていて、インスピレーションが閃いたんだ。"ああ、音とは記憶を運ぶ舟であり、魂の共鳴装置なんだな……"と」
俺は思わず目を伏せた。意味が分からない。と言うか、分かりたくない。
兄貴さんは、そんな俺の内心などお構いなしに、真剣な顔でソファに腰を下ろし、腕を組んだ。胸の《声フェチ万歳》の文字が、更にその存在を主張してくるかのようだ。
「君は感じないかい、英くん。声のトーンというのは、言葉以上に人の心に爪痕を残すものなんだ。例えば、今朝の
名前の『英くん、おはよう』という一言……あれは、単なる挨拶の言葉じゃない。音楽だった。いや、もっと根源的な、
苗字名前という人間の存在そのものの波動が凝縮されていた」
「……いや、普通の『おはよう』だったと思いますけど」
思わず本音が漏れた。
「違うね。あれは、魂の周波数とでも言おうか。発せられた瞬間に空間を震わせ、聞く者の深層心理に直接作用する。例えば、君が今夜眠りに就く時、ふと耳に蘇るのは、きっと彼女の"声"だろう。視覚や触覚といった他の感覚よりも、声は記憶の奥底に、より長く、より鮮明に残るものなんだよ」
(……それは、ちょっと分かるけど)
俺は内心で、ほんの僅かに同意しつつも、決して口には出せなかった。と言うか、あのTシャツの所為で、どんな高尚なことを言われても、全てが胡散臭く聞こえてしまう。
「……そのTシャツ、どこで売ってるんですか」
結局、一番気になったのはそこだった。
「これは自作だ。刺繍も、一針一針、心を込めて、自分で施した」
「……器用ですね……色んな意味で」
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておこう」
「褒めてないです」
俺達のその一連のやり取りを、
名前はもう慣れた様子で、やれやれと肩を竦めて見守っている。
「
兄貴兄さん、せめて、そのTシャツだけは脱いでくれないかな。お客さんの前で、それはどうかと思うのだけれど」
名前が静かに、しかし、きっぱりとした口調で言う。
「む。しかし
名前、脱ぐと、また君に『服を着て』と叱られるじゃないか」
「服を着ることに意味があるんじゃなくて、TPOを弁えた服を正しく着ることに意味があるの。兄さんの場合、その刺繍は完全にアウトだよ」
「なんと……! それはまた、哲学的な指摘だね……!」
「兄さんにだけは言われたくない」
俺は遂に吹き出してしまい、持っていたティーカップから紅茶を少し零しそうになった。慌ててカップをローテーブルに置くと、
名前がさっとティッシュを差し出してくれる。その自然な仕草、そして「大丈夫?」と気遣う声が、また、俺の耳に優しく響いた。
――『英くん、おはよう』の余韻。
確かに、
兄貴さんの言っていることは、どこか的を射ているのかもしれない。だけど。
「……そのTシャツだけは、なんとかしてほしい……」
リビングには笑いと、どこか温い空気と、でも、ちょっとだけ胸の奥を擽るような声の記憶が、今日も確りと、そして騒がしく残っていた。
夕暮れが迫り、空が茜色と藍色の美しいグラデーションに染まる頃。わたしは英くんをマンションのエントランス前まで送っていた。今日の彼は、朝から兄の突飛な行動に振り回されて、少し疲れているように見えた。それでも文句一つ言わずに、わたしの傍に居てくれた。そのことが、わたしにとってはとても嬉しく、そして、少しだけ誇らしい気持ちにさせてくれた。
「……じゃあ、また」
英くんが少し名残惜しそうな、いつもの眠たげな瞳で言う。わたしも、彼と別れるのはいつもちょっと寂しい。この時間が永遠に続けばいいのに、と非現実的なことを考えてしまう。
「うん。またね、英くん」
わたしがそう言うと、彼は小さく頷き、ドアノブに手を掛けた。その少し猫背気味の背中を見送りながら、ふと数年前の、けれど鮮明な記憶が蘇ってきた。
「ねぇ、英くん」
思わず声を掛けていた。英くんは振り返り、不思議そうな顔でわたしを見る。その表情が、なんだか昔と変わっていないように思えて、少しだけ胸が温かくなる。
「わたしね、中学の時、英くんが初めて、わたしの名前を呼んでくれた時の声、まだ憶えているよ」
それは本当に些細な記憶。けれど、わたしにとっては色褪せることのない、大切な宝物のような記憶だった。病弱で、友達も少なかったわたしにとって、クラスメイトに名前を呼ばれること自体が、少し特別なことだったから。そして、それがいつもどこか遠い存在のように感じていた、国見英という男の子だったから、余計に。
「……え?」
英くんは、少し驚いたように目を見開いた。そして、何かを思い出そうとするように、僅かに眉を寄せ、視線を宙に彷徨わせる。
「……いつのこと?」
「うん。体育祭の練習の時だったかな。わたしが、ちょっと体調が悪くて、校庭の隅の日陰で休んでいたら、英くんが『
苗字さん、大丈夫?』って、声を掛けてくれたの。あの時の、英くんの声……少しぶっきら棒で、だけど、凄く優しくて、とても安心したのを、今でもはっきりと憶えてる」
自分でも、どうして、今、この瞬間にこんな話をしたのか分からなかった。ただ、伝えたかったのかもしれない。英くんの声が、わたしにとってどれだけ特別で、大切なものだったかを。そして、今もなお、そうであり続けているということを。
英くんは何も言わずに、じっとわたしを見つめていた。その表情は、夕暮れの薄明かりの中では明確に読み取ることができなかったけれど、彼の瞳が、少しだけ深く揺れているような気がした。まるで、静かな水面に小石を投げ込んだ時のような、微かな波紋が広がっているように。
やがて、彼はふっと息を吐き、そして、ほんの少しだけ、本当に僅かに口元を緩めた。それを笑顔と呼ぶには、余りにもささやかだったけれど、わたしには、彼の心の動きが伝わってきた。
「……お前、そういうこと、よく憶えてるよな。俺は、あんまり……」
「うん。英くんのことだから、特別にね」
悪戯っぽく笑ってみせると、彼は少し照れたように、ぷいと視線を逸らした。その仕草が、やっぱり昔と変わっていなくて、愛おしい。
「……じゃあ、本当に、また」
「うん。気を付けて帰ってね」
今度こそ、彼はドアを開け、外へと出て行った。わたしは彼が見えなくなるまで、その背中を静かに見送った。カタン、とドアの閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。
そして、いつもの静けさが戻る。わたしはまだエントランスに残る、英くんの微かな気配を感じながら、ゆっくりと部屋へ戻った。兄は相変わらず、自室で何やら奇妙な効果音と共に、執筆活動に勤しんでいるようだ。
窓の外は、もうすっかり夜の帳が下りていた。町の灯りが、遠くで星のように瞬いている。
今日の出来事を思い返す。兄の理解不能な奇行。英くんの困ったような、それでいて優しい顔。そして、紅茶を淹れた時の、彼の不意な言葉。
『……その声、なんか、ヤバい』
あの時、彼は一体、何を感じていたのだろう。
わたしの声が、彼の心に何か特別な響きを届けられたのだとしたら、それは、わたしにとって、言葉にできない程の嬉しい出来事だ。
いつまでも消えない、英くんの声のトーンが、わたしの心を優しく、そして強く振動させるように。
わたしの声も、英くんの心の中で、特別な意味を持つ音として、いつまでも残っていたらいいな、と。
そんなことを考えていると、ふと、ポケットに入れていたスマートフォンが短く震えた。英くんからのメッセージだった。
『さっきの、中学の時の話。……俺も、何となく憶えてる。お前が、すげー顔色悪かった事と……後、声、小さかったこと』
たったそれだけの短いメッセージ。けれど、その素っ気ない言葉の裏に隠された、彼の不器用な優しさが、わたしの胸の奥を温かく満たした。
きっと、彼もわたしの声を憶えていてくれたのだ。大勢の中の一人ではなく、
苗字名前という個人の声を。
形のない音だからこそ、それは深く、強く、心に刻まれる。魂の琴線に触れるように。
わたしは、そっとスマートフォンの画面に触れた。指先に、彼の言葉の温もりが伝わってくるようだ。
いつか、この声で、もっと沢山の想いを、彼に伝えられたらいい。
そして、彼の声で、もっと沢山の想いを聞かせてもらえたら。
夜空に浮かぶ月のように静かで、けれど確かな光が、わたしの心の中を優しく照らしているような気がした。
それはきっと、英くんの声が残していった、いつまでも消えることのない、愛しい余韻なのだろう。その振動はこれからもずっと、わたしの心を揺らし続ける。