全裸で語る、インスピレーション。

 名前の家を訪れるのは、もう何度目になるだろうか。指折り数えるのも億劫になるくらいには、この無機質なエレベーターの箱に揺られている気がする。上昇していく数字をぼんやりと眺めながら、ポケットを探ってスマホを取り出した。慣れた手つきでトークアプリを開き、短いメッセージを送る。 『兄貴さんが開けてくれたよ。もう着く』  送信ボタンを押すと、殆ど間髪入れずに既読が付き、『わかった』という、いつものように飾り気のないシンプルな返信が表示された。名前は、いつもそうだ。言葉数は極端に少ない。感情の起伏も、まるで凪いだ水面のように静かだ。でも、その多くを語らない彼女との距離感が、おれにとっては息苦しくなくて、不思議と心地いい。  チン、と軽い電子音が鳴り、エレベーターのドアが滑るように開いた。踏み出した先は、ふかふかとした厚手のカーペットが敷かれた、しんと静まり返った廊下。窓の外はまだ明るい筈なのに、このフロアだけはいつも薄暗く、生活の気配が希薄だ。名前が住むこのマンションは、セキュリティが厳重なのか、或いは住人が少ないのか、いつ来ても驚くほど静かで、他の住人どころか、管理人らしい人影すら、殆ど見掛けたことがない。表札すら掲げられていない、無機質なドアの前で立ち止まる。  チャイムを押すと、間を置かずに内側からカチャリ、と軽い金属音がして、静かにドアが開かれた。隙間から、名前が顔を覗かせる。 「いらっしゃい、研磨」 「……お邪魔します」  いつも通りの平坦で、けれど、どこか耳に残る透き通った声。促されるままに部屋に入り、玄関で靴を脱ぎながら視線を上げると、名前はさらりとした柔らかな髪の流れを白い指先で耳に掛けながら、静かに微笑んでいた。その大きな瞳は、光を吸い込む夜の海みたいに深くて、真っ直ぐ見つめられると吸い込まれそうで、思わず目を逸らしたくなる。 「ゲームする?」  リビングへと促しながら、名前が尋ねる。その声は、しんと静まり返った空間によく響いて、妙におれの心臓の辺りを擽る。 「うん」  頷くと、名前は満足そうに小さく口角を上げた。彼女が先にリビングのソファに腰を下ろし、テレビとゲーム機を起動させる。その隣に、おれも音を立てないようにそっと座ると、彼女の華奢な肩がおれの腕に軽く触れた。シャンプーなのか、彼女自身の匂いなのか、ふわりと清潔で甘い香りが鼻腔を掠める。  ――ああ、この感じ。この、何も言わなくても隣に居られる空気。凄く、落ち着く。  世界から切り離されたようなこの静かな部屋で、名前と二人、ただゲームをする。それだけなのに、おれのささくれた神経が少しずつ解けていくような気がした。 「……研磨、飲み物は要る?」 「……ううん、平気」  名前が小さく頷き、そっとコントローラーを手に取る。画面には見慣れたゲームのタイトルロゴが表示され、やがてキャラクター選択画面へと移行した。彼女が自分のキャラクターを選ぶのを見ながら、おれも自分のコントローラーを握る。さあ、今日も仮想の世界に没頭しよう。そう思った、正にその時だった。 「……あれ?」  視界の右端、注意を払っていなかったソファの向かい側の空間に、何か……異様なものが映り込んだ気がした。気のせいだろうか。いや、でも、確かに何かが。  ……いや、何か、じゃない。誰か、だ。 「…………え?」  思わず瞬きをして、恐る恐る、本当に恐る恐る、視線をそちらへと向けた。  そして、おれの思考は完全にフリーズした。  ソファの向かい側――がらんとしたリビングの中央、そこに置かれた一人掛けのアームチェアに、見慣れた男が座っていた。  片膝を立て、腕を組んで。まるで王様か何かのように踏ん反り返って。  しかも、一糸纏わぬ、生まれたままの姿で。  全裸で。 「……兄貴さん?」  掠れた声で呟くと、その男――名前の兄である兄貴さんは、気怠げにこちらに視線を向けた。 「……ん?」  ん? じゃない。  兄貴さんは全裸だった。本当に一点の曇りもなく、完璧なまでに、何も身に着けていなかった。艶のある黒髪はやや乱れ、長い手足を投げ出すように組んだその姿勢は、驚く程に堂々としていて、まるで「何か文句でもあるのかい?」とでも言いたげに、こちらを睥睨している。美術館の彫刻ならまだしも、生身の人間が取るには余りにも不自然で、且つ、この状況においては異常過ぎるポーズだった。 「え、え……?」 「やあ、いらっしゃい、研磨くん」  涼やかな声で挨拶されたが、到底「どうも」と返せる状況ではない。いらっしゃい、じゃないんだよ。  おれはコントローラーを握り締めたまま、完全に硬直していた。衝撃的な光景が網膜に焼き付いて離れない。全裸で、しかも妙に偉そうにアームチェアに鎮座している成人男性。非現実的過ぎて、脳が情報の処理を拒否している。 「兄貴兄さん、どうして裸なの……?」  隣から聞こえた名前の声は驚く程に落ち着いていた。それが、この状況の異常さを逆に際立たせているようで、なんだか恐ろしい。普通、兄がリビングで全裸だったら、もっとこう、悲鳴とか、怒声とか、そういう反応になるんじゃないだろうか。 「ああ、ちょっとね。インスピレーションが湧いたんだよ」  兄貴さんは事もなげに答える。その口調は、まるで天気の話でもするかのように軽い。 「……インスピレーション?」 「そう。『衣服という名の社会的束縛を脱ぎ捨て、真の自己を解放した青年が、既成概念に囚われた世界に一石を投じる物語』を、今、構想していてね。まずは自分が実践してみようかと」  ――その発想は果たして天才的なのか、それとも単なる露出狂なのか。判断が非常に難しい。と言うか、どっちにしろ迷惑なことに変わりはない。 「いや、あの、そういうのは、せめて自室でやるべきじゃないかな……妹さんの前で、しかも、来客が居る時にやることじゃないと思うんだけど……」  恐る恐る指摘すると、兄貴さんは心外だ、とでも言いたげに眉を顰めた。 「そうかい? 研磨くん、君は芸術というものが分かっていないようだね。表現とは、時に常識の壁を打ち破ることから生まれるんだよ」  そう言いながら、兄貴さんは更に寛いだ姿勢を取る。いや、だから、人前で全裸なのにリラックスし過ぎているのが、余計におかしいんだって。羞恥心という概念は、この人の辞書には存在しないのだろうか。  おれはもう、どうしたらいいのか分からず、思わず頭を抱えたくなった。この状況、どう切り抜けるのが正解なの? 「……名前、なんで普通にしてるの? 止めないの?」  助けを求めるように隣を見ると、名前は少し困ったように眉を寄せた。 「うーん……兄貴兄さんがリビングで突然服を脱ぎ始めるのは、これが初めてのことじゃないから……」 「……え? 初めてじゃないって、どういうこと?」  衝撃の事実に言葉を失う。 「……もしかして、もう慣れたの?」 「うん、まあ……」 「いや、慣れたらダメでしょ。そこは、断固として抗議するところ……」  思わず声を荒らげてしまった。すると、兄貴さんが足を組み替え、心成しか面白そうな表情でこちらを見下ろした。 「名前は、兄である俺に対して、非常に寛容なんだよ」 「いや、それは寛容って言うか、諦めに近いんじゃ……」 「それに、君もなかなか寛容じゃないか、研磨くん。愛しい彼女の兄が、彼氏の目の前でこうして全裸で寛いでいるというのに、特に怒りもせず、冷静さを保っている。大したものだ」 「いや、おれは寛容なんじゃなくて……どうしていいのか、わからないだけ……」  混乱と呆れと、ほんの少しの恐怖で、頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。  すると、名前がコントローラーを持ったまま、おれの顔をじっと見つめた。 「研磨」 「……なに?」 「ゲーム、進めていい?」  この状況で? 本気で言ってる?  おれの心の声が聞こえたのかどうか、名前はただ静かにこちらを見ている。その瞳には、早くゲームの続きがしたい、という純粋な欲求しか見えない。 「……あ、うん……いいよ」  もう、突っ込む気力も残っていなかった。諦めの境地だ。  取り敢えずゲームに集中しよう。そう決意して画面に向き直ったが、どうしても視界の端で、兄貴さんが片膝を立てたまま、完全にリラックスモードでアームチェアに収まっている姿がチラついてしまう。集中できるわけがない。 「……あの、兄貴さん。お願いだから、せめて何か着てくれない?」  懇願するように言うと、兄貴さんはわざとらしく溜め息をついた。 「やれやれ。君が居ると、どうもインスピレーションが削がれるようだね。気が散るかい?」 「めちゃくちゃ散る。集中力ゼロ」  即答すると、兄貴さんは仕方ないな、と言うように、ゆっくりと立ち上がった。その一挙手一投足が、妙に芝居がかっている。 「仕方がないな。そこまで言うなら……パンツくらいは穿いてあげようか」 「そうじゃなくて、全部着て」  おれの悲痛な叫びに、兄貴さんは悪戯っぽく、にこやかに笑った。 「……ふむ。ならば、研磨くんが着せてくれるかい?」 「……帰ってもいい?」  限界だった。本気で立ち上がろうとすると、隣から静かな声が掛かった。 「駄目」  名前だった。彼女はコントローラーを置かずに、おれの袖をくい、と小さく引っ張った。 「研磨、行かないで。ゲームの続き、しよう」  その声と縋るような仕草に、おれの決意は呆気なく崩れ去る。……弱いな、おれ。  深く、深く、溜息をついて、おれは再びコントローラーを握り直した。 「……わかったよ。やろう」  画面の中では、おれのキャラクターが華麗なコンボを決めて敵を倒していく。けれど、おれの集中力はリビングに漂う異様な空気と、視界の隅で着替え始めた(であろう)兄貴さんの気配によって、完全に削がれていた。  ――どう考えても、この家、普通じゃない。特に、お兄さん。  でも、そんな異常な状況下でも、名前が隣に居るだけで、不思議と心が凪いでしまうのも、また事実だった。この静かで、少し風変わりな彼女の隣が、おれの定位置なんだと、改めて思う。 「……研磨、好き」  ゲーム画面から目を離さずに、名前がぽつりと言った。 「……うん。おれも」  取り敢えず、兄貴さんが完全に服を着て、リビングの空気が正常に戻るまで、このシュールな状況に耐えるしかないらしい。まあ、名前が居るなら、それも悪くないか……いや、やっぱり良くない。うん。