桜色、春待ち。

Title:ピンクのこんぺいとう
 あれから、時計の秒針が律儀に三百回程は進んだだろうか。つまり、五分。永遠にも感じられた五分間、リビングの主役の如く、アームチェアに鎮座する全裸の義兄(仮)――兄貴さんが、もそもそと微かな衣擦れ(?)の音を立てて身動ぎするのを、極力、視界の端に追いやりながら、おれは名前と二人、黙々とコントローラーを握り締めていた。手に汗握るアクションゲームのクライマックス。画面の中では、おれの操るキャラが派手なエフェクトと共にラスボスの巨大なHPゲージをごっそり削り取ったところだ。勝利は目前。しかし、この現実世界のリビングでは、おれのMP――メンタルポイントは、もうとっくの昔にゼロを振り切って、マイナス領域に突入していた。集中できない。無理だ、こんな状況。  タラララ~♪ タタタタン! ピロピロピロ~!  軽やかな電子音が勝利のファンファーレを告げた。画面には『STAGE CLEAR』の文字が踊り、キャラクター達が歓喜のポーズを決めている。けれど、隣でプレイしていた名前はふっと息をつくと、コントローラーをそっとローテーブルに置き、すくりと立ち上がった。そして、リビングの壁際に置かれた、アンティーク調の小さなチェストに向かう。一番上の引き出しを開け、何やらゴソゴソと中を探る音が、やけにクリアに耳に届いた。何を……? 「……ねえ、研磨」  暫くして、名前がこちらを振り返った。その声は、ゲーム中の真剣な声色とは違う、少しだけ柔らかい響きを持っている。彼女の手には、透明なガラス製の小瓶が握られていた。夕暮れの傾いた陽光を透かして、中に詰められた無数の小さな粒が、まるで極小の宝石のようにきらきらと繊細な光を放っている。淡い、淡いピンク色。それは―― 「これ、いる?」 「……金平糖?」  思わず、そのまま言葉が漏れた。 「うん。桜味。……もう直ぐ、春、だから」  囁くように紡がれた言葉。けれど、兄貴さんの存在によって、奇妙な程に張り詰めていた部屋の沈黙が、その声をそっと拾い上げ、真っ直ぐにおれの鼓膜へと運んだ。  ――ああ、そっか。もう直ぐ、春。  言われてみれば、窓の外の空気の色が、真冬のそれとは違う気がする。だから、今日の名前はいつもより少し薄手の、柔らかな素材のカーディガンを羽織っていたのか。だから、兄貴さんは全裸だった……いや、それは関係ない。関係ないけど。  その瞬間、ふと部屋全体の空気が、ほんの少しだけ温度を上げたような気がした。気のせいかもしれない。けれど、窓から斜めに差し込む夕陽は、名前が持つ金平糖の瓶を優しく照らし出し、ガラスの中で光が乱反射して、まるで満開の桜の花びらがはらはらと舞い散っているような、淡い幻影を見せた。  名前は慣れた手つきで瓶の小さなコルク栓を抜き、細い指でその中から一粒、金平糖を摘まみ上げた。そして、躊躇うことなく、ひょいとこちらに差し出す。上に向けられた白い掌が、ほんのりと桜色に染まって見える。それは瓶の中のピンク色の光が映っている所為か、それとも、近づいてくる季節――春の気配が、彼女の肌に淡い色を灯したのか。  おれは一瞬だけ逡巡した。けれど、彼女の真っ直ぐな視線に促されるように、そっと指を伸ばす。  触れるか、触れないか。その刹那。  指先が、彼女の掌に、微かに触れた。  柔らかい。でも、確かに伝わる、温かいぬくもり。その微かな接点が、まるで耳の奥を柔らかな羽でそっと撫でられたような、くすぐったくて、でも、どうしようもなく優しい衝撃となって全身を駆け巡った。心臓が、きゅう、と小さく縮こまるような感覚。 「……ありがと」  辛うじて、それだけを口にする。 「どういたしまして」  名前の目が、ふわりと細められた。それは微笑んだのか、それとも、ただ眩しそうに目を伏せただけなのか。判別はつかなかったけれど、その曖昧な表情の変化が、おれの胸の奥深くで、カチリ、と小さな、確かな音を立てて、何かのピースがぴたりと嵌ったような感覚を齎した。  受け取った小さなピンクの粒を、そっと口に含む。  歯の上で、かり、と軽い音がして、すぐに甘さが広がった。桜、と言われればそんな気もする、どこか儚くて、優しい甘さ。角のある小さな星が、ころころと転がる。そのささやかな存在感が、今、この奇妙で、少し居心地が悪くて、それでも何故か離れ難い、このリビングの空間そのものを丸ごと肯定してくれているような気がした。  その甘さに微睡み掛けた、正にその時だった。 「……ああ、そろそろ冷えてきたから、服を着るとしようか」  静寂を切り裂き、のんびりとした、しかし、破壊力抜群の声が響いた。リビングの空気が物理的な質量を持ったかのように、ガラガラと音を立てて崩壊していくのがわかった。 「……まだ着てなかったの……」  思わず、心の声が小声で漏れた。それを聞いたのか聞いていないのか、兄貴さんは「ふむ」とかなんとか言いながら、アームチェアに掛けてあったらしいタオルケットを無造作に肩に引っ掛け、猛禽類が翼を広げるように、のっそりと立ち上がった。違う、そうじゃない。冷えてきた、とか、そういう問題じゃないんだよ。そもそも、何で脱いでるんだ、という、ここに来てからの間、おれの頭の中で反芻され続けた根本的な疑問をもう一度、今度こそ大声でぶつけてやりたい衝動に駆られたが――もういい。考えるだけ無駄だ。疲れた。心底。もう、そういう生き物って思うしかない。  それでも。  舌の上には、まだ、あの桜色の金平糖の淡い甘さが残っていた。  この、少し不思議で、ちょっと、いや、かなり馬鹿馬鹿しくて、だけど、どうしようもなく温かい夕暮れの終わりを、多分、おれはこの先もずっと憶えているんだろう。  春が来るんだ。  新しい季節が、もう直ぐそこまで来ている。