Title:春が来て冬が来た
 春が来て、そして、冬が来た。  いや、窓の外の季節の話ではない。今まさに、苗字家のリビングのドアを開けた影山飛雄の頭の中で満開の桜が咲き誇り、次の瞬間には猛烈な吹雪が全てを凍て付かせたのだ。ドアを開ける瞬間に感じた、甘く柔らかな春の予感――それは気のせいだったのかもしれない。或いは、これから起こる惨劇への、余りにも皮肉な序章だったか。兎にも角にも現実を認識した彼の思考回路は、一瞬にして絶対零度へと叩き落された。  ソファに、苗字兄貴が居た。  ……一片の布も纏わぬ、生まれたままの姿で。 「……」  息を呑む音すら憚られるような、静謐な衝撃。  目を逸らすべきか。いや、ここで視線を外したら、この異常な存在を認めてしまうことになるのではないか。しかし、このまま直視し続ければ精神が確実に摩耗し、再起不能になる。そんな本能的な恐怖と、僅かに残った理性とが、影山の内で激しく衝突し、火花を散らしていた。だが、どちらを選んだところで、彼に残された道は一つしかなかった。 「な、何してんスか!!!!」  絞り出した声は、自分でも驚くほど裏返っていた。腹の底から叫んだ筈なのに、どこか情けない響きを帯びている。影山飛雄、高校二年生、春。バレーコートでは王様と称される彼が、今、人生最大のピンチ――想いを寄せる少女の兄の全裸という名の"冬将軍"――に、真正面から遭遇していた。  対する兄貴は、驚くほど落ち着き払っていた。寧ろ、動揺する影山を観察するかのように、組んだ足の角度を僅かに変え、まるで玉座に座る王か、或いは日向ぼっこをする気位の高い猫のように、すっと顎を上げる。その涼やかな瞳は窓から差し込む春の陽光を映して静かに輝き、眉一つ動かさずに言い放った。 「……ふむ。次の小説の構想を練っていたところだよ。テーマは、"服という概念を忘却の彼方に置き去りにした孤高の天才とその日常"。主人公の心理描写を深める為に、まずは自らがその境地に達する必要があると思ってね」 「設定が狂ってます!! いや、そもそも設定とか、そういう小難しい話の以前に!! ここリビングっスよ!?」  影山の悲痛な叫びも、兄貴にはどこ吹く風らしい。どうにも話が通じる気配がない。これが――苗字兄貴という男。掴みどころがなく、常識の枠を軽々と飛び越えてくる、天才肌の変人。  そして、あの、苗字名前の実の兄なのだ。  ――名前。  その名前を心の中で反芻しただけで、影山の強張っていた表情がほんの少しだけ和らぐ。  春の日差しのように温かく、それでいてどこか切なさを帯びた彼女の声。覗き込むと吸い込まれそうな、深い夜の海を思わせる瞳。触れたくて、もっと近づきたくて仕方がないのに、いつも掴みどころなく、ふわりと遠ざかってしまうような、不思議な距離感。  だけど、彼女は確かに言ってくれたのだ。「飛雄くんのことが、好き」と。たった一度、その言葉を聞けただけで、バレーに捧げてきた以外の不器用な自分の全ての努力が報われるような気がした。  正直に言えば、影山にとってバレーボール以外の事柄は、殆どがどうでもいいことばかりだった。優先順位を付けるまでもなく、常にバレーが頂点にあった。けれど、名前だけは違った。明確に、他の全てとは違うカテゴリーに属する、特別な存在だった。  彼女に会う為に、普段なら見向きもしないファッション誌を捲って服を選んだ日。彼女が好きだと言っていた映画のタイトルを必死で暗記した夜。名前が作ってくれたポークカレーに、少しでも「美味しそう」と思ってほしくて、慣れない手つきで温泉卵を載せてみたこと。その全てが、影山にとっては未知の挑戦であり、ささやかな喜びだった。 「……飛雄くん」  ふと背後から鼓膜を優しく撫でるような、聞き慣れた声がした。  反射的に振り返る。そこには、息を呑むほど美しい少女が立っていた。  春の淡い光をそのまま編み込んだような、薄桃色のカーディガンを肩からふわりと羽織っている。いつものように、その表情の奥にある本当の感情は読み取り難い。けれど、深い湖のような瞳はリビングの惨状――全裸の兄と、硬直する自分――を交互に見つめ、僅かに困惑の色を浮かべているように見えた。 「……兄貴兄さん。今日は、どうして脱いでいるの?」  その問い掛けは驚くほど平坦で、まるで「今日の晩ご飯は何?」と尋ねるのと同じトーンだった。日常茶飯事、とまでは言わないまでも、兄の奇行に対する或る種の諦観と慣れが感じられる。 「いや、だからこれは、創作の為の重要なプロセスなんだ。自由と表現、羞恥心からの解放、そして、存在そのものへの問い掛け……ほら、タイトルも仮で "The Naked Storyteller: A Dialogue with the Void" なんてどうだろうか……」  兄貴が熱弁を振るい始めたところで、名前は静かに、しかし決定的な一言を放った。 「……服を着ていない登場人物は、全て家から追い出す設定にするのはどう?」 「な、成る程……! その視点はなかった! 逆転の発想、いや、これは物語に新たな緊張感とリアリティを齎す、画期的なプロットだ……!」  兄貴はぽん、と一つ手を打ち、何かに深く納得した様子で立ち上がった。ソファの近くに置いていたらしい上質なブランケットをさっと体に巻き付け、古代ギリシャの哲学者か何かのような姿で、ふらふらと自身の書斎がある方へと消えていった。  嵐のような時間が過ぎ去り、リビングには再び静寂が訪れる。残されたのは、影山と名前、二人きりの空間。気まずい沈黙が、春の陽光が作る埃の軌跡のようにゆっくりと漂っていた。 「……その、えっと……」  影山は言葉を探したが、適切な表現が見つからない。衝撃と安堵と、そして、名前に情けない姿を見られた羞恥とが入り混じり、思考が上手く纏まらない。 「うん」  名前は、ただ静かに頷く。 「いや、なんか……もう、言葉にできない……色々……キャパオーバーっつーか……無理……」  しどろもどろに呟く影山に、名前はふわりと微笑み掛けた。 「飛雄くんは、よく頑張ったと思うよ」  その、ほんの少しの労いの言葉と、滅多に見せない柔らかな笑顔。それだけで、影山の内側で凍り付いていた感情が一気に逆流し、沸騰する。不覚にも、耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。  春は、確かに彼女の中に在った。  けれど、恋という名の熱病に浮かされている影山にとっては、今日という日が恋人の兄の全裸に遭遇した記念すべき"冬"の日であることに変わりはなかった。記録的な寒波だ。  だが、その時だった。  不意に、名前が音もなく一歩、影山に近づいた。  そして、躊躇うように、けれど、確かに白く細い指先が、彼の硬く握り締められた手にそっと触れた。 「……大丈夫。わたしは飛雄くんが恥ずかしい思いをしたこと、忘れないよ」 「……それ、全然、慰めになってねぇんだけど……!」  思わずツッコミを入れるが、声は弱々しい。 「それでも」  名前は顔を上げ、真っ直ぐに影山の瞳を見つめる。その深い瞳の奥に悪戯っぽい光が宿った。 「わたしだけは、ちゃんと憶えているからね」  見上げる瞳が、ふわりと花が咲くように笑った。  その瞬間、影山は悟った。  ――ああ、また春が来た。  お前が、ただ笑えば、それだけで。  どんなに凍て付く冬だって、全部、全部、跡形もなく溶けていく。  世界はこんなにも簡単に、色を取り戻すのだと。