触れた瞬間、壊れそうで、でも、確かに温かかった。
Title:白く細い指
影山は少し震える指先で、そっと差し出された
名前の手を握り返した。
その指は、意外にも冷たくはなかった。けれど、触れた瞬間に感じたのは、まるで薄氷を踏むような危うさと、触れてはいけない神聖なものに触れてしまったかのような、奇妙な罪悪感にも似た感覚だった。爪の先まで丁寧に整えられた、白く細い指。光に翳せば透けてしまいそうな、どこか硝子細工を思わせる繊細さ。力を込めれば、ぱきりと音を立てて壊れてしまいそうで、ただ握ることすら恐ろしかった。
けれど、
名前は逃げなかった。握り返されたその手を、驚くでも、拒むでもなく、ただ静かに、それが当然であるかのように、影山の無骨な掌の中へと委ねていた。その信頼が、影山の胸を締め付ける。
リビングには、もうあの奇妙な作家――
兄貴の気配はない。ドアの向こうで、何やら「物語には風が……いや、嵐が必要なんだ……」などと、芝居がかった独り言が微かに聞こえた気もしたが、今の影山の意識には届かず、そんなものはノイズでしかなかった。彼の視界には、ただ目の前に立つ
名前の姿だけが鮮明に映し出されていた。他の全てが色褪せた背景のように遠ざかっていく。
彼女は音もなく一歩、影山へと近づいた。
その距離は、互いの呼吸が混じり合い、相手の体温さえ感じられる程に近い。ふわりと、彼女から漂う甘く上品なローズの香りが、影山の鼻腔を擽る。それは体育館の汗や湿布の匂いとは全く違う、異世界の香り。その香りに誘われるように、影山の身体の奥底で、自分でも制御できない何かが、むくりと頭を擡げ始めるのを感じた。マズい、と思った。
「飛雄くん、まだ顔が赤いね」
悪戯っぽく、
名前が囁く。その声がやけに近い。
「う、うるせぇ……! お前が、変なこと言って笑うからだろ……!」
反射的に声が裏返る。
「ふふっ……でも、わたし、凄く嬉しかったんだよ」
指先が、今度は躊躇いなく、影山の熱い頬にそっと触れた。ひんやりとした、けれど柔らかな感触。その一瞬で、影山の全身の血液が沸騰したかのように熱くなった。鋭い眼光でコート上の全てを見通す筈の彼の目が、今は羞恥と激しい戸惑いの為に焦点を失い、あらぬ方向を激しく彷徨っている。
名前の顔をまともに見ることなんて、到底できそうになかった。
「……嬉しかったって、何がだよ。人がどれだけ混乱したと思って……」
不機嫌さを装って、言葉を絞り出す。
「だって、あんなに真剣に……わたしの兄の、その……裸に、心から動揺しつつも、ちゃんと会話してくれていたから」
わざとらしく言葉を選びながら、くすくすと笑う。
「やめろ!! 忘れさせろ!! 頼むから!!」
「やだ。絶対に忘れないよ。飛雄くんが子犬みたいにぷるぷる震えながら、『設定が狂ってます!!』って叫んでいたの、本当に可愛かった」
「……っ、てめぇ……!!」
心臓が鷲掴みにされたように大きく跳ねた。可愛い、なんて。そんな言葉を向けられることなど、殆どない。その言葉の響きに、どう反応すればいいのか分からず、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうになる。どうして自分は、この子の前では、こうも簡単に調子を狂わされてしまうのか。コートの上では決して見せない、ただの不器用な男子高校生でしかいられない自分が歯痒くて仕方なかった。
「それに、飛雄くんがわたしのこと、いつも一生懸命に考えてくれているの、ちゃんと伝わってくるから……凄く、幸せ」
名前の声はどこまでも柔らかく、耳に心地よい。春の雪解け水が流れる、澄んだ小川のせせらぎのようだ。その声で自分の名前を呼ばれる度、影山の体内の全ての回路がショートしたかのように思考が停止する。意味もなく拳を強く握り締めたり、無理やり視線を逸らしたり。自分でも制御できないこの熱は、間違いなく、全て彼女の所為なのだと、影山は確信していた。
「……お前な……ほんと、そういう……。俺が、どうにかなるくらい、好きにさせるようなこと、言うなよ……」
ぽつりと、殆ど無意識に漏れた言葉。それは極度の恥ずかしさに裏打ちされた、ぎりぎりの本音だった。けれど、その言葉には、彼自身も驚く程の確かな重さと熱が込められていた。
すると、
名前は少しだけ驚いたように大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。そして、次の瞬間――待ち望んでいた言葉を受け取ったかのように、花が綻ぶように、にこりと微笑んだ。
「……うん。どうにかなっても、いいよ」
それは囁くように甘く、そして残酷なまでに、影山の心臓を射抜く一言だった。
次の瞬間、影山の内に辛うじて残っていた理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
彼は殆ど衝動的に、
名前の手を強く引き、抵抗する間も与えずに、その細い腰をぐっと引き寄せて、力強く抱き締めた。驚いたように「わ」と小さな声が上がる。けれど、矢張り彼女は逃げなかった。一瞬、身体を強張らせたものの、すぐに力を抜き、その身を影山の胸に、素直に預けてくれた。
耳元で、彼女の小さな呼吸音が聞こえる。さらさらとした髪が、彼の鎖骨を擽る。腕の中に感じる、確かな温もりと信じられない程の柔らかさ。それが紛れもない現実なのだということが、まだどこか夢のように感じられて、けれど、どうしようもなく嬉しくて、胸が張り裂けそうだった。
「飛雄くん……?」
戸惑うような、甘い声。
「……もう、ちょっとだけ……このまま、こうしてろ」
絞り出すような声で告げる。
名前は言葉なく、小さく頷いた。その仕草が、また影山の心を揺さぶる。
影山の大きな手が、彼女の華奢な背中を宝物に触れるかのように、ゆっくりと撫でる。ガラスの彫刻を愛でるような、慎重さと優しさで。彼女という存在の全てを、この腕の中に、自分の記憶に、確かに刻み込もうとするかのように。
「……お前、さ」
暫くして、影山が掠れた声で言った。
「ん?」
腕の中から、くぐもった声が返ってくる。
「お前の、その……指。……凄く、綺麗だよな」
柄にもない言葉が、自然と口を衝いて出た。
「……ありがとう。でも、飛雄くんが言うと、なんだか照れるね」
顔を上げずに、
名前が呟く。
「いや、マジで……なんつーか、細いし……透明っつーか。触ったら壊れそうで、こえぇぐらいなのに……」
影山はゆっくりと、
名前の指を取った。白く、細く、けれど確かに温もりを持った指。
そして、まるで聖なる儀式のように、その繊細な指先に、そっと自分の唇を押し当てた。
「……っ」
僅かに息を呑む
名前の気配が、繋いだ手のひらを通して生々しく伝わってくる。唇が触れた場所に、彼女の体温がじんわりと宿る。影山自身も、自分が今、何をしているのか、半分わかっていなかった。バレーボール以外のことには、こんなにも不器用で衝動的なのかと、自分自身に呆れる。けれど、それくらいには、目の前の彼女をただ「好き」という言葉だけでは到底収まり切らない程、強く、深く、想っていることの証明だった。
「……今の、凄く狡い……。わたし、本当に心臓が止まるかと思った……」
漸く顔を上げた
名前の頬は薔薇色に染まっていた。潤んだ瞳が、影山を真っ直ぐに見つめている。
「止まったら困るだろ、俺が」
ぶっきら棒に、けれど真剣に返す。
「うん……。でも……止まりそうなくらい、……嬉しかった」
そして、またはにかむように微笑んだ。
長く厳しい冬が漸く終わりを告げ、柔らかな日差しの中に、春が静かに訪れたような瞬間だった。恋という感情は、まだ芽吹き始めたばかりの小さな蕾のように、二人の間に、確かに、そして力強く息衝き始めていた。影山の腕の中で、
名前の存在が何よりも確かな温もりとなって、彼の心をゆっくりと満たしていくのを感じていた。