冷静になった時の自分に土下座したくなる系男子の日常。
Title:恋愛運気上昇中
全裸兄という名の衝撃波が漸く鎮まり(正確には、
兄貴さんはブランケットをマントのようにはためかせ、何やら満足気に自室へと引き上げていった)、リビングには嵐の後のような不思議な静けさと、ほんのり甘いカレイの煮付けの香りが漂っていた。俺と
名前は、ダイニングテーブルに向かい合って座っている。窓の外はいつの間にか深い藍色に染まり、町の灯りが宝石のようにちらちらと瞬き始めていた。さっきまでのカオスな状況が嘘だったかのように穏やかで、そして、どこか期待に満ちた空気が、俺達の間を流れている。
目の前には、ほかほかと湯気を立てる、カレイの煮付け。艶やかな琥珀色の照り、ふっくらと炊き上げられた純白の身、そして鼻腔を擽る甘辛い芳醇な香り。俺にとって、それは単なる好物というだけでなく、母の味であり、心の拠り所でもある特別な料理だ。それを、今、愛しい
名前が、俺の為だけに作ってくれた。その事実だけで胸の奥がじんと熱くなり、言葉にならない感謝と感動でいっぱいになる。
「工くん、どうぞ。お醤油の加減とか、お口に合うといいけれど……」
名前が白い頬をほんのり上気させ、少し照れたように、けれど期待に満ちた眼差しで、俺を見つめながら言う。その控えめな仕草と潤んだ瞳が、今日の全ての出来事でささくれ立っていた俺の心を、春の陽だまりのようにふんわりと優しく癒していく。
「……頂きます!」
俺は感謝の気持ちを込めて力強く手を合わせ、逸る心を抑えながら、早速、煮付けの最も肉厚な部分にそっと箸を入れた。そして、一口。
その瞬間だった。
「……っ!?」
まるで雷に打たれたかのような衝撃が、俺の全身を貫いた。思わず、箸を持ったまま硬直する。
「……工くん? どうしたの? もしかして、味が濃過ぎたかな……?」
名前が心配そうに、小さな顔をテーブルに乗り出すようにして、俺の顔を覗き込む。その大きな瞳が不安気に揺れている。だけど、俺はそれどころじゃなかった。何かが、おかしい。いや、おかしいと言うよりは尋常じゃない。
「こ、これ……な、なんだ、この味は……!? 甘辛い、確かに甘辛いんだ、でも、その奥に……なんか、こう、今まで味わったことのない、舌の上で踊るような、それでいてクセになるような、未知の成分が……隠されている気がする……!?」
脳内で花火が打ち上がったみたいだった。カレイの煮付けを一口飲み込んだだけなのに、何故か視界がパァッと鮮やかに開け、世界が輝き出したように感じる。
鼓動が安静時とは思えない程に力強く、そして速く高鳴っている。部屋の空気まで、森林浴をしているかのように澄み切って、清々しく感じられる。
俺の中の何かが、今、この瞬間、明らかに、劇的に変わった――!
「こ、これって……まさか……」
ゴクリと無意識に唾を飲み込む。思わず、目の前の
名前を真剣極まりない、探偵が難事件の真相に迫る時のような鋭い目つきで見つめてしまった。
「もしかして、これ……"恋愛運気"が爆発的に上昇する、何か特別な霊薬か秘薬の類が、こっそり混入されてる……!?」
「……え? れ、恋愛運気……? 霊、薬……?」
名前は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、目をぱちくりさせている。その無垢な反応が、俺の確信を逆に強固なものにした。
「間違いない! だって、これを食べた瞬間から、心が、羽が生えたみたいに軽くなって、どんな困難も乗り越えられそうな、超絶ポジティブな思考になって、なんかこう……体の底から、無限の自信がマグマみたいに湧き上がってきて……っ!!」
俺は勢いよく、すくっと椅子から立ち上がった。全身に力が漲り、今なら白鳥沢学園の体育館の天井にだって届きそうな気がする!
「よし! 今なら、なんだってできる!! 白布さんにだって、口で勝てる気がする! いや、牛島さんを超えて、日本一のエースにだってなれる!! ……そうだ、プロポーズもイケる!!
名前!!」
「ま、待って? どういうこと? プロポーズって、一体、何の話をしているの、工くん!?」
名前が混乱の余り、美しい顔を真っ赤にして焦っている。その慌てふためく姿が、何故かめちゃくちゃ愛おしく見える……!!
「
名前、俺は一目見た時から、お前と結婚したいと思ってたんだ――って言うか、今、この瞬間、お前の手料理を口にしたことで、俺の人生観、いや、宇宙観すらも根底から覆されたような気がする!! これはもう運命だ!」
「ど、どうして、そんな壮大な話になっているの……? カレイの煮付けで……?」
俺のテンションは完全に振り切れて、最高潮に達していた。目の前に居る
名前が、顔を真っ赤にして戸惑っているのが……矢張り筆舌に尽くし難い程、可愛くて仕方がない……!!
「やべえ……
名前、今日の
名前、なんかいつにも増して、後光が差してるみたいに天使に見える……! あ、でも、勿論、最初からずっと、世界で一番可愛いって思ってたんだけど! でも、今日は特に、その可愛さが限界突破してて、もう直視できないくらいヤバい!!」
「……!? わ、わたし、そんな……!?」
名前の顔はもう、茹でダコみたいに真っ赤だ。自分でも、何を口走っているのか、支離滅裂で意味不明なことを言っている自覚はある。でも、止まらない。心のブレーキが完全に故障して、アクセル全開で暴走している状態だった。
――その時だった。
「おーい、二人共、盛り上がっているところ悪いけれど。もしかして、
名前、俺の特製漢方を使ったのかい?」
ダイニングの奥、リビングのソファの方から、いつの間にか戻ってきていたらしい
兄貴さんの、どこか呑気で、しかし、全てを見通しているかのような声が飛んできた。
「えっ、兄さん? 特製漢方って……?」
名前が訝しげに首を傾げる。
「ああ、それを口にしていたなら、元気にもなるだろうね。何せあれは、俺が長年の研究の末に編み出した、"超集中力強化用ブレンド・T10スペシャル"の漢方を煮詰めて凝縮したものだからね。副作用は一切なし、安全性は折り紙付き。俺が大事な執筆の前に精神を研ぎ澄ます為、自分用に調合したものだけど、余りに風味が独特でクセが強過ぎて、少し残っていたんだ。それをどうやら、
名前が何かの調味料と間違えて使ってしまったようだね」
「…………」
「…………」
時が止まった。まるで、誰かが世界から音を消してしまったかのように。俺と
名前は顔を見合わせたまま、完全にフリーズしていた。
「……え、そ、それを、わたし、間違えて、カレイの煮付けに……?」
名前の声が微かに震えている。
「ああ。確か、あの漢方を入れた小瓶は、うっかりラベルを貼り忘れていて、中身が何なのか分かり辛かった筈だ。今、工くんが口にしたカレイの煮付けに入っていたのは、恐らくそれだね……」
「え、えっ……?」
名前が血相を変えて、慌ててキッチンに駆け寄る。戸棚の中を漁り、やがて一つの小さなガラスの空き瓶を手に取り――絶望的な表情で、こちらを振り返った。
「……本当だ、これ……瓶の底に消えかかった文字で、『T10調合・集中力爆上がりver.』って、薄っすらと書いてある……」
「矢張り、それだったか。まぁ、今の工くんは言わば、一種のハイな状態だ。脳内麻薬と言うか、アドレナリン的なホルモンのバランスが文字通り、爆上がりモードになっているんだろうね」
兄貴さんはまるで他人事のように、悠然と紅茶を啜っている。
「……え、お、俺……今、合法的にテンションがぶっ壊れて、おかしな状態になってたってこと……?」
「そういうことだね。でもまぁ、気分は高揚して爽快になるだろうから、特に心配は要らないよ。寧ろ、楽しんでくれたまえ」
そう言うと、
兄貴さんはブランケットに深く潜り込み、読書の世界へと戻っていった。
俺はと言えば、ハッと我に返り、自分が先程まで、
名前に対して口走っていた熱烈且つ支離滅裂な言葉の数々を思い出して――顔から火が出るような羞恥心に襲われ、その場に崩れ落ちた。
「う、うわぁああああああああ!!! なんてことだ! 俺は一体、何を!!」
床に手を突き、頭を抱える。穴があったら入りたいとは、正にこのことだ。
「な、なんか……本当にごめん……俺、滅茶苦茶、気持ち悪い事とか、意味不明な事とか、沢山言った気がする……!! もう、合わせる顔がない……!!」
「ううん、そんなことないよ……。わたし、別に、嫌じゃなかったから……」
消え入りそうな、けれど、はっきりとした声が聞こえた。
「えっ!?」
今度は、俺が信じられないと言うように目を見開く番だった。
名前は耳まで真っ赤にしながら、俯いてテーブルの隅を白い指でそっと突いている。
「……それに、工くんが、あんなに美味しそうに、喜んで食べてくれたなら……わたし、頑張って作って、本当に良かったなって、思ったし……」
「……っ!」
心臓が再び、今度はさっきまでのハイテンションとは全く違う、温かくて優しいリズムで大きく跳ねた。
漢方の効果じゃない。これは――正真正銘、俺自身の、本物の気持ちだった。
俺はゆっくりと顔を上げ、
名前の方へそっと視線を向けた。彼女はまだ俯いたままだが、その横顔は夕焼けのように美しく染まっている。
「……もしかして、
名前の手料理そのものが、俺の運命を動かす"お呪い"なんじゃないか……?」
気づけば、そんな言葉が口を衝いて出ていた。
「それは……ふふっ、ちょっと大袈裟かもしれないけれど……」
名前は、はにかむように、でも本当に嬉しそうに、花が綻ぶように笑った。
「でも、工くんが元気になってくれるなら、わたしはそれで、とっても嬉しいよ」
ああ、もう。
やっぱり、今日の俺の"恋愛運気"は……漢方の力があろうとなかろうと、間違いなく急上昇中だ。この胸の高鳴りは本物だ。