夕焼けと恋心を抱いて向かった彼女の家で、俺を待っていたのは――
予想外の"芸術"が全てを破壊した。
Title:心待ちにしていた時間
午後五時三十二分。
嵌めガラスの向こう、茜色の夕暮れがビルの稜線を淡く滲ませていた。西の空から斜めに差し込む最後の光が磨かれた床に長い影を落とし、マンション内の隅々まで柔らかなグラデーションを描き出している。俺はその光に染められた自分の手のひらをじっと見下ろし、無意識に詰めていた息をそっと吐き出した。
この時間。この場所。
今日という日を、この瞬間を、どれほど焦がれるように待ち望んでいたか。その想いの熱量は、きっと誰にも正確には伝えられない。
――いや、他の誰でもない、俺自身が一番よく知っている。
「よしっ」
小さく気合を入れれば、制服のシャツ越しに心臓が一段と強く脈打つのが分かった。逸る気持ちを抑えるように襟元を軽く引き、一つ深呼吸。エントランスの重厚なオートロックを抜け、静かに上昇するエレベーターの中で、俺の心はトランポリンで跳ねるみたいに、ずっと浮き足立っていた。
もう直ぐ会える。
いつものように、どこか掴みどころのない、けれど澄み切った瞳で、俺を迎えてくれる彼女に。
いや、"いつも"なんかじゃない。今日だけは特別な響きを持っていた。
今日は――
名前と二人きりの夕飯の約束を取り付けていたのだ。
兄(※
兄貴さん)は大事な打ち合わせで帰りが遅くなるらしい、と昨夜、
名前がどこか嬉しそうに教えてくれた。
「だから、わたしの手料理で良ければ……工くん、一緒に食べてくれると嬉しいな」
そう、はにかみながら言われたのだ。
そんなの、断る理由なんて、天地が引っ繰り返っても見つかるわけがない。寧ろその言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏には、彼女の得意料理だというカレイの煮付けの姿が湯気まで鮮明に浮かび上がったくらいだ。
彼女の手料理。
二人きりの食卓。
そして食事が終わったら、あの広いリビングで、肩が触れ合うか触れ合わないかくらいの絶妙な距離感で一緒に映画を観る――そんな完璧な予定が頭の中で何度もリピート再生されていた。
そう、あくまでそれは予定だった。
部屋のチャイムを鳴らし、インターホン越しに、
名前の「開いているよ、工くん」と言う涼やかな声に促されてドアを開け、リビングへと続く磨かれた扉の取っ手に手を掛けた、正にその瞬間――俺が胸に抱いていた甘酸っぱい期待と完璧な予定は木っ端微塵に吹き飛んだ。
「……ッはぁ?」
人は驚き過ぎると声が出なくなってしまうと言うが、俺の場合は意味不明な呼気が漏れただけだった。
と言うか、視界がバグを起こしたみたいにぐにゃりと歪み、目の前の光景を脳が正常に処理することを放棄した。
何故なら、そこに広がっていたのは――
部屋の中央、上質な黒革のソファに悠然と足を組み、王様か何かのように鎮座している長身の男。
例によって、寸分の乱れもなく整えられた漆黒の髪。全てを見透かすような落ち着き払った目元。背筋の伸びた堂々たる姿勢。その眼差しには、絶対的な余裕と自信が湛えられている。
――にも拘らず、だ。
その男は全裸だった。
そう、靴下一枚すら身に着けていない、完璧なるノーガード戦法。生まれたままの姿。
"偉そうに座っている"という表現が、この世のどんな状況よりも、今、この瞬間の彼にこそ相応しいと思えた。
「……っ、
兄貴……さん……?」
絞り出した声は情けなく裏返り、自分でもどこか遠くで理性のブレーカーが落ちる音を聞いた気がした。
「おぉ、工くん。来たんだね。待っていたよ」
その声は、俺の混乱などまるで意に介さない、いつもの余裕綽々としたテノール。動揺しているのは、俺だけだという事実が無性に腹立たしい程に、
兄貴さんは静かに、そして優雅に頷いた。
「いやいやいやいやいやッッ!」
反射的に、自分でも驚く程の大きな声が喉から飛び出した。
全裸の成人男性を前にした人間の対応としては、決して間違ってはいない筈だ。寧ろ、これが正解だとすら思う。
「な、何してるんですか!? 裸! 全裸ですよ、リビングで! 人様に見せられる格好じゃないでしょうが!」
「ふむ。俺が全裸であるという事実は否定しないけれど――"何をしているか"と問われれば、そうだね、インスピレーションの充電中、とでも言っておこうか。今日の創作テーマは、"ありのままの自分と出会う夜"なんだ」
ポエムじゃねぇか! しかも、意味が全然分からん!
「そういう高尚なテーマを追求する前に、まず服を着てくださいよ! 風邪引きますよ、って言うか、俺の目が! 俺の目が困ります!」
「成る程、そうか。君は今、愛しい彼女との甘い逢瀬に心を躍らせ、期待に胸を膨らませて、この部屋へやって来た。ところが、どうだ。リビングの扉を開ければ、そこに居たのは君の恋人ではなく、その兄が一人。堂々と一糸纏わぬ姿で、君を待ち構えていた……。この劇的なまでの心理的落差、期待と現実の乖離が、今の君のこのエモーショナルなリアクションを生み出しているわけだね。実に興味深い」
「違います! いや、違わないこともないですけど! でも、そういう問題じゃなくて! 根本的に! 人として!」
もう訳が分からない。額からは冷や汗が流れ落ち、背筋を嫌な汗が伝っていく。
脳内がけたたましい警報を鳴らし続けている一方で、視界の端には、ローテーブルの上に寸分の狂いもなく丁寧に折り畳まれた漆黒の衣服一式が置かれているのが見えてしまった。その異様なまでの几帳面さが、この非現実的な状況に妙なリアリティを与え、俺のパニックを更に加速させた。
「……兄さん、もう、そのくらいにしてあげて」
不意に背後から鈴を転がすような、けれど、どこか呆れを含んだ声が聞こえた。その声に、俺はびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。
――
名前だ。
今日は白に近い、淡くくすんだ灰青色のワンピースを身に纏っていた。いつもは下ろしている艶やかな長い髪は、今はサイドで緩やかな一つ結びにされ、項の白さを際立たせている。静かな夜の海を思わせる深い色の瞳で、少し困ったように、それでも微かに笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「工くん、来てくれてありがとう。嬉しい」
「っ、
名前……」
その柔らかく澄んだ声は、渇いた喉に染み渡る清涼な水のように、俺のささくれ立った心を鎮めていく。正にヒーリング。女神降臨。
「……兄さん、今日は大事な打ち合わせで遅くなるって言っていたのに、さっき、急に帰ってきて、『少し作品と深く向き合いたいから、邪魔しないでくれ』なんて言い出して、そのまま裸になってしまって。工くんがもう直ぐ来るって、何度も言ったのに、全然聞いてくれなくて……本当に、ごめんね」
名前はそう言いながら、リビングの隅に置いてあった上質なカシミアのブランケットを手に取り、淡々とした動作で、ソファに座る
兄貴さんの肩からすっぽりと被せた。下半身まではカバーし切れていないが、ないよりはマシだ。
しかし、
兄貴さんはブランケットを纏ったその状態でも、なお悠然と足を組み直し、まるで何かの勝負にでも勝ったかのように、どこか勝ち誇ったような表情で言った。
「いいんだよ、
名前。俺はただ、この工くんという青少年が、君のことをどれ程まで真剣に、そして、深く大切に思っているのか、この身を以って確かめたかっただけなのだから。彼は、"裸の俺"と"服を着た
名前"を天秤に掛けた時、一瞬の逡巡もなく、君を選んだ。これは兄として、非常に安心できる結果だよ。うん、彼は間違いなく良い子だ」
「比較対象にすらなってないですから!」
「本当、兄さんは恥ずかしい人だね……。ごめんね、工くん、変なところを見せてしまって」
名前が、俺の強張っていた手を、そっと両手で包み込むように取った。
その瞬間、まるで魔法に掛かったみたいに、全裸ショックで急速に冷え切っていた俺の心臓が、再び確かな温もりと優しいリズムを取り戻していくのを感じた。彼女の小さな手のひらから伝わる温かさが、じわりと全身に広がっていく。
「工くん。夕飯の準備、もう出来ているよ。今日は……カレイの煮付けを頑張って作ってみたんだ。口に合うといいけれど」
――ああ、そうだ。俺が心から待ち望んでいた時間はちゃんと、ここに存在していたんだ。
全裸兄という名の超弩級の障害物に一瞬進路を掻き乱されたけれど、俺が目指していたのは、この優しい温もり、この穏やかな笑顔、そしてこの心地よい声だったのだ。
リビングの片隅でブランケットを中途半端に纏いながら、どこか満足気にニヤニヤとこちらを見ている全裸(に近い)
兄貴さんの存在は……もう忘れよう。うん。心のシャッターをガラガラと下ろして、視界に入れないようにしよう。
(……もう一生、俺の記憶から綺麗さっぱり消え去ってほしい)
そう心の底から願いながら、俺は
名前の小さな手を確りと握り返した。彼女の指先が安心したように、俺の指に絡み付く。その感触だけで、もう何もかもどうでもよくなってしまうくらい、俺は満たされていた。