“裸の王様”に邪魔されながらも、 恋人との静かな時間を求める赤葦京治の、 理性的な嫉妬と静かな願いの物語。

Title:遠ざかる足音
 リビングのドアノブに手を掛ける前に、赤葦京治は一度、意識して深く息を吸い込んだ。  梟谷学園でのバレー部の自主練は、今日も今日とて木兎光太郎という名の大型爆弾の処理に追われ、漸くその熱量から解放されたばかり。駅まで彼を誘導するという名の護送任務を終え、心地よい疲労感と共に、彼はいつものように恋人である苗字名前の住むマンションへと足を運んでいた。  テスト勉強という大義名分を掲げ、赤葦謹製の作問プリントと参考書を詰め込んだコットンのトートバッグが、彼の肩で控えめに揺れている。だが、それらの学業成就アイテムの存在意義など、リビングの奥に控えているであろう"彼女"の鈴を振るような声一つで、いとも容易く霧散してしまうことを、赤葦は経験則として熟知していた。  今日も恐らく、何かが起きる。彼の鋭敏な第六感が、警鐘のようにそう囁いていた。それは期待と、ほんの少しの警戒が入り混じった、複雑な予感だった。 「……名前?」  呼び掛けに応える声はない。磨き上げられたフローリングにスリッパが触れる音だけが、やけにクリアに響く。リビングのドアを静かに押し開け、一歩、足を踏み入れた瞬間。  赤葦は目の前に展開された光景に、脳内で何かがショートするような、或いは読み込みエラーを起こした古いコンピュータが発するような、けたたましいファイル破損音を聞いた気がした。 「いらっしゃい、京治くん」  その声は確かに聞き慣れたものではあったが、今の赤葦が最も聞きたかった名前のものではなかった。  ――と言うより、声の主は名前の兄、苗字兄貴その人であり、しかも。しかも、である。 「……兄貴さん。何故、服を着ていないんですか」  平静を装って絞り出した赤葦の声は、我ながら信じられない程に落ち着いていた。いや、落ち着かせようと必死だった、と言うべきか。  目の前には、猫が日向ぼっこでもするように、ソファの背凭れに片肘を預けて悠然と空間を占拠する、全裸の男が一人。優雅に足を組み、顎を僅かに上げ、涼やかな表情で新聞の経済面に目を通している。周囲にはバスタオル一枚すら見当たらない。そこには一点の曇りもない、堂々たる裸の王様――いや、裸王が君臨していた。 「リビングは、俺にとって"心の洗濯場"のようなものだからね。魂の垢と共に、衣服も脱ぎ捨てるのは、ごく自然な流れだと思っているんだ」 「……成る程。そういう哲学をお持ちで」  この常軌を逸した状況を「成る程」の一言で片付けられる程、赤葦京治の精神は鋼鉄で出来てはいなかった。彼の脳内では「理解不能」「緊急事態」「何故だ」という単語が激しく点滅している。  だが、ここで大声で怒鳴り散らすのも、彼の美学に反する。これが苗字兄貴という男なのだ。或る種の諦観にも似た感情が、赤葦の胸を支配した。 「兄貴兄さん。京治くんが驚いてしまうから、そういう言動は控えてと言っているでしょう」  不意に背後から凛とした、けれど、どこか柔らかな声がした。振り返ると、ラフな私服姿の名前が、何事もなかったかのようにひょこりと顔を覗かせている。彼女の儚げな美貌と、その落ち着き払った口調のアンバランスさが、この非日常空間において唯一の救いのように感じられた。 「いや、京治くんは驚いてなどいないよ、名前。寧ろ内心では『今日も、この兄は或る意味で芸術的だな』と感嘆している筈だ。ねぇ、京治くん?」  兄貴が新聞から顔も上げずに言う。 「芸術……と呼ぶには、些か布面積が不足しているかと。と言うか、ゼロですね。矢張り裸体での共有スペースの利用は、衛生面及び倫理面から鑑みても不向きだと思います」  赤葦は努めて冷静に、そして可能な限り、角の立たない言葉を選んで反論した。 「うん、京治くんの言う通り、正論だと思う」  名前はこくりと頷き、どこからか取り出した薄手のタオルケットを、兄の肩にそっと掛ける。兄貴は不満気に唇を尖らせたが、妹からのささやかな気遣いに対して、抗議の言葉を口にすることはなかった。その一連のやり取りを、赤葦は黙って見つめる。名前の柔らかな髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れた。  その時、赤葦の心にふと"遠ざかる足音"のイメージが、まるで幻聴のように浮かんだ。  ――この兄が居る限り、二人きりになれる甘美な時間は蜃気楼のように遠い。  実際、ここ一ヶ月というもの、名前とまともに二人きりで過ごせた記憶が殆どない。週末には、名前の弟であるが遊びに来ては姉を独占し、ゲーム談義に花を咲かせ、平日の放課後はこうして、兄貴がまるでリビングの空気と同化するように居座る。そして気が付けば、壁掛け時計の針は無情にも門限間際を指し示し、赤葦は名残惜しさを胸に帰路に就く羽目になるのだ。 (……こういう時、少しぐらい、嫉妬という感情を露わにしても許されるのだろうか)  赤葦は自身の内に芽生えた感情が単なる不満ではなく、明確な"理性的な嫉妬"へと変質しつつあることを冷静に、しかし、どこか戸惑いながら認識していた。  いつもの彼ならば、この兄妹との時間も、名前を理解する為の"必要なデータ収集"として、冷静に処理していた筈だ。だが、ふと隣に並んだ名前の細い指が、まるで偶然を装うようにそっと自分の手に触れた瞬間、彼は悟った。  ――好きな人の温度は、どれだけ近くに感じても、際限なく欲しくなるものなのだ、と。 「……名前。ちょっと、散歩でも行かない?」  気づけば、言葉が口を衝いて出ていた。赤葦にしては珍しく、衝動的な提案だった。  名前は大きな瞳を数回瞬かせ、それからふわりと春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。 「うん。行こう、京治くん」  二人が身支度を始めると、ソファに深く沈んだままの兄貴が再び新聞を広げ直した。その横顔は、どこか満足気にも見えた。 「ああ、二人とも楽しんでおいで。俺は、君達が帰ってくる頃には、ちゃんと服を着ているよ。……多分だけどね」 「その"多分"が、過去のデータから統計的に分析して、著しく信頼性に欠けることは既に証明済みですので、念の為、荷物は持って出ます」  赤葦は肩に掛けていたトートバッグを確りと持ち直し、名前と共に玄関へと向かう。  彼の耳には、先ほど感じた"遠ざかる足音"が、微かな残響として届いていた。だが、今度はそこに寂寥感はなく、寧ろ仄かな安堵と確かな期待が込められているのを感じた。  ――このドアの鍵を静かに回した先には、きっと二人きりの穏やかな世界が待っている。  マンションのエントランスを出ると、夜風が頬を撫でる。手を繋ぐと、名前がふと顔を上げて、内緒話でもするように囁いた。 「京治くん、わたしね、兄さんが居ない日の夜の方が、やっぱり好きだよ」  その言葉に、赤葦は思わず口元を綻ばせる。 「奇遇だね、名前。俺も、全く同じ意見だよ」  二人の影が街灯の頼りない光を受けて、夜道に長く伸びて重なる。ひんやりとした秋の風が、そっと彼らの間を吹き抜け、自然と距離を近づける。  足音は夜の静寂に吸い込まれるように、けれど、確かなリズムを刻んで響いていた。やっと二人きりになれる、ささやかだけれど、掛け替えのない未来へ向かって。