想い出のカフェで、変わらぬ声に心が揺れる。
Title:いつまでも消えない君の声のトーンが心を振動させるの
マンションのエントランスを抜け、ひんやりとした秋の夜風が頬を掠めると、二人の足は自然と横並びになった。街灯の頼りない光がアスファルトを斑に照らし、彼らの影を長く引き伸ばす。いつもより、少しだけ肩が近い。だが、そこに気まずさや気恥ずかしさはなく、今夜の空気は寧ろ、何もかもがしっとりと肌に馴染むような心地よさがあった。まるで長年連れ添った夫婦のような、言葉にしなくても通じ合う安心感が互いの間に漂っている。
角を一つ曲がったところで、
名前がふと足を止め、夜空を見上げた。吐く息が白く夜気に溶ける。
「ねぇ、京治くん。あのカフェ、憶えてる?」
名前の細い指が示す先には、雑居ビルの一階にひっそりと佇む、ガラス張りの小さな店があった。温かみのあるオレンジ色の照明が、磨かれた窓ガラス越しに通りまで優しく漏れ出し、控えめに瞬く看板のネオンサインが、どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出している。そこは二人が初めて肩を並べて一緒に勉強した場所であり、赤葦にとっては、彼女の声を、その息遣いさえも、一番近くで感じた記憶が鮮明に刻まれている特別な場所だった。古い映画のワンシーンのように、あの日の光景が脳裏に蘇る。
「……ああ、憶えてる。確か、あの日もテスト前で、俺が作った化学のプリント、かなり難易度高めだったよね」
赤葦は微かに口角を上げて応じた。セピア色の想い出が、胸の奥を擽る。
「そう。わたし、化学のモル計算が全然分からなくて、半泣き状態で、京治くんに助けを求めたんだ。京治くんの解説は凄く分かり易かったけれど、それでも難しくて、最後は殆ど思考停止していた」
名前が、くすりと悪戯っぽく笑いながら言う。その声は夜風に乗って、赤葦の耳に柔らかく届き、微かに震えているのが分かった。何気ない過去の一幕。それだけの筈なのに、その声の響きが、赤葦の胸の奥に小さな震えを走らせた。
――いつまでも消えない。
あの日の、少し不安気で、けれど、必死に理解しようとしていた彼女の声が、その抑揚や間の取り方まで鮮明に、今もなお耳の奥で優しく揺れている。お気に入りの曲のフレーズが、ふとした瞬間に頭の中でリフレインするように。
赤葦は小さく頷くと、迷うことなく店のアンティーク調のドアノブに手を伸ばした。真鍮の冷たさが心地よい。
「……じゃあ、今夜も"モル計算"の続き、じっくりやろうか。今回は、ちゃんと理解できるまで付き合うよ」
「えっ、まだ、あの時のことを引き摺るの? 今はもう、モル計算くらい解けるよ。京治くん、意外と根に持つタイプなんだね」
名前が少し拗ねたように唇を尖らせる。その表情が可愛らしくて、赤葦は思わず笑みが零れた。二人でくすくすと笑い声を漏らしながら、カラン、とドアベルの軽やかな音と共に、温かい光に満ちた店内へと足を踏み入れる。そこは外の喧騒とは切り離されたように、適度に静かで落ち着いた空間だった。ジャズのスタンダードナンバーが低いボリュームで流れ、コーヒーの芳醇な香りが鼻腔を擽る。数組の客が思い思いの時間を過ごしているが、騒がしさは全くない。店員に促されるまま、窓際の奥まったテーブル席に案内されて並んで腰を下ろすと、赤葦は肩に掛けていたコットンのトートバッグから、今日の分の作問プリントと愛用のペンケース、そして数冊の参考書を取り出した。
「ご注文は、お決まりでしょうか」
柔らかな物腰の女性店員が、注文票を手に近づいてきた。赤葦はブレンドコーヒーを、
名前は少し迷った末に、季節限定だと言うマロンラテを注文した。温かい飲み物が、きっとこの後の時間をより豊かなものにしてくれるだろう。
勉強を始めて間もなく、参考書に視線を落としていた
名前の薄桃色の唇が、ふと動いた。
「ねえ、京治くん。この問題文の、最後の『~だろうか』っていう部分なのだけれど……この、ちょっと含みを持たせたような語尾のニュアンスって、どういう意図なんだろう。出題者の性格が透けて見えると言うか……もしかして、京治くんが態と、わたしを試す為に?」
その何気ない問い掛けが、赤葦の耳に妙に心地よく残った。
――この声だ。
穏やかで、けれど、言葉の端々に揺るぎない芯があって、どんな曖昧な感情も磨かれた水晶のように透明に、そして綺麗に響かせる、
名前の声。静かなカフェのBGMと、他の客の密やかな話し声に混じって、彼女の声のトーンだけが特別な周波数を持っているかのように、赤葦の胸の奥をそっと震わせる。それはどんな名演奏家の奏でる楽器の音色よりも、彼の心を揺さぶる響きだった。
「それは、多分、
名前の言う通り、"引っ掛け"に近いものだと思う。正解は一つじゃない可能性を示唆して、思考の幅を広げさせようという意図かもしれない。けど、そこに気づいて、こうして疑問を口にした時の、君の声が、出題者としてはきっと一番聞きたかった答えなんだと思うよ」
まるで台本でもあるかのように、自然とそう答えていた。言葉以上に、その言葉に対する
名前の反応を、固唾を飲んで待っている自分自身に、赤葦は気づいていた。
すると、
名前は大きな瞳をゆっくりと瞬かせ、それからふわりと、春の陽だまりのような、柔らかで温かい微笑みを浮かべた。
「……そう。じゃあ、気づけて良かった。京治くんが、そうやって真摯に答えてくれる声も、わたしは凄く好きだから」
赤葦はその余りにもストレートな言葉に不意を突かれ、ほんの少しだけ目を見開いた。
それは劇的な愛の告白でもなければ、詩的な美しい比喩表現でもない。ただ純粋で飾り気のない「好き」という一言。それだけなのに、心臓の奥深くに張られた見えない弦を、誰かがそっと指で弾いたみたいに、音にならない美しい音が静かに、けれど、はっきりと響いた。それは、今まで感じたことのない種類の甘く切ない振動だった。
――この声をずっと、いつまでも聞いていたい。
例え遠くで雷鳴が轟いても、季節が巡り、風景が変わっても、この世界から音が消えてしまったとしても。
きっと、この先もずっと、俺はこの唯一無二の"声のトーン"に心を揺さぶられ続けるのだろう。それは抗うことのできない、甘美な呪縛のようだった。
タイミングを見計らったかのように、注文した飲み物が運ばれてきた。ふわりと立ち昇る湯気の向こうに、
名前の穏やかな顔が見える。赤葦のブレンドコーヒーからは深煎りの豆の香ばしいアロマが漂い、
名前のマロンラテからは甘く優しい栗の香りがした。マーカーのインクが紙に染み込む微かな匂い、参考書のページを捲る乾いた音。そして、時折聞こえてくる、彼女の鈴を振るような声。
それらが秋の夜の静けさと、カフェの温かい空気に見事に溶け合って、赤葦京治の胸の中に、まるで降り積もる雪のように静かに、そして深く積もっていく。この穏やかで満たされた時間が永遠に続けばいいのに、と彼は心の中で強く願った。それは、彼にとって何よりも尊い、宝物のような瞬間だった。