貴方じゃなきゃ駄目なの

 春と云う季節は、どうしてこうも心を浮き立たせるのだろうか。  真新しい制服の硬い襟が首筋に触れる感触も、未だインクの匂いが残る教科書の重みも、全てが輝かしい未来への序章に思えた。白鳥沢学園高校、一年四組。俺、五色工の新たな学び舎となる教室は、少しばかりの緊張と期待が入り混じった独特の熱気を帯びている。窓の外では、遅咲きの桜が風に舞い、俺達の門出を祝福しているかのようだ。 「――よしっ!」  小さく気合を入れ、指定された席に着く。俺の目標は唯一つ。絶対王者・牛島若利さんを倒し、白鳥沢バレー部のエースになること。その為の三年間が、今、ここから始まるのだ。バレーボールに懸ける情熱と同じくらい、新環境への高揚感が胸を満たす。隣の席は、まだ空いている。どんな奴が来るんだろうか。ロードワークで張り合えるような、熱い魂を持った男だといい。  そんなことを考えていた矢先だった。ふわりと、春風とは質の違う、清澄な空気が舞い降りたのは。  横に視線を向ける。そこに一人の女子生徒が、静かに腰を下ろした。  時が止まった。  教室の喧騒が、分厚いガラスの向こう側みたいに遠退く。窓から射し込む陽光が、彼女の輪郭を淡く縁取っていた。柔らかそうな髪がさらりと揺れ、光の粒子を散らす。全てが計算され尽くした映画の一場面に似ていた。  何よりも目を奪われたのは、その瞳だ。教室の明るさを根こそぎ吸い込んでしまいそうな、深く、静かな色をしていた。感情の揺らぎを一切映さない水面みたいな、底知れない引力を持つ双眸。白く透き通る肌、形の良い薄桃色をした唇。一つひとつの造形が、人間と云うよりは精巧に作られた芸術品を思わせる。彼女の周りだけ、時間の流れる速度が違うと錯覚する程、存在自体が異質で、圧倒的だった。  ドクン、と心臓が大きく跳ねた。それは、強烈なスパイクをレシーブした時の衝撃とは違う。もっと内側から、魂の核を直接揺さぶられるような、未知の感覚。何だ、これ。息が、上手くできない。 (……女神、だ)  脳裏に、余りにも陳腐で、しかし、これ以上ない程に的確な表現が浮かんだ。そうだ、女神だ。俺がエースへの道を突き進めるように、バレーボールの神様が遣わしてくださったに違いない、勝利の女神。彼女が隣に居る。この事実だけで、どんな困難も乗り越えられる気がした。牛島さんを超える為に必要な、最後のピースが嵌った、そんな途方もない確信が胸に満ちる。 「では、皆さん。新しいクラスでのスタートです。一人ずつ、簡単な自己紹介をお願いします」  教壇に立った担任の言葉で、俺は現実へと引き戻された。自己紹介! これはチャンスだ。隣席の女神に、俺と云う男を強烈に印象付ける、絶好の機会。何を言うべきか。名前は勿論、所属する部活、揺るぎない目標。そうだ、「エースになる」と高らかに宣言すれば、きっと彼女の心にも響く筈だ。  出席番号順に、次々と生徒達が立ち上がっては座る。心臓の鼓動が、先程とは別種の緊張で速度を上げる。セットポイントでサーブを打つ直前のようなプレッシャーだ。大丈夫、俺ならできる。試合と同じだ。最高のパフォーマンスを見せてやる。  隣の彼女が、すっと起立した。 「苗字名前、です。趣味は読書です。宜しくお願いします」  凛と澄んだ、どこまでも透き通るような声だった。余計な事は一切言わずに淡々と告げ、彼女は静かに着席した。そんな無駄のない所作すら、美しかった。苗字名前。その名前を、俺は心の中で何度も反芻する。宝物みたいに、大切に。  そして、遂に、俺の番が来た。  よし、行くぞ。完璧な自己紹介で、彼女の度肝を抜いてやる。  ガタリと音を立て、勢いよく立ち上がると、クラス中の視線が突き刺さるのを感じた。勿論、その中には、彼女の視線も含まれている。意識した途端、喉がカラカラに渇き、掌にじっとりと汗が滲んだ。 「――だ、男子、ば、バレー部の……ご、ごししっ!」  しまった。盛大に噛んだ。脳内で万全にシミュレーションしていた筈の科白が、緊張で強張った舌の上、無様に砕け散る。マズい、立て直せ! 「ごしき、つ、つとむです! え、エースになります! う、牛島さんを、た、倒して……っ!」  焦れば焦る程、声は無様に裏返り、尻すぼみになる。教室のあちこちから、クスクスと堪え切れない笑いが漏れ聞こえた。顔中に、カッと血が上る。もう駄目だ。俺の輝かしい高校生活の第一声は、歴史的な大失敗に終わった。  全身から力が抜け、椅子に崩れ落ちる。耳まで真っ赤になっているに違いない。穴があったら入りたいとは、正にこの事だ。最悪だ。女神の前で、こんな無様な醜態を晒してしまうなんて。軽蔑されただろうか。いや、それ以前に呆れてものも言えないかもしれない。  恐る恐る、ほんの少しだけ、視線を隣へと動かす。  苗字名前は表情一つ変えず、只、真っ直ぐにこちらを見ていた。  静かな眸には、嘲笑も、同情も、呆れも浮かんでいない。凪いだ深海のように、俺と云う存在を映しているだけ。何を考えているのか、全く読み取ることができなかった。  その感情の読めない眼差しに射抜かれた瞬間、俺は羞恥心も絶望も全て吹き飛んで、唯一つの強烈な衝動に駆られていた。  知りたい。  この、苗字名前と云う人間の事を、もっと。  前途多難? 上等だ。エースへの道が険しいことくらい、百も承知だ。  俺の初恋はどうやら、それ以上に攻略し甲斐のある、難攻不落の要塞らしい。  心臓が決意を固めたように、力強く、熱く脈打ち始めた。


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