結局はハートの問題
あの歴史的な大失敗から、早くも三日が過ぎた。
俺、五色工の高校生活は、スタートダッシュで盛大に転倒したまま、未だ顔を上げられずにいる。教室の空気はすっかり和み、あちこちで新しい友人同士の輪が生まれていると云うのに、俺と隣の席の女神――苗字名前との間には、尚も透明な壁が存在しているかのようだ。
授業中、俺の意識は黒板の数式よりも、ノートの白紙よりも、只管、左隣の彼女の横顔に吸い寄せられてしまう。陽光を浴びて、透けるような耳朶。真剣な眼差しで教科書を追う長い睫、時折、小さく動く形の良い唇。一つひとつが、俺の集中力をいとも容易く奪い去る。苗字さんの存在自体が、俺にとっては最高難易度のブロックみたいなものだ。全く以て、攻略の糸口が見つからない。
「……おい、五色。ぼーっとするな。ボール、見てなかっただろ」
「うすっ! 済みません!」
放課後の体育館。練習中、白布さんの容赦ない指摘が、俺の脳天に突き刺さる。駄目だ。バレーに懸ける情熱は、誰にも負けない筈なのに。コートの中にまで、女神の幻影がチラついて、レシーブの体勢に入るタイミングが一瞬遅れる。これでは、牛島さんを超えるどころか、レギュラーの座すら危うい。
寮の自室に戻っても、溜息しか出てこない。ベッドで大の字になって天井を見つめながら、俺は自問自答を繰り返す。どうすれば、俺の想いを、苗字さんに伝えられるんだ。自己紹介は最悪だった。いきなり話し掛ける勇気もない。このままだと、席替えの日が来るまで、隣の席で物言わぬ石として過ごす事になってしまう。一年後のクラス替えで離れたりしたら、最悪だ。奇跡の指定席が永遠に失われてしまう。そんな未来は全国大会出場を逃すのと同じくらい耐え難い。
「そうだ、情報戦だ!」
俺は勢いよく起き上がり、本棚を眺めた。教科書と参考書の間に、明らかに浮いた背表紙が紛れ込んでいる。手に取ってみると、それはすっかり存在を忘れていた一冊の恋愛指南書だった。中学の頃、クラスの奴らが回し読みしていたのを、興味本位で借りたものだ。「読み終わったら返せよ」と念を押されたきり、机の引き出しの奥で化石に成り果てていた代物だ。引っ越しの際、他の荷物と一緒くたになって、ここまで付いて来てしまったらしい。今更返すのも気まずく、俺は図らずも借りパク犯となっていた。パラパラとページを捲る。『さり気ないボディタッチで距離を縮める』『共通の趣味を見つけて、会話を弾ませる』『相手の小さな変化を褒める』……。
「……無理だ」
五秒で挫折した。さり気ないボディタッチなんて、恐れ多くてできるワケがない。触れた瞬間、俺の心臓が爆発四散する。共通の趣味? 苗字さんの趣味は読書。俺が最後に、自主的に読んだ本は、小学生向けのバレーボール入門書だ。小さな変化を褒める? 彼女は毎日完璧過ぎて、変化のしようがない。女神は昨日も今日も明日も、きっと女神なのだ。
小手先のテクニックは、俺の流儀じゃない。俺の武器は、キレキレのストレート。回りくどい駆け引きではなく、真正面からの力押しだ。そうだ、バレーと同じじゃないか。どんな難敵が相手でも、最高のスパイクを叩き込めば、道は拓ける。恋愛だって、結局は体力と情熱、ハートの問題なんだ!
「――よしっ!」
俺の中に、一本の光明が差した。俺には、俺だけの強みがある。この手に馴染む、汗と熱意が染み込んだ相棒。これこそが、俺の魂そのものだ。
翌日の放課後。俺は決戦の覚悟を固め、教室で帰り支度をする苗字さんの前に立ちはだかった。彼女は静かに顔を上げ、感情の読めない深い瞳で、俺を見つめる。視線だけで、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が奔った。
「っ、苗字さん! 少し、時間、いいだろうか!」
声が裏返らなかっただけ、初日の俺よりは成長している。彼女は小さく頷いた。その仕種だけで、天にも昇る気持ちだった。
人気のない体育館裏。傾き掛けた西日が、俺達の影を長く伸ばしている。絶好の舞台設定だ。俺は胸に抱いた愛用のバレーボールを、聖杯でも捧げるかのように、ぎゅっと握り締めた。心音が床を叩くボールの音みたいに、耳元で激しく鳴り響いている。大丈夫だ、俺。これは試合のサーブと同じ。狙うは、苗字さんの心のど真ん中。サービスエースを決めてやる。
「苗字さん!」
俺は一歩前に踏み出し、彼女の眼前にバレーボールを突き出した。夕陽を浴び、使い込まれた人工皮革の表面が鈍い光を放っている。
「俺の、このハートを、受け取ってくれ!」
言った。俺の持てる、全ての情熱を込めて叫んだ。このボールは単なる球体じゃない。牛島さんを倒して、エースになると云う誓い、バレーボールへの愛、そして、苗字名前、君への燃え上がる恋情……全部が詰まった、俺の心臓そのものなんだ!
頼む、伝わってくれ。俺の不器用で真っ直ぐな好意。
苗字さんは差し出されたボールと、俺の顔を、不思議そうに二、三度、見比べた。時が止まったかのような、数秒の沈黙。俺はゴクリと唾を飲み込み、彼女の返事を待った。
軈て、苗字さんは僅かに首を傾げた。その所作すら、一枚の絵画みたいに美しい。そして、どこまでも透き通る声が、静寂を破った。
「五色くん」
「は、はい!」
「それは、ボールだよ?」
……ボール?
「ハート、って云うのは、心臓のことだよね。ここにある」
そう言って、苗字さんは自分の胸に、そっと指先を当てた。
俺の脳内は完全にフリーズした。思考回路がショートし、真っ白なノイズが駆け巡る。え? 違う、そうじゃない。これは比喩だ。俺の熱いパッションのメタファーなんだ!
「い、いや、これは、その、俺の情熱の塊と云うか、魂の結晶と云うか……っ!」
しどろもどろに説明を試みるが、言葉は意味を成さずに霧散する。焦れば焦る程、口が回らない。そんな俺を前に、苗字さんは更に続けた。
「バレーボール、好きなの?」
「へ? あ、う、うん! 好きだ! 命懸けで!」
「そう。わたしには、少し重くて、上手く扱えないかもしれないけれど」
苗字さんはそう言うと、おずおずとボールに手を伸ばし、表面にそっと触れた。指先の繊細な動きに、俺はまたしても心臓を撃ち抜かれる。
でも、駄目だ。全然、伝わってない。俺の渾身のストレートアタックは、苗字さんの天然と云う名のブロックに阻まれ、シャットアウトされてしまった。
全身から力が抜け、がっくりと肩を落とす。俺の初恋はどうやら、インターハイの決勝より難易度が高いらしい。
だが、その時だった。
「でも、」
苗字さんはボールから視線を上げ、俺の目を真っ直ぐに捉え、告げたのだ。
「五色くんの心臓が、本当に、このボールみたいに熱いのなら……少し、興味がある、かな」
言葉の意味を理解するのに、更に数秒を要した。
凪いでいた筈の、苗字さんの眸の奥に、好奇心のような揺らめきが、微かに見えた気がした。それは試合の流れを変える、一本のスーパーレシーブにも似た、奇跡の瞬間だった。
「……!?」
攻略不能と思われた要塞に、ほんの僅かな亀裂が入った。エースへの道とはまた違うけど、同じくらい熱くて、険しい道程が目の前に拓けた。上等だ。寧ろ、燃えてきた。どんな鉄壁の守備だろうと、打ち破れないスパイクはないのだから。
俺の心臓が、勝利のホイッスルを聞いた時みたいに、力強く、歓喜のビートを刻み始めた。