私だけを見て、言って、微笑んで、

 苗字名前が初めて零した、花が綻ぶような微笑み。  それは、俺の脳内ハードディスクに永久保存され、再生ボタンを押すまでもなく、四六時中ループしている。授業中は黒板の数式が、苗字さんの笑顔に変換され、飯を食えば、白米の一粒一粒が輝いて映る。練習中にボールを追えば、その軌道に光の残像が見える始末。女神の微笑は、どうやら世界を塗り替える程の威力を持つ、最強のバフ効果が付くらしい。  サボテンの一件以来、俺と彼女を隔てる透明な壁は、僅かながらも、確実に薄らいだ気がする。時折交わす言葉は未だぎこちないが、以前のような、分厚いガラス越しに話している隔絶感はない。些細な変化だけで、俺のコンディションは最高潮に達していた。スパイクは面白い程に決まり、サーブはネットすれすれの完璧なコースを描く。 「五色、今日、キレてんな」 「うす! 当然です!」  白布さんの珍しく肯定的な声掛けに、俺は胸を張って答えた。心身共に絶好調。今の調子で行けば、牛島さんを超えるのも、苗字さんの心を射止めるのも、時間の問題だ。そんな万能感に浸っていた俺の脳天へ、予測不能のクイック攻撃が仕掛けられる事になるとは、この時は知る由もなかった。  事件が起きたのは、男女合同での体育の授業中だった。種目はバレーボール。俺にとっては、正に独壇場だ。フロアの反対側、女子のグループに、苗字さんの姿を発見した瞬間、俺の体内のボルテージは一気に跳ね上がった。見ていてくれ、苗字さん。俺のエースたる所以を!  高い位置のトスに、全身のバネを解き放つ。最高到達点で捉えたボールは、相手コートに突き刺さる轟音を立てた。クラスメイトから「おぉー!」と云う歓声が沸く。俺は得意満面で、苗字さんの方へちらりと視線を送った。彼女は、只静かに球の行方を目で追っているだけ。凪いだ湖面のような瞳からは、何の感情も読み取れない。だが、それでいい。俺のプレーが、彼女の網膜に焼き付いている。その事実だけで、俺は無敵になれる。  授業が終わりに近づき、後片付けをしている時だった。 「五色君、凄かったね! マジで!」 「あんなスパイク、絶対取れないよー!」  数人の女子生徒が、興奮冷めやらぬ様子で、俺を取り囲んだ。悪い気はしない。寧ろ、煽てに弱い自尊心が心地良く満たされる。 「はは……まあ、エースになる男だからな!」  調子に乗って、そう答えた瞬間、女子の内の一人が、激励の心算つもりだろう、俺の汗ばんだ背中を、パンッ、と小気味良い音を鳴らして叩いた。 「期待してるよ、未来のエース!」 「あ、ああ。任せろ!」  不意の接触に少し驚きながらも、俺は照れ臭さを隠すように笑って応じた。クラスメイトとの健全な交流。次期エースとして、器の大きさを見せる場面だ。  その刹那だった。  体育館の喧騒の向こう側、器具庫の壁に寄り掛かる苗字さんと目が合った。  いつもと変わらない、完璧な無表情。何を考えているのか、全く分からない。だが、彼女の視線が剃刀に似た鋭さで、俺の心臓をピリッと裂いた。マズい。無意識に地雷を踏み抜いたのだろうか。サボテンの棘とは質の違う、冷たい痛みが背筋を奔る。  女子達との会話を早々に切り上げ、俺は恐る恐る彼女の方へと歩み寄った。何か弁明するべきか。いや、抑々、俺は何一つ悪い事などしていない筈だ。思考がぐるぐると空転する。  俺が声を掛けるより先に、苗字さんがスッと動いた。無言のまま、俺に近づき、そして――体操服の袖を、細い指できゅっと摘まんだ。  布地を通して伝わる、僅かな力。しかし、その一点に、俺の全神経が集中する。心臓が内側から、肋骨を叩き割らんばかりに激しく脈打った。何だ、どうしたんだ。苗字さんの意図が読めず、俺は完全に硬直する。  苗字さんは顔を上げ、俺の眼を真っ直ぐに射抜いた。深い双眸の奥に、今まで見たことのない、仄暗い光が揺らめいている。 「五色くん」  凛と澄んでいながら、氷の欠片を含む声色で、俺の苗字を呼んだ。 「……わたし以外の女の子に、安易に触れさせないでほしい」  ――え?  時が止まった。  床でボールが跳ねる音も、生徒達の笑い声も、全てが分厚い防音壁の向こう側へと追い遣られる。俺の世界には、静かな命令を告げる彼女の声音だけが、絶対的な響きを持って存在していた。  触れさせないで、ほしい。  言葉の意味を、俺の脳が反芻し、咀嚼し、完全に呑み込めるまで、数秒の沈黙が流れた。  これは非難じゃない。怒りでもない。只の純粋な、独占欲。  嫉妬するのは、俺だけじゃなかったのか。  理解が全身に行き渡った瞬間、俺の身体は意思とは無関係に、カッと俄かに熱を帯びた。背筋がミリ単位の狂いもなく伸び、両腕は"気を付け"の姿勢でピンと固まる。 「は、はいぃぃぃっ!」  咽喉から飛び出したのは、盛大に裏返った、我ながら情けない声だった。軍隊の点呼か、監督への返事か。だが、今の俺には、これが精一杯の愛の応答だった。  俺の返答に、苗字さんは満足気な色を眸に浮かべると、小さく頷いた。 「……うん」  そして、摘まんでいた袖をそっと離し、何事もなかったかのように踵を返す。去りゆく後ろ姿は、まるで勝利を確信した女王みたいだった。  一人、その場に取り残された俺は、燃え盛る感情の奔流に只立ち尽くす。  嬉しい。悔しい。いや、違う。途方もなく、嬉しい。  苗字さんの静かなヤキモチは、どんな応援よりも、どんな賞賛よりも、俺の魂を奮い立たせる。それは試合の流れを覆す、会心の一撃。俺のハートのど真ん中に突き刺さった、強烈なサービスエースだった。  俺の初恋は、一方通行のサーブ練習じゃなかったらしい。ネットの向こう側から、飛び切り重くて、愛おしいボールが返されたのだ。  俺は拳を強く握り締めた。  上等だ。苗字さんがその気なら、俺は喜んで、彼女の独占欲に縛られてやる。エースへの道が、今、恋の道と確かに交わった。燃えないわけが、ない。


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