空模様を気にする余裕なんて、正直言って、なかった。
朝は寮の窓から空を見上げて、「今日は晴れだな、よし」とか「曇りか、まあ、悪くはない」と確認する程度。バレーに恋に、頭の中は常にフル稼働している。天気予報をチェックする為の思考リソースは、別の事柄に割り振られていた。具体的には、
苗字さんの横顔とか、ボールの軌道とか、
苗字さんの声とか。
だから、その日の放課後、汗と疲労感を引き摺りながら昇降口に辿り着いた時、ガラス扉の外で繰り広げられている光景に、完全に意表を突かれた。
ザーッ、と云う、滝壺にでも居るかのような轟音。地面を叩き付ける、無数の雨粒。さっきまで、体育館の窓から見えていた穏やかな夕焼け空は、いつの間にか、分厚く不機嫌そうな灰色の雲に覆い尽くされていた。
「うわ、マジか……」
思わず、呻き声が漏れる。寮までは目と鼻の先だけど、この土砂降りの中を傘なしで突っ切るのは、無謀以外の何物でもない。全身がずぶ濡れになれば、風邪を引いて、明日の練習に響くかもしれない。それはエースを目指す者として、絶対に避けなければならない事態だ。
どうする。誰か、傘を持っている奴は――
途方に暮れて、辺りを見回した時だった。
少し離れた場所で、同じように外を眺めて立ち尽くす、見慣れた後ろ姿が視界に入った。
「……
苗字さん」
彼女も傘を持ってないのだろうか。華奢な背中からは困惑と諦めが入り混じった、静かなオーラが放たれている。
これはチャンスだ。
脳内で警報と福音の鐘が同時に鳴り響いた。ここでスマートに傘を差し出せたなら、どれだけ格好良いだろう。「送るよ」と一言添えて、
苗字さんを雨傘の下で守れたなら。まるで、映画のワンシーンみたいじゃないか。だが、悲しいかな、俺も彼女と同じ、雨に降られた仔猫同然の身の上だ。
それでも、声を掛けずにはいられなかった。
「
苗字さんも、傘、ないの?」
俺の声に、彼女はゆっくりと振り返った。深い色の瞳が、一瞬だけ驚いたように見開かれる。
「五色くん……」
苗字さんの唇が、俺の名前を形作る。その仕種だけで、心臓が跳ねた。
「うん。どうしようかな、って思っていたところ」
雨音に溶けそうな程、か細い声。やっぱり、困ってるんだ。よし、俺が何とかしなければ。
「……そうだ! 少し、待ってて! 俺、貸し傘を借りて――」
事務室へ駆け出そうとした、その時だった。
「……あ、でも」
苗字さんは思い出したように、鞄の底を探り始めた。取り出されたのは、紺色の布地に包まれた、小さな折り畳み傘。
「何だ、持ってたのか」
安堵の息が、自然と漏れた。良かった。
苗字さんは濡れずに済む。それが分かっただけで、俺の中の何かが、ほっと弛む。
「良かった。じゃあ――」
言葉を続けようとした俺の眼前で、
苗字さんが雨傘を、パッと開く。
次の瞬間、目を疑った。
昇降口の薄暗い空間に現れたのは、傘と呼ぶには、余りにも奇抜な代物だった。
生地の表面に、デフォルメされたカマキリのイラストが、所狭しとプリントされている。しかも、そのカマキリ達は、皆、何故かハートマークのサングラスを掛けていた。互いの鎌を絡ませ合い、うっとりとした表情で見つめ合っている。背景には、ピンクや水色のポップな星が、これでもかと鏤められていた。バンドには、キラキラと輝くフォントで『Love Mantis』の文字。
……何だ、これ。
視界に映る物体の情報処理を、脳が完全に拒否した。カマキリ。恋。ハート。星。全てが混沌とした一つのスペースに詰め込まれ、視覚を通じて、俺の理性を攻撃する。
言葉が出てこない。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、
苗字さんはそのファンシー地獄みたいな傘を、俺の方へと事もなげに差し出した。
「これ、二人で入らない?」
苗字さんの提案で、我に返った。
二人で、折り畳み傘に。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。相合い傘。思春期の男子にとって、聖杯にも等しい響きを持つワードだ。だが、しかし。この傘で、か。
俺の口は、脳の検閲を擦り抜け、本音を漏らしてしまった。
「な、何で、そんな……へ、変なのを……」
言った後で、全身の血の気が引いた。
しまった。
苗字さんの、僅かに綻んでいた表情が、すうっと消える。双眸から光が失われ、凪いだ深海の色へと戻っていく。
「……変?」
呟かれた声は、ガラス細工が砕ける音に似ていた。冷たく、脆く、痛々しい。
マズい。地雷原のど真ん中で、タップダンスを踊ってしまった。
苗字さんの私物である傘を貶してしまった。試合で言えば、味方のレシーブを妨害するような、最悪のプレーだ。
「ち、違う! そう云う意味じゃなくて! その、個性的って云うか、アーティスティックって云うか、前衛的……?」
慌ててフォローしようとするが、言葉は虚しく空転するばかり。俺の貧弱な語彙力では、このカマキリ地獄を肯定的に表現することなど、土台無理な話だった。
ああ、もう駄目だ。
苗字さんを傷付けてしまった。二度と、口も利いてもらえないかもしれない。
絶望に打ちひしがれていると、
苗字さんが、ふいと顔を背けた。
「……もう、いい。わたし、一人で帰るから」
その声には、明らかに拒絶の色が滲んでいた。
苗字さんは小さな傘を握り締め、雨天の下へと一歩を踏み出そうとする。
待て。
行かせるな。
全身の細胞が警鐘を鳴らす。ここで彼女を一人で行かせてしまったら、俺達の間に出来た細い繋がりが、この雨に流されて、跡形もなく消えてしまう。
咄嗟に、
苗字さんの腕を掴んでいた。
「待ってくれ、
苗字さん!」
驚いたように、彼女が振り返る。その眸は降雨を映しているみたいに、少し潤んで見えた。
「……本当に、ごめん」
深く頭を下げる。
「俺、思ったことを、直ぐ口にするところがあって……その傘、凄く良いと思う。うん、凄く良い。独創的で、誰も真似できない、唯一無二のデザインだ。まるで、
苗字さんみたいだ」
必死だった。俺の持てる語彙を総動員し、心からの謝罪と、取って付けたような賞賛を並べ立てる。
苗字さんは、俺の顔を暫くじっと見つめていた。その諸目の奥で、何かが揺らめいている。怒り、諦め、それとも――
軈て、
苗字さんは小さく、本当に微かな息を吐いた。
「……分かった。なら、一緒に入ってくれる?」
その問い掛けは、恩赦の宣告に似た響きを伴い、俺の鼓膜へ届いた。
何度も力強い頷きで応える。
そうして、俺達は一本の、奇妙な傘の下に収まった。
狭い。
当たり前だ。俺みたいな図体のデカい男と二人で入るには、折り畳み傘では物理的に無理がある。
俺達の肩は必然的に、ぎゅっと密着する形になった。
苗字さんの体温が、制服越しにじんわりと伝わる。甘くて清潔な香りが、雨の匂いに混じって、鼻腔を掠める。
心臓が煩い。自分のものなのか、
苗字さんのものなのか、ちっとも分からない。
俺の右肩は、既に雨露でびしょ濡れだった。冷たい水滴が生地に染み込み、肌に張り付く。だが、そんなことはどうでもよかった。
頭上では無数のカマキリが、ハートのサングラス越しに、俺達を見下ろしている。
やっぱり、変な柄だ。
でも、今はこの傘が、世界で一番愛おしいものに思えた。
寮までの、ほんの数十メートルの距離が、永遠に続けばいいと、本気で願っていた。
雨音だけが、二人の沈黙を優しく包んでいた。
この折り畳み傘は、兄さんがデザインしたものだ。
兄、
苗字兄貴は独創的な作品を創る作家で、時折、自分の制作物をモチーフにしたグッズを試作しては、わたしに押し付けている。
「
名前、見てごらん。恋カマシリーズの最新作『恋するカマキリ☆ときめき交尾ウォーズ』の記念グッズだよ。この傘を差せば、今日から君も恋のハンターだ!」
そう告げて、満面の笑みで傘を手渡された時、これをどう云う気持ちで使えばいいのか、本気で頭を抱えた。
でも、兄さんが、わたしの為に作ってくれたものだ。無下にはできない。だから、いつも鞄の奥底に、この奇抜な守り神を忍ばせている。
まさか、その守り神が、今日、こんな形で日の目を見る事になるなんて、思ってもみなかった。
五色くんに、あんなにも真っ直ぐな眼差しで、「変」と言われることも。
「……変?」
五色くんの声が小さな棘となって、胸に刺さる。
分かっている。この雨傘が普通じゃないことは。でも、彼にそう称されるのは、少しだけ痛かった。
それは、この傘が、わたしの風変わりな家族の象徴でもあるからかもしれない。
反射的に、五色くんを拒絶する言葉が、口を衝いて出た。
一人で帰る。もう知らない。
そう言い捨てて、雨の中へ飛び出そうとした時。
腕に熱い感覚が奔った。
五色くんの手だった。大きくて、硬くて、バレーボールの感触が染み付いているような、力強い手指。
「待ってくれ、
苗字さん!」
必死な声音が雨音を突き抜け、わたしの耳に届く。
振り返った先に在るのは、見たこともない程に焦っている、五色くんの表情だった。
彼の口から次々と紡がれる、ぎこちない謝罪と、取って付けたような褒め言葉。
その懸命な様子を眺めている内に、胸に刺さっていた棘が、いつの間にかするりと抜け落ちていた。
莫迦みたい。
わたしも、五色くんも。
こんな、傘一本のことで。
「……分かった。なら、一緒に入ってくれる?」
気づけば、そんな提案が零れ出ていた。
五色くんを許す、と云う意味の他に、ほんの少しの意地悪。
「変」だと言った傘に、五色くんも入るんだよ、と云う、
細やかな仕返し。
そして、わたし達は一つの折り畳み傘の下で、肩を寄せ合うことになった。
近い。
五色くんの体温が、直ぐ傍に在る。
制汗剤と、雨と、彼自身の匂いが溶け合って、わたしの感覚を麻痺させる。
心臓が騒がしい。
先日の"心拍数"に関する問答を思い出してしまう。
この心音を、五色くんに聴かれてしまったら、どうしよう。
彼の右肩が湿っていることに気づいた。わたしが濡れないように、雨傘をこちらへ傾けてくれているからだ。
その不器用な優しさが、胸を締め付ける。
頭上の恋するカマキリ達が、わたし達のことを見ているみたいで、無性に恥ずかしくなった。
変なデザイン。
変な、五色くん。
そんな彼に心を揺さぶられている、わたし。
多分、わたし達は二人共、少し変なのかもしれない。
でも、それでいいと、今はそう思えた。
雨脚が、もっと強くなればいいのに。わたしは、そっと願った。