油揚げは最重要項目

 恋するカマキリ傘の一件以来、俺と苗字さんの間の空気は、僅かながら、確実に変化していた。触れれば砕け散ってしまいそうな、ガラス細工めいた緊張感は薄れ、代わりに雨上がりの湿った土に似た、穏やかな生命力を感じさせる雰囲気が流れるようになった。  だが、心は未だ晴れない。  彼女を理解したい。その一心で始めた観察はいつしか、俺に新たな課題を突き付けていた。苗字さんの好物。それすら、俺は知らないのだ。  エースたるもの、相手の弱点を探り、そこを的確に攻めるのが定石だ。恋愛に於いても同じ筈。苗字さんの好きなものを知り、サプライズでプレゼントしたり、何気なく話題に出したりすることで、心の距離はぐっと縮まるに違いない。そうだ、これは恋愛テクニックとか云う軟弱なものじゃない。勝利への方程式を導き出す為の、必要不可欠なデータ分析なんだ。  俺は新たなミッションを自らに課した。  ――『苗字名前の食の好みを徹底リサーチせよ』。  作戦決行は昼休み。戦場は白鳥沢学園の食堂だ。  普段通りに唐揚げ定食の食券を買い求め、さり気なくも猛禽類の如き鋭い視線で、獲物――苗字さんの姿を探した。居た。窓際の、いつもの席。今日の彼女のメニューは、きつねうどんと、小鉢に入ったほうれん草のお浸し。よし、先ずは基本情報をインプットだ。  問題はここからどうやって、より詳細なデータを引き出すか。  直接「何が好き?」と訊くのは、余りにも芸がない。それに、そんなストレートな質問に、苗字さんが素直に答えてくれる気もしなかった。あくまでも自然に、彼女に悟られることなく、情報を収集しなければ。スパイ映画の主人公になったようで、妙な高揚感に包まれる。  苗字さんの斜め後ろの席に陣取ると、トレーの陰に隠すようにして、ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。これは日々の練習の反省点を書き留める為に使っている、謂わば、俺の血と汗と涙の結晶だ。まさか、この神聖なメモ帳が、恋の諜報活動に使用されるとは、ひと月前の俺なら、夢にも思わなかっただろう。  唐揚げを口に運びながら、苗字さんの食事風景を肩越しに盗み見る。  先ず、饂飩うどんの汁を一口。……ふむ、途中で汁を飲むタイプか。次に麺を数本、上品に啜る。咀嚼の回数は約二十回。成程、よく噛んで食べる、健康的な食生活を心掛けているらしい。  次いで、ほうれん草のお浸しに箸を伸ばす。……ほうれん草は好き、と。メモ、メモ。  きつねうどんの上に鎮座する、油揚げ。苗字さんはそれを、何と一口で、実に美味そうに頬張った。……油揚げ、かなり好きと見た。これもメモだ。  俺のペンは、メモ帳の上を滑るように走る。その動きはスパイと云うより、獲物の生態を観察する、ドキュメンタリー番組のクルーに近いものがあった。  順調だ。我ながら、完璧な潜入調査だ。この調子でデータを蓄積していけば、近い内に『苗字名前の好物リスト・完全版』が完成するに違いない。  そんな達成感に浸っていた時だった。 「……五色くん」  背後から、凛とした声が降ってきた。  びくん、と肩が跳ねる。心臓が喉元まで、せり上がるかのような衝撃。  ゆっくりと、ギギギ、と錆び付いたブリキの人形みたいに振り返る。  そこには、いつの間にか食べ終えていたらしい苗字さんが、空の食器だけになったトレーを手に、静かに立っていた。  いつも通りの無表情。だが、その深い色の瞳は真っ直ぐに、俺の手許――メモ帳とペン――を見つめていた。 「……さっき、わたしのご飯を見ていなかった?」  終わった。  俺の諜報活動は、開始から僅か十五分で敵に察知され、完全に白日の下に晒された。  血の気が、サッと引いていく。額からは滝のような冷や汗が噴き出した。  マズい。言い訳をしなければ。けど、何て? 「苗字さんの食事を分析してた」なんて、口が裂けても言えるワケがない。それは、最早不審者、いや、変質者の領域だ。 「い、いやっ! 違う! これは、その、今日の練習のフォーメーションを……! そう、フォーメーションを確認してたんだ!」  俺の唇から飛び出したのは、我ながら苦し過ぎる、即席の嘘だった。きつねうどんの布陣から、一体、どんなフォーメーションを導き出すと云うのか。 「……覗き見、じゃなくて?」  苗字さんは、僅かに首を傾げた。その仕種が、俺の罪を断罪する、ギロチンの刃に見える。 「ち、違う! 断じて違う! 分析じゃなくて――あっ!」  墓穴を掘った。  分析。この単語を口にしてしまった時点で、俺の敗北は決定した。  全身から力が抜けるのを感じながら、がっくりと項垂れる。もう、どうにでもしてくれ。軽蔑されても、気味悪がられても、仕方ない。  永遠にも思える沈黙が、食堂の喧騒の中で、俺達の周りだけを支配する。  軈て、苗字さんの小さな息遣いが聞こえた。 「……そう」  たった、一言。  その声には、怒りも、呆れも、軽蔑も含まれていなかった。只、何かを深く納得したような、不思議な響きがあった。  恐る恐る顔を上げると、苗字さんはもう、俺を見ていなかった。食器の返却口へと向かう後ろ姿は、いつもと同じく、静かで凛としていた。  ……嵐は去ったのか?  俺は呆然と、その場に座り続ける。助かったのか、それとも、完全に見限られたのか。苗字さんの真意を読み解くことはできなかった。  只、一つだけ、確かなことがある。  俺のメモ帳には『油揚げ(最重要チェック項目)』と云う謎の走り書きが、虚しく残されていた。
 人の視線には、温度が在る。  わたしは昔から、その温度に一寸ちょっとだけ敏感だった。  好奇の視線は、じっとりと肌に纏わり付き、些か不快だ。  無関心な視線は、冬の空気みたいに心を冷やす。  そして、五色くんの視線は、いつも燃えるように熱かった。  その熱が、少し恥ずかしくて、でも、どこか心地好かった。  けれど、最近の彼の視線は、僅かに温度が違っていた。熱っぽいのは変わらない。でも、実験対象を観察する科学者に似た、冷静で分析的な光を帯びていた。  わたしは視線の変化に戸惑い、不安になっていた。  五色くんにとって、わたしはもう一人の人間ではなく、只の観察対象になってしまったのだろうか、と。  昼食中も、アナライズみたいな視線を背中に感じていた。  きつねうどんを掬う、箸の動き。ほうれん草のお浸しを口に含む、唇の形。一つひとつが、彼の網膜に記録され、データとして処理されていくような、奇妙な感覚。  胸の奥が、ちりちりと痛む。  食べ終えて、席を立った時、わたしは見てしまった。  トレーの陰で、五色くんが小さなメモ帳に、何かを必死に書き込んでいる姿を。  ああ、やっぱり。  わたしは、彼の研究対象なのだ。  そう確信した直後、胸中に冷たい霧が立ち込める。 「……さっき、わたしのご飯を見ていなかった?」  気づけば、声が出ていた。  少しだけ、棘のある声色だったかもしれない。  五色くんの狼狽した表情。しどろもどろな言い訳。全てが、わたしの心を、更に冷淡にしていく。 「分析じゃなくて――!」  五色くんの口から、その言葉が漏れた時、わたしの心臓は完全に凍り付いた。  ああ、そう。  やっぱり、そうだったんだ。  彼に背を向ける。  これ以上、彼の姿を見ていたら、泣いてしまいそうだったから。  食器を返却口に戻した後も、教室へ戻る気にはなれず、自販機で温かい飲み物を買った。ペットボトルから伝わる熱が、冷えた指先を温めてくれる。近くの空いている椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めながら、ゆっくりとお茶を飲んだ。クラスメイトの女子が通り掛かり、「名前ちゃん、次の移動教室、一緒に行かない?」と誘ってくれたけれど、「少し考え事をしているから、先に行っていて」と穏やかに断った。  数分が経ち、漸く感情の波が静まった頃に立ち上がった。五色くんは、もう居ないかな。どんな気持ちで、顔を合わせればいいのだろう。そんなことを考えながら、彼が座っていた席の前を横切ろうとした瞬間。  ふと、テーブルの上に置き去られた、一冊の小さなメモ帳が目に入った。  五色くんが先程まで書き込んでいた、あのメモ帳。  いけない事だと、分かっていた。  それなのに、そのメモ帳に吸い寄せられるよう、手を伸ばしていた。  彼の本当の想いが、ここに記されているかもしれない。  わたしへの、幻滅の言葉が。  震える指で、頁を捲る。  紙面に綴られていたのは、わたしの想像とは懸け離れたものだった。 『苗字名前の好物リスト(暫定版)』  タイトルを見て、思考が一瞬停止した。  視線を下へ移動させる。  そこには、几帳面ながらも自己主張の強い元気な文字で、わたしの昼食が記録されていた。 『今日の昼食(月曜日):きつねうどん、ほうれん草のお浸し。 ・途中で汁を飲むタイプ。 ・麺を啜る所作が綺麗。 ・油揚げを一口で頬張る。→かなり好き? 最重要チェック項目。 ・ほうれん草も残さず食べた。→野菜は嫌いじゃない?』  ストーカーの日記と紙一重かもしれない。  でも、わたしが感じたのは、恐怖や不快感ではなかった。  只管に胸が熱くなる感覚。  メモ帳の序盤には、バレーボールのフォーメーション図や『クロスをもっと鋭く!』『レシーブの体勢!』と云った、彼自身の練習に関する書き込みが、筆跡の濃い、熱の籠もった字で、びっしりと並んでいた。五色くんの努力の証。血と汗と涙の結晶。そんな神聖な場所に、たった数行ではあるけれど、わたしの名前が、わたしの食べたものが、真剣な熱量を以て記されている。  五色くんは、只、知りたかっただけなんだ。  わたしの、好きなものを。  不器用で、真っ直ぐな方法で。  頁の端に走り書きがあった。 『苗字さんの好きなものを知って、喜ばせたい。エースとして、それくらいできなくてどうする!』  読んだ途端、わたしの目許から、ぽろり、と涙が零れ落ちた。  悲しい泪ではなかった。  凍て付いた心が、一気に溶かされて流れる、温かい雫だった。  可愛い。  もう。なんて、可愛い人なんだろう。  未熟で、一直線で、少しだけ、馬鹿で。  でも、全てがどうしようもなく、愛おしい。  メモ帳を閉じ、そっとテーブルの上に戻す。  そして、教室の自席に戻ってから、窓の外を眺めた。  先程まで、灰色に映っていた空が、今は蒼く輝いて見えた。  好き。  その二文字が、わたしの中心で確かな形を持ち、静かに響いていた。


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