子供のように一人駄々捏ね悶々
苗字さんの「少し、興味がある、かな」と云う言葉は、俺の記憶領域に永久保存するべき音声データとして、繰り返し脳内再生されていた。それは中学最後の公式戦で放った会心の一撃よりも鮮烈で、勝利のホイッスルよりも甘美な響きを伴い、俺の全身を駆け巡る。攻略不能と思われた難攻不落の要塞に、僅かながらも突破口が見えたのだ。その事実だけで、白米を丼で三杯は軽く平らげられる。
最早、俺の高校生活は勝利を約束されたも同然だった。隣には、勝利の女神。コートに立てば、絶対王者。向かうところ、敵なし。俺、五色工の栄光への道は、今まさに拓かれたのだ。そんな万能感に浸っていた俺の脳天へ、無慈悲な鉄槌が振り下ろされることになるなど、この時は知る由もなかった。
昼休み前の、少し気が弛む四限目のことだった。
ふと、左隣に座る女神へと視線を送る。苗字さんはいつものように背筋を伸ばし、黒板を真っ直ぐに見つめていた。完璧な横顔を網膜に焼き付けているだけで、俺の集中力はバレーの試合中と同等、いや、それ以上に研ぎ澄まされる。筈だった。
休み時間のチャイムが鳴り響くと同時に、事件は起きた。
俺が授業の後片付けをしようとした、その刹那。一人の男子生徒が事もあろうに、苗字さんの机の前に立ったのだ。そいつは確か、文芸部に入る予定だと自己紹介で言っていた、線の細い、眼鏡の男だった。俺とは対極に位置するような、静かで知的な雰囲気を纏っている。
「苗字さん、この間の本、どうだった?」
「うん。面白かった。特に、終盤の主人公の心理描写が秀逸だったと思う」
会話が成立している。
それだけじゃない。苗字さんが自ら口を開き、感想を述べている。体育館裏での一件からこっち、俺とのコミュニケーションでは、次の言葉を探して口籠もる俺を、只静かに待ってくれるだけだったと云うのに。何だ、あの滑らかなキャッチボールは。しかも、心成しか、彼女の口許が微かに綻んでいる。俺が、今まで一度も引き出せたことのない、幻の表情。
ズン、と地響きのような衝撃が、身体の芯を貫いた。心のコートに、ノーマークで強烈なスパイクを叩き込まれた気分だった。俺の守備範囲外から、予測不能の軌道で飛んできた一撃。レシーブどころか、反応すらできない。
教室の喧騒が急速に遠退き、俺の世界は、苗字さんと眼鏡の男子、二人だけを映すモノクロの映像と化した。血が沸騰し、頭頂部から湯気が出そうな程の熱を感じるのに、指先は氷のように冷えていく。これが、嫉妬。教科書には載ってない、厄介で、どうしようもなく人間臭い感情。
俺は持っていたシャープペンシルを、ミシリ、と音を立てて握り潰しそうになった。駄目だ、落ち着け、五色工。エースたるもの、ポーカーフェイスを保つんだ。しかし、一度芽生えた黒い情念は蔦のように絡み付き、意識と思考を蝕み始める。何故、俺以外の男と。何故、あんな顔を。その場所は、その時間は、俺だけの特等席じゃなかったのか。……いや、違う。苗字さんの隣は、俺だけの特等席になればいいと、心のどこかで願っていただけじゃないか。そんな権利、俺にはない。頭では理解しているのに、どうしてこうも腹の底から、マグマみたいな熱いものがせり上がってくるんだ。
放課後になっても、俺は苗字さんに一言も話し掛けられないまま、部活へ逃げるように教室を飛び出した。
その日の夜。寮室に設えられたベッドの上で、俺は獣のような呻き声を上げていた。
「うわー――――っ! 何だ、あいつは! 誰だ、あいつは!」
枕に顔を埋め、意味のない絶叫を繰り返す。昼間見た光景が瞼の裏に焼き付き、何度振り払っても消えてくれない。苗字さんの、僅かな微笑み。あれはきっと、俺に向けられる筈だったものだ。横取りされた。俺の宝物を、あの眼鏡男子に。
ダンッ、と悔し紛れに壁を殴り付けると、間髪入れずに隣室から地を這うような低音が響いた。
「……五色、煩い。黙れ。壁が抜けたらどうする」
白布さんの、絶対零度の声だ。
「す、済みません!」
慌てて謝罪し、再び枕に突っ伏して、無音の絶叫を試みる。だが、一度燃え上がった嫉妬の炎は、そう簡単には鎮火しない。
「おやー? どうしたの、工クン。盛大な地団駄だネ! さては恋の悩みかい?」
開いていたドアから、天童さんがひょっこりと顔を覗かせた。面白そうなものを見つけた、と云う表情を隠そうともしていない。
「て、天童さん……」
「図星かな? その枕の濡れ具合、涙か涎か、それとも両方?」
「ち、違います! これは断じて! 只、その……」
しどろもどろに昼間の出来事を掻い摘んで話すと、天童さんはニヤニヤと口角を吊り上げた。
「へーえ! それって、嫉妬ってヤツ? 青春だネー! 若利くんに聞かせてあげたいなー、『工が女のことで、枕を濡らしてます』って!」
「ですから、違います! エースを目指す俺が、そんな些末なことで動揺とか……っ!」
そうだ、と俺は勢いよくベッドから起き上がった。
「こんな心の靄なんて、バレーで吹き飛ばしてみせます! 明日の練習、俺のスパイクで、体育館の床をぶち抜いてやりますから!」
しかし、翌日の練習で、俺は体育館の床じゃなく、自らのプライドを粉々に打ち砕く事となった。
「うおおおおおっ!」
気合だけは充分だった。トスが上がる。全身のバネを使い、最高到達点で球体を捉える。叩き付ける! ――筈が、力が入り過ぎて、腕の振りが硬い。ボールは無様にネットへ掛かり、こちら側のコートに力なく落下した。
「……ちっ」
レシーブ練習では、球の軌道を読み誤り、顔面で受けては盛大に鼻血を出す始末。
「工ゥ! 何だ、そのザマは! 寝惚けてんじゃねえぞ!」
鷲匠監督の雷が落ちる。白布さんからは「邪魔だ、退いてろ」と氷の視線で射抜かれた。
駄目だ。最悪だ。苗字さんのことを考えれば考える程、身体から力が抜けていく。いや、逆だ。力み過ぎて、全てのプレーがちぐはぐになる。恋の悩みは、バレーのパフォーマンスに、こんなにも直結してしまうものなのか。
練習後。誰も居なくなった体育館で、俺は一人、ボール磨きをしていた。冷たい床の感触が、火照った頭を少しだけ冷やしてくれる。
嫉妬なんて、ダサい感情だと思っていた。だけど、一度知ってしまえば、それはどうしようもなく厄介で、強力な毒だった。
「……くそっ」
悔しさと情けなさの入り混じった溜息が、だだっ広い空間に虚しく響く。エースへの道も、苗字さんへの道も、余りにも険しい。
それでも、と顔を上げる。
この体育館で汗を流すことしか、俺にはできない。バレーボールに全ての想いを乗せて打ち込むことしか、俺は知らない。
今は空回りでもいい。無様でもいい。
いつか必ず、苗字さんを振り向かせる一撃を決めてみせる。
俺はボールを一つ持ち上げると、静かなフロアにサーブを叩き込む乾いた音を響かせた。
子供染みた嫉妬の炎は、いつしか闘争心と云う名の、青く、静かな焔へと姿を変え始めていた。