天童さんの「読めないからこそ、面白い」と云う言葉は、俺の中で新たな指針となった。そうだ、俺はエースになる男。真正面からぶつかるだけが能じゃない。相手を見極め、分析し、最善の一手を導き出すクレバーさも必要なんだ。
生まれ変わった俺は、来る日も来る日も、
苗字さんの観察に明け暮れた。最早、バレーボールの練習と同程度に、日常に組み込まれた神聖なトレーニングと化していた。
だが、モニタリングを続ける内に、俺の心に一つの欲求が芽生え始めた。
苗字さんの心情が読めなくてもいい。何を考えているか、分からなくてもいい。でも、せめて。
せめて、
苗字さんが喜んでいるのか、それともそうでないのか。その一点だけは、明確に知りたかった。試合中に自分のスパイクが決まった時、観客が沸くかどうかを気にするのと同じくらい、俺にとっては重要な指標だった。
この欲求は、或る日の昼休み、遂に暴発した。
俺の昼飯は、基本的に学食だ。食券機の前で、日替わり定食AとBを真剣に吟味し、今は唐揚げの気分だと結論付けた俺は、トレーを手に空席を探す。すると、窓際の席で、静かに
饂飩を啜る、
苗字さんの姿が目に入った。クラスの女子、何人かと一緒に食べている日もあるが、今日は一人で過ごしているらしい。彼女の周りだけが、別の空間みたいに凛とした空気を纏っていた。
俺は無意識の内に、
苗字さんの向かい側へと吸い寄せられていた。
「……あの、
苗字さん」
意を決して、声を掛けると、彼女はゆっくりとこちらを見上げ、俺を深い色の瞳に映す。その視線だけで、心臓がフルセットの試合終盤みたいに激しく脈打ち始める。
「その……今日のうどん、美味しい?」
我ながら、余りにも当たり障りのない、工夫の欠片もない問い掛けだ。だが、今の俺には、これが精一杯だった。
苗字さんは実に優雅な所作で麺を口へ運び、小さく頷いた。
「うん。美味しいよ」
淡々とした、嘘のない声。俺は返事に安堵しつつも、未だ満たされない何かを感じていた。美味しい。それは分かった。でも、どのくらい? どのくらい美味しくて、嬉しいんだ? その度合いが知りたい。
俺の口は、脳の指令を待たずに、とんでもない質問を紡ぎ出してしまった。
「そ、その、心拍数は……どんな感じ?」
訊いた瞬間、世界から音が消えた。
俺の目の前で、
苗字さんがぴたり、と動きを止める。そして、僅かに首を傾げ、俺を不思議そうに見つめた。
「……心拍数?」
静かな問い返しに、全身の血液が逆流するのを感じた。しまった。俺は何を言っているんだ。言葉のチョイスが壊滅的且つ絶望的に終わっている。バレーで例えるなら、誰も居ない場所にトスを上げてしまったような、致命的なミスだ。
血の気が足許から急速に引いていく。顔面はきっと、マグマの如く赤熱しているに違いない。
「あっ、ち、違う! いや、その……! 俺は、
苗字さんが、その、嬉しい時に、心臓がどうなるのかって云うか、ほら、俺なんかは嬉しいと、太鼓みたいにドンドコ鳴るから、
苗字さんはどうなのかなって……! 俺が、
苗字さんを見ると、凄く上がるヤツが……その……!」
立て直そうとすればする程、墓穴を深く掘り進めてしまう。最早、ブラジルまで到達する勢いだ。「ドンドコ鳴る」って、何だよ。俺はどこの祭りに参加してるんだ。もう駄目だ。俺の高校生活、第二の歴史的大失敗が、今、ここに刻まれた。
俺が一人で勝手に撃沈し、トレーを持つ手が小刻みに震え始めた頃、不意に笑い声が耳朶を打った。
「……ふふっ」
恐る恐る顔を上げる。そこに居たのは、今まで見たことがない類の、
苗字名前だった。
苗字さんは俯き加減で、口許にそっと片手を宛がっていた。いつもは白磁のように滑らかな頬が、ほんのりと桜色に染まっている。長い睫は伏せられ、下に隠れた双眸がどんな色をしているのかは窺い知れない。だが、その姿は言葉よりも雄弁に、彼女の感情を物語っていた。
「……そんなに、わたしのこと……考えてくれているの?」
か細い、囁くような声。
それは、俺の心臓を直接鷲掴みにし、握り潰さんばかりの破壊力を持っていた。
違う。そうじゃない。いや、そうなんだけど。考えてる。めちゃくちゃ考えてる。何なら、バレーの事と同じくらい考えてるし、一挙手一投足を網膜に焼き付けて、夜な夜な反芻してる。でも、そう云うことじゃないんだ!
俺の脳内は完全にキャパシティオーバーを起こしていた。思考回路はショートし、口からは「あ……う……」と云う、意味を成さない空気の塊が漏れるだけ。
そんな俺を前に、
苗字さんは緩やかに視線を上げた。眸が、少し潤んでいるように見えた。そして、彼女は柔らかく微笑んで、こう言ったのだ。
「……五色くん」
「は、はいっ!」
「……わたしの心拍数、今度、教えてあげるね」
その返答は試合終了間際に放たれた、逆転のサービスエースだった。
絶望の淵から、一気に天国へと引き上げられるような、凄まじい浮遊感。
教えて、あげる。
苗字さんの言葉の意味を、俺はまだ正確には理解できていなかった。だけど、俺の突拍子もない質問を、拒否せずに受け止めてくれた。この事実だけで、俺の心臓は計測不能な程の心拍数を叩き出していた。
俺の不器用で、致命的にセンスのない一言は、二人の関係を新たなステージへと進める、重要な布石となったらしい。
恋の神様は、どうやらとんでもないトリックスターのようだ。
「そ、その、心拍数は……どんな感じ?」
五色くんの口から、その単語が飛び出した瞬間、わたしの思考は数秒間、完全に停止した。
世界から色が消え、音が遠退き、彼の真剣な、少し焦ったような顔だけが、スローモーションで網膜に焼き付く。
何を言っているんだろう、五色くんは。
わたしの心拍数を知りたい?
どうして?
わたしが美味しいものを食べて、嬉しいと感じている時の、身体の反応を?
混乱する頭の中で、彼のしどろもどろな弁明が、断片的に耳へ届く。
「嬉しいと、太鼓みたいにドンドコ鳴る」
「
苗字さんを見ると」
「凄く上がるヤツが」
五色くんの言葉が、パズルのピースのように、カチリと嵌った刹那。
わたしの体内で、何かが爆ぜた。
頬が熱い。
心臓が肋骨の内側で、今まで聞いたこともない程の速さで、大きな心音を立てている。体育館の床に叩き付けられる、ボールの音みたいに。
これが、わたしの心拍数。
五色くんが知りたがっている、もの。
恥ずかしい。
こんなにも分かり易く、身体が反応を示していることが。
そして、嬉しい。
彼が、些細な内側の変化にまで、興味を持ってくれていることが。
わたしは自分の感情を表現するのが、昔から得意ではなかった。
幼い頃、病弱で、余り外に出られなかった所為かもしれない。楽しい時も、悲しい時も、どう気持ちを伝えればいいのか分からなくて、いつも一人で、静かに情動の波が過ぎ去るのを待っていた。
本を読んでいれば、物語の登場人物達が、わたしの代わりに泣いたり、笑ったりしてくれた。わたしは安全な場所から、情緒の嵐を眺めているだけで良かった。それで、充分だと思っていた。
でも、五色くんは違う。
彼は物語の登場人物じゃない。五色くんは、わたしの感情を代行してくれない。それどころか、わたし自身でさえ持て余している心情を真っ直ぐに見つめ、知ろうとしてくるのだ。
けれど、わたしの心を無理に抉じ開けようとはしない。只、扉の前で辛抱強く、中の音が聞こえるのを待っているみたいだ。
わたしが、本の世界に没頭している時も。
わたし以外の女子に触れられている場面を目撃して、胸がちりりと痛んだ時も。
そして、今も。
「……そんなに、わたしのこと……考えてくれているの?」
無意識に声が漏れた。
それは問い掛けのようでいて、殆ど確認作業に近かった。
そう、五色くんはずっと、わたしを見ている。
わたしが気づかない振りをしていただけで。
真っ直ぐ過ぎる、彼の眼差し。
時々、何を言っているのか分からないけれど、彼の奥に在る熱量だけは、嫌と云う程に伝わる。
その熱に、心の氷が、少しずつ溶かされるのを感じた。
このままでは、駄目だ。
わたしも知ってもらわなければ。
わたしの気持ちを、騒がしい心臓の音を。
言葉にするのが難しいなら、別の方法で。
「……わたしの心拍数、今度、教えてあげるね」
わたしにとって、精一杯の勇気を込めた一言だった。
いつか、この騒々しい鼓動を、五色くんに直接聴かせてあげられる日が来るかもしれない。そんな、淡い期待を詰めて。
わたしの言葉に、五色くんがどんな顔をしていたのかは、再び俯いてしまった所為で見えなかった。
只、互いの心音が伝播しそうな程、食堂の空気が熱く震えていた。
わたしは残りの
饂飩を、そっと口に運んだ。
いつもより、ずっと優しい出汁の味がした。