五色くんが、おかしい。
ここ数日に於ける彼の挙動は、わたしの静かな日常に予測不能なバグを発生させていた。
以前の彼からは、わたしを意識していることが、手に取るように伝わった。授業中や休み時間に向けられる、熱烈な眼差し。何か言いたげに口を開けては閉じる、不器用な逡巡。目が合えば、茹蛸みたいに赤くなる、分かり易い反応。全てが、五色くんの真っ直ぐな感情の発露であり、わたしにとっては、少し気恥ずかしくも、どこか心地好いものだった。
だけど、今の彼は違う。
視線は感じる。感じるけれど、質が明らかに変わった。嘗ての、只々熱を帯びた目つきとは異なり、現在のそれは、精密機械でスキャンするかのような、分析的な光を宿している。
ノートに文字を書き込めば、五色くんはペンを握るわたしの指の角度を観察し、小さく頷く。窓の外に目を遣れば、その先に在る雲の形をも解析するよう、同じ方角を見つめる。そして、納得したかの如く、一人で深く首肯するのだ。
極め付けは、時折、五色くんが誰に言うでもなく呟く、あの言葉。
「……成程」
わたしが黒板の数式を解き終えた瞬間、「成程」。
わたしが教科書の頁を捲った瞬間、「成程」。
わたしが欠伸を噛み殺した瞬間、「成程」。
一体、何が「成程」なの。
五色くんの呟きは、わたしの行動一つひとつに、彼なりの正解を見出しているかのようで、底知れない不気味さを伴い、鼓膜を揺らす。それは昆虫観察の記録でも付けているみたいな、無機質で、客観的な響きを持っていた。
心の中に、無視できない小波が立ち始めた。
もしかして、五色くんに嫌われてしまったのだろうか。
あの昼休みの一件。「心拍数を教えてあげる」なんて、思わせ振りなことを言ってしまったから? 彼の純粋な好意を、弄ぶような態度を取ってしまったから?
考えれば考える程、胸の奥が冷たくなる。真冬の夜空に放り出されたような、心細さ。
その不安は、或る日の放課後、決定的な形を成して、わたしに襲い掛かった。
この日は図書室に寄ってから帰ろうと思い、一人で廊下を歩いていた。夕暮れの光が射し込む通路は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っている。
角を曲がった際のこと。
少し先の窓際で、五色くんが誰かと話しているのが見えた。あの子は、確か同じクラスの、快活な雰囲気の女子生徒。咄嗟に、柱の陰に身を隠す。盗み聞きは良くないけれど、今のわたしには、彼の声を聴かずに通り過ぎることなどできなかった。
「五色、今日もお疲れ!」
「ああ! お前も、女子バレー部の練習、大変だろ」
「まあねー。でも、五色が頑張ってるの見たら、私も頑張れるよ」
「そ、そうか? はは、そう言ってもらえると、嬉しいけど」
耳へ届くのは、弾むような、明るい会話。
わたしには、決して向けられることのない、五色くんの屈託ない笑声。
氷の棘で貫かれたみたいに、心臓が鋭く痛んだ。
ああ、そうか。
わたしと接する時の彼は、いつも緊張状態で、言葉を選んでいるし、どこかぎこちない。でも、あの子と会話している時の彼は、こんなにも自然で、楽しそうで、リラックスしている。
わたしと一緒に居るより、ずっと。
ズキリ、と軋む胸を押さえる以外に、微動だにできない。
「成程」の呟きは、幻滅のサインだったのかもしれない。わたしと云う、面倒で、何を考えているかも分からない人間に、五色くんはもう疲れてしまったのかもしれない。
そう思うと、目の奥がジンと熱くなり、視界が滲んだ。
五色くん達が立ち去るのを待って、静かにその場を離れる。図書室へ向かう足取りは、鉛のように重かった。
夜、自室のベッドの上で、膝を抱えていた。
窓の外では、無数の星が瞬いている。一つひとつは、小さな光の点に過ぎない。けれど、それらが集まって、星座と云う物語を紡いでいる。北斗七星、オリオン座、カシオペア座。散らばった光点が、線で結ばれ、意味を持つ。
わたしの心は、バラバラになった星屑の欠片みたいだ。不安、寂しさ、少しの嫉妬。そんなものが、何の形も結ばずに、暗闇の中を漂っている。
五色くんのことが、分からない。
彼の心情が読めなくなった。
以前は、そう云うものだと思っていた。ミステリアスな部分が在るからこそ、人は惹かれ合うのだと、本に書いてあったから。
でも、今は違う。
知りたい。五色くんの、本当の気持ちを。
あの「成程」の真実を。楽しそうな笑い声の理由を。
このまま、擦れ違うのは、嫌だ。
ゆっくりと顔を上げる。
そうだ。話さなければ。
わたしの言葉で、わたしの口で。
散り散りになった星の破片を、繋ぎ合わせる為に。
その為には、同じクラスで隣の席、と云うだけの間柄では、きっと足りない。
もっとプライベートな、二人きりになれる空間が必要だ。
胸の内で、一つの決意が、静かに光を放ち始めた。
それは夜空で一番明るく輝く、一等星にも似た、強い光明だった。

「成程……!」
ノートの隅に、力強くその二文字を書き記した。
天童さんのアドバイスを受け、『
苗字名前の観察記録』を付けることにしたのだ。真面目な性質が暴走した結果とも言えるけど、俺にとっては"敵情視察レポート"であり、未来のエースとしては、重要なデータ収集活動の一環だった。いや、敵と云うのは、語弊がある。
苗字さんは敵じゃない。寧ろ、味方……いや、それも、何か違う。えっと、兎に角!
苗字さんと云う存在を理解する為の、重要な行為なんだ!
最近の新たな発見。
『
苗字さんはシャーペンの芯を出す際に、必ず二回、カチカチと鳴らす。思考を開始する前の、一種のルーティンかもしれない』
『古文の授業中は、他の科目よりも、僅かに口角が上がっている。古典文学に、何らかの興味を持っている可能性が高い』
『昼休み、観葉植物に水を遣る時、葉の裏側まで、丁寧に霧吹きを掛けている。これは物事の本質を見ようとする、
苗字さんの性格の表れではないか』
一つひとつが、パズルのピースみたいに、俺の中で"
苗字名前"と云う人物像を形作っていく。その過程が、堪らなく面白かった。
だから、無意識の内に、毎回「成程」と口に出していたらしい。自分では、全く気づいていなかったが、先日、クラスの男子に「最近の五色、何か探偵みたいだな」と笑われたことで、漸く自覚した。
「え? どう云うことだよ?」
「だって、やたら『成程』って呟いてるじゃん。事件でも調査してんの?」
ハッとした。マズい。これは、
苗字さんに不審がられているかもしれない。
そう思い至った俺は、その日から「成程」を禁句とし、代わりに、普段から自然なコミュニケーションを心掛けることにした。
放課後、部室へ向かう途中で、女子バレー部のクラスメイトに呼び止められた。中学時代からの顔見知りで、気兼ねなく話せる相手だ。
「五色、今日もお疲れ様!」
「ああ! お前も、女子バレー部の練習、大変だろ」
彼女との会話では、
苗字さんと話す時のような、心臓が飛び出しそうな程の緊張感は皆無だ。自ずと声もデカくなる。
「まあねー。でも、五色が頑張ってるの見たら、私も頑張れるよ」
「そ、そうか? はは、そう言ってもらえると、嬉しいけど」
煽てに弱い俺は、素直に照れて笑った。そうだ、こう云う飾らない笑顔やリラックスした態度を、
苗字さんの前でも見せなければ。彼女を委縮させているのは、他ならぬ、俺自身なのかもしれない。
そんなことを考えながら、クラスメイトと別れ、体育館へと向かう。
今日の練習も、気合を入れていこう。
苗字さんに、最高のプレーを披露する為にも。
この時、
苗字さんが柱の陰から、こちらを不安そうな表情で窺っていたことなど、俺は知る由もなかった。俺の"自然なコミュニケーション"が、彼女を不安定にさせていることなど、想像すらしていなかった。
二つの心は夜空に浮かぶ星と同じく、互いに光を放ちながらも、間には途方もない距離が横たわっている。
その距離を縮める術を、俺達はまだ知らなかった。