月色パニック ∟精神的拷問の記録。

※クールなツッキーは居ません。直接的な表現、の描写が含まれます。  例えば―― 「蛍くん。下着を選んでほしいのだけれど」  なんて、正気の沙汰とは思えない言葉が、鼓膜を揺らす日が来るなんて、一体、誰が予想できただろうか。  物理的に、と言うより精神的に、僕の大事な何かが音を立てて握り潰されるのを感じた。例えば、脆いガラス細工にも似た、僕の自尊心。或いは理性と名の付くもの、一切合切。後、睾丸。……いや、待て、それは物質的に無事な筈だ。だが、無傷ではない気がする。だって、彼女、僕の恋人である苗字名前は、今、眼前で純白やら淡いピンクやら、僕の日常とは凡そ無縁な色合いが氾濫するランジェリーの棚の前で、次に読む本でも選ぶかのような、そんな落ち着き払った顔で、僕を振り返ったのだから。 「わたしのこと、よく見てくれているでしょう?」  涼やかな声色で、名前はそう宣った。どうやら彼女の中で、僕は"自分の恋人の体型や好みを寸分違わず把握している、少々(或いは、かなり)特異な観察眼を持つ彼氏"と云う、何とも名誉なのか不名誉なのか判断に困るカテゴリーに分類されているらしい。うん、まあ、否定はしない。把握はしている。何なら、時折、夢にまで見るくらいには明確に。でも、それとこれとは、断じて話が別だ。 「……新しい拷問?」  辛うじて絞り出した声は、消え入りそうな程に掠れていた。ショッピングモールでの、日曜日の昼下がり。柔らかな照明と、どこからか流れてくる耳障りの良いインストゥルメンタルミュージック。そんな平和な空間で、僕だけが見えない断崖絶壁に立たされている気分だった。 「拷問じゃないよ。信頼、だよ」  名前は悪戯っぽく微笑む。その夜色の瞳の奥には、明らかに悪意と純粋な好奇心、そして、僕を試すような光が複雑に混じり合って揺らめいている。それが、彼女なりの「信頼」の形だと言うのなら、僕らの関係は早々に専門医のカウンセリングを受けるべきかもしれない。  僕は、無駄ではないと自負しているこの長躯を、無駄に洒落た雰囲気を醸し出している売り場の、商品と商品の間の狭い通路で窮屈そうに折り畳みながら、観念して彼女の隣に屈んだ。周囲には、楽しげに品物を選ぶ女性客達。その中にあって、場違い感甚だしい長身の眼鏡男子。好奇の視線が、チクチクと背中に刺さるのを感じる。ああ、もういっそ、恐竜の化石でも発掘していた方が、どれだけ精神衛生上、良いことか。  まさか、自分が白昼堂々、こんな華やかで甘ったるい香りの漂う空間で、繊細なレースの質感だとか、ストラップの細さだとかを真剣に吟味する羽目になるとは。名前の弟、の部屋に飾られている、どこかのマニアックなゲームの、やたらと造形が細かい推しキャラクターのフィギュアを品定めする方が、まだ百万倍は気楽だった。あれだって相当な精神力を要したが、これは次元が違う。 「……これは、ない。素材が、肌に当たるとチクチクしそう」  指差したのは、やけにフリルが多い、甘ったるいデザインのもの。僕の乏しい知識と経験から導き出された、精一杯の意見だった。 「うん。流石は蛍くん。優しいね」  名前は心底感心したように頷く。……あのさ、そう云う純粋な眼差しで褒めないでくれる? こっちは今、精神がゴリゴリと摩耗して、ライフポイントがゼロになる寸前だから。せめて、もう少し、僕の羞恥心と云うものを考慮してほしい。  名前の整った横顔を見ていると、時々、得体の知れないものを見ている気分になる。こちらの常識や想像なんて、薄っぺらい紙切れのように軽々と飛び越えてくる、その突拍子もない発想と、それを躊躇なく実行に移す行動力。きっと、彼女の中ではこう云うのも"恋人と過ごす楽しいひと時"の一環として、ごく自然に処理されているのだろう。誰かを好きになると云うことが、こんなにも理解不能な出来事の連続で、こんなにも自分のペースを乱されることだなんて、一体、誰が教えてくれただろうか。  なのに。  そんな不可解な彼女の唇が悪戯な笑みを浮かべ、僕の次の言葉と反応を待つように、ほんの少しだけ期待の色を滲ませて歪められる時だけは。  その瞬間だけは、凄く、凄く綺麗だと思ってしまう自分が居る。  ――僕はどうしようもなく、名前のこの不可解さに弱いのだ。
 ふふ、可笑しい。蛍くんは静かに困惑している。ほんの少しだけ、途方に暮れたように細められた眼鏡の奥の瞳。僅かに下がった口角。緊張からか、ピクリと微かに動いた喉仏。その全部が、わたしの、ほんの些細な一言が原因だと思うと、吸い込む空気さえもが普段よりずっと甘美で、楽しく感じられる。  勿論、本気で彼を窮地に陥れたいわけではない。そんな趣味は持ち合わせていないつもりだ。只、困っている時の彼は、通常なら巧妙に隠されている狼狽や、レンズの向こうで揺れる月色の双眸の真剣さ、わたしだけに向けられる不器用な誠実さが、より一層、際立って見えるのだ。だから、時々、蛍くんの予測可能な日常のレールの上に、わたしのささやかだけれど、一寸だけ大胆な我儘をそっと"捻じ込んで"しまう。彼がどんな顔をして、どんな言葉を返してくれるのか、それを知りたいが為に。 「蛍くん」  わたしは、彼が「チクチクしそう」と評したものの隣に並んでいる、些か大人びたデザインのランジェリーを指差した。深いネイビーブルー。繊細なレースが、夜空に散る星屑のように配置されている。 「……何」  蛍くんの声は、警戒心を隠そうともしない烏のようだ。それでも律儀にこちらを向いてくれる辺りが彼らしい。 「この青いの、どう思う?」  わたしの指が示す先を、蛍くんは一瞬だけ見て、すぐに視線を彷徨わせた。眼鏡の奥の、蜂蜜を溶かしたような月色の瞳が、落ち着きのない細かさで瞬いている。その反応が堪らなく愛おしい。 「……それは。……別に、好きにすればいいんじゃないの」  ぶっきら棒な言葉。けれど、その声には隠し切れない動揺が滲んでいる。 「蛍くんの"好き"が知りたいの」  わたしは態と真っ直ぐに、蛍くんの目を見て言った。こう云う時、彼はとても分かり易い。 「……無理」  蛍くんはそう短く呟くと、磁石の同じ極同士が反発するように、棚を一枚挟んだ向こう側へと、そそくさと逃げてしまった。その時の頬がほんの少しだけ、彼の大好物であるショートケーキの苺みたいに、淡い赤色に染まっていたのを見逃さなかった。  多分、わたしは一般的な尺度で測れば、酷い女の子なのだろう。蛍くんをこんなにも大切に想っているのに、それを素直に分かり易く表現する術をまだ知らない。だから、こうして困らせて、彼の反応を試すようなことばかりしてしまう。迷路の中で、出口を探す子供みたいに。  でも―― 「――名前ちゃん。あの、月島くん、なんだか、こう、限界っぽいオーラが背中から出てる、気がするよ?」  不意に、柔らかな声と共に、肩をとんとんと優しく叩かれた。驚いて振り返ると、そこには男子バレー部のマネージャーの谷地仁花ちゃんが、少し困ったような、心配そうな表情で立っていた。まさか、こんな場所で、こんなタイミングで会うなんて、奇遇にも程がある。彼女の手には、可愛らしいキャラクターが描かれたショッパーが握られていた。 「さっきの月島くん、魂が半分くらい、どこか遠い体育館の天井辺りをふわふわ飛んでいっちゃってた、みたいな感じだったよ?」 「……そんなに?」  思わず、くすりと笑みが零れる。仁花ちゃんの表現は、いつも的確で面白い。 「うん。多分、あれは心の中で『次のサーブは、僕の後頭部以外にお願いします』って、必死に祈ってる時の目に近かったと思う」  そう言って、仁花ちゃんは眉を下げて苦笑した。彼女の言葉には、嘘がない。わたし達のことを本当に心配してくれているのが伝わってくる。 「ありがとう、仁花ちゃん。教えてくれて」 「う、ううん! そんな……! でもね、月島くんはきっと、名前ちゃんの為にちゃんと選んでくれると思うよ! だって、どんなに困った顔して逃げても、名前ちゃんのこと、すっごく、すーっごく大好きだから!」  そう告げて、彼女は花が綻ぶように、にこっと笑った。その笑顔は春の陽だまりみたいに温かい。  そうだね。わたしも――知っている。蛍くんがわたしに対して、どれだけの深い想いを、どれだけの不器用な優しさを捧げてくれているか。言葉にはしなくても、その温もりはちゃんと伝わっている。  だから、わたしは売り場の向こうで、彫刻のように微動だにせず、陳列棚に並ぶ無数の色彩とデザインを、無心に見つめている彼の元へ歩み寄った。そして、その大きいけれど、今はどこか頼りなげに見える手を、そっと包み込むように取った。 「蛍くん」  彼が驚いたように、少しだけ肩を揺らす。 「……なんで、こんな衆人環視の状況で手を繋ぐの。下着売り場で」  絞り出すような声。それでも振り払おうとはしない。それが、蛍くんの答えだ。 「全部、終わったら。わたしがちゃんと着て、見せてあげるから」  顔を逸らし、耳まで真っ赤に染め上げた彼は、それ以上は何も語らず、只、わたしの手を弱々しく握り返した。その不器用な温かさが愛しくて堪らない。  蛍くんが最終的に選んでくれたのは、派手さはないけれど、どこか品のある、青みがかった美しいグレーの下着だった。肌に触れるレースは羽毛程に柔らかく、彼の癖っ毛の浮遊感と、一寸だけ低い掌の体温を同時に思い出させるようだった。  わたしはそれを宝物のようにそっと包んでもらい、蛍くんの片手を確りと引いて、賑わうショッピングモールを後にした。  誰にも言えない、二人だけの秘密を共有した、恋人そのものの姿で。彼の隣を歩くこの瞬間が、わたしにとっては何よりも幸福な時間だった。

Omake:谷地仁花視点

 う、嘘でしょ、ここ、あの、えっと……下着売り場、だよ……ね?  目の前には真っ白とか、淡いクリーム色とか、兎に角、可愛らしいレースでいっぱいの棚があって。その前で、名前ちゃんがまるで、カフェでどのハーブティーにしようか悩むみたいな、そんな優雅な顔で振り返ったんだ。 「わたしのこと、よく見てくれているでしょう?」  ――えっ、えっ、ちょ、ちょっと待って、今の、私の聞き間違いとかじゃない、よね!?  そして、そのほんの数秒後、月島くんは確かに言った。「新しい拷問?」って。すっごく小さな声だったけど、私の地獄耳は聞き逃さなかった!  うん、分かる。分かるよ、月島くん! 分かり過ぎるくらい、分かる! なんなら、もう心の中で正座して、月島くんの置かれた状況について、月島くんの立場で真剣に反省会を開いてるから!  だって、あんなに熱心な顔で、しかも、ちょっと困った風に、彼女さんの下着選びに付き合わされてる男子高校生なんて、生まれて初めて見たよ!? しかもそれが、あの月島くんだなんて!  レースの手触りとか、素材の感じとかまで、なんかこう、指先で確かめてるっぽいの、あれは夢? もしかして、私、まだ寝てる? ねぇ、誰か、私のほっぺを思いっ切り抓ってくれないかな!?  でも、その横で、名前ちゃんが飛び切り綺麗に笑うんだ。ちょっとだけ悪戯っ子みたいな目をして、でも、その瞳の奥はとても真っ直ぐで、まるで――本気で心の底から、月島くんのことが好きなんだって、全身でキラキラしながら言ってるみたいに。 「蛍くんの"好き"が知りたいの」  その瞬間、心臓をぎゅーって優しく、でも、強く掴まれたみたいな気持ちになった。  好き、って。そんな風に真っ直ぐ訊かれたら……。それは凄く素敵な言葉だけど、言われる側にとっては、残酷なくらい強い問い掛けかもしれない。  あんな吸い込まれそうな瞳で求められたら、逃げるしかないよね、月島くん……。うん、分かる、分かるよ……。  だから、気づいた時にはもう、名前ちゃんの肩をそーっと、とんとんって叩いてた。 「――名前ちゃん。あの、月島くん、なんだか、こう、限界っぽいオーラが背中から出てる、気がするよ?」  振り返った名前ちゃんの顔は、一瞬だけ「あ」って感じで驚いて、それから――少しだけ、照れてるみたいにふわりと笑った。あ、この笑顔、凄く可愛い……! 「さっきの月島くん、魂が半分くらい、どこか遠い体育館の天井辺りをふわふわ飛んでいっちゃってた、みたいな感じだったよ?」 「……そんなに?」  私がちょっと大袈裟に言うと、名前ちゃんは楽しそうにくすっと吹き出した。この、悪戯が成功した子供みたいな、でも、どこか優しい笑い方、本当に好きだなぁ。  強いけど、ちゃんと誰かのことを大切に想ってる人の、温かい笑い方。 「ありがとう、仁花ちゃん。教えてくれて」 「う、ううん! そんな……! でもね、月島くんはきっと、名前ちゃんの為にちゃんと選んでくれると思うよ! だって、どんなに困った顔して逃げても、名前ちゃんのこと、すっごく、すーっごく大好きだから!」  それは、私が本当に、心から思ったことだった。  あんな風に、レースの素材のチクチク感まで真剣に吟味してるっぽい月島くん、絶対に本気で、名前ちゃんのこと考えてるに決まってる!  売り場の向こう側で、一人で無心に、美術館で難解な現代アートでも鑑賞するかのように陳列棚を見つめる月島くんの背中が、なんだかちょっとだけ哀愁を帯びていて、だけど――その大きな手を、名前ちゃんが後ろからそっと優しく取った瞬間、周りの空気がふわりと変わったのが分かった。 「蛍くん」 「……なんで、こんな衆人環視の状況で手を繋ぐの。下着売り場で」  月島くんの声は相変わらずぶっきら棒だったけど、最早諦めと、それ以上の何かが混じってる感じがした。 「全部、終わったら。わたしがちゃんと着て、見せてあげるから」  私の知らない世界の会話だなって、思った。  私にはまだ少々早い、でも、凄く真剣で柔らかくて、どこか切なくて、そして、とても甘い恋の形。  月島くんが選んだのは、派手じゃないけど、とても上品で、綺麗な青みがかったグレーの下着だったって、名前ちゃんが後でこっそり教えてくれた。  手を繋いで、些かぎこちなく、それでも確かな足取りで帰っていく二人の後ろ姿が、夕焼けの空みたいに、やけに鮮やかだった。  あんな風に誰かを好きになるって、一体、どんな気持ちなんだろう。  ちょっと怖くて、けど、それ以上に楽しくて、息が詰まるくらい、大切で――  ……うん、やっぱり、少しだけ羨ましい、な。  私はそっと、二つの影が、エスカレーターの向こうに消えていった方向を暫く見送った。  そして、心の中で小さく決めたんだ。  私もいつか、同じように誰かの手をぎゅって、迷わずに繋いでみたいって。  例え、それがどんなに意外な売り場の中だったとしても、きっと。

下着売り場で「睾丸が無傷ではない気がする」とか思考していた僕は、今直ぐ脳味噌を縫った方がいいと思う。



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