月色ハレーション
昼休みを告げるチャイムの音は、僕にとって束の間の停戦協定のようなものだ。午前の授業という名の、時に退屈で、時に知的好奇心を擽る戦場から解放され、自陣へと戻る兵士の安堵。僕の自陣――即ち、山口と、そして、僕の恋人である
苗字名前と共に過ごす、この教室の片隅。
窓から差し込む夏の光が、机の上に広げたサンドイッチの断面をきらきらと照らしている。母が詰めてくれた、卵サラダとハムとレタス。ごく有り触れている、しかし、確かな安らぎを与えてくれる昼食だ。隣では、山口が唐揚げを頬張りながら、午後の小テストの範囲について、何やらぶつぶつと呟いている。そして、僕の向かい側。
名前は彼女の兄が作ったという、宝石箱のように彩り豊かな弁当の蓋を、静かな手つきで開けていた。
穏やかな時間だった。午後の授業への気怠さと、週末に控えた練習試合への微かな高揚感が混じり合う、高校生の日常そのもの。この平和が永遠に続けばいい、などという陳腐な願いが頭を過った、正にその時だった。
「蛍くん」
出汁巻き卵を小さな口に運び終えた
名前が、ふと顔を上げて、僕を見つめた。夜色の瞳が真っ直ぐに、僕を射抜く。何となく、嫌な予感がした。彼女がこういう風に呼ぶ時は、大抵、僕の平穏な日常のレールの上に、彼女の予測不可能な我儘がそっと、大胆に捻じ込まれる前触れなのだから。
「今日は、蛍くんが選んでくれた下着をつけているよ」
世界から、音が消えた。
山口の呟きも、教室の騒めきも、窓の外で響く生徒の声も、全てが遠い世界の出来事のようにフェードアウトしていく。僕の意識は、たった今、鼓膜を通過したその一文だけに、針の先のように鋭く集中していた。
サンドイッチを頬張る僕の手が、ぴたりと止まる。口の中にあった筈の円やかで優しい卵サラダの味が一瞬にして、どこかへ飛んで消えた。味覚という感覚そのものが、脳から強制的にシャットダウンされたかのようだ。
「…………は?」
絞り出した声は、自分のものではないみたいに渇いて、罅割れていた。
何かの聞き間違いだろうか。いや、そんな筈はない。彼女の声は、いつだって澄み切った水のように、僕の耳に届く。では、これは幻聴か? そうであってくれ。頼むから。
だが、僕の切実な願いを打ち砕くように、
名前は悪戯っぽく、それでいてどこまでも無垢な光を瞳に宿して、こう続けたのだ。
「これが、蛍くんの好みなんだ、って思いながら着てみたの。肌触りが良くて、とても快適」
ああ、神様。もし、貴方が居るのなら、僕に雷でも何でも落として、この場から強制的に退場させてはくれないだろうか。
日曜日のショッピングモールで、僕の自尊心やら理性やらを犠牲にして選び抜いた、あの青みがかった美しいグレーの下着。その繊細なレースの感触が、脳裏に鮮明に蘇る。そして、今、それが、
名前の制服の下に在るという事実。彼女の白く透き通った肌に、直接触れているという現実。
その想像だけで、首筋から耳の付け根に掛けて、ぶわりと熱が込み上げてくるのが分かった。
「ツ、ツッキー!? どうしたの、大丈夫!? 顔、真っ赤だよ!?」
隣の山口が、僕の異変に気づいて素っ頓狂な声を上げる。まるで、遠い場所から響いてくるエコーのようだ。大丈夫なワケないだろ、山口。僕の精神は今、メルトダウン寸前だ。
そして、悲劇というものは、いつだって最悪のタイミングで、更なる悲劇を呼び寄せるものらしい。
「月島ァ! 生物のプリント、お前だけ点数良かったって聞いたんだけど、ちょっと見せろよ!」
「日向ボゲェ! 俺が先に見るって言っただろ!」
教室の後方の扉が勢いよく開き、単細胞コンビ――日向翔陽と影山飛雄が、いつものように下らないことでいがみ合いながら、僕らの机へと突進してきた。やめてくれ。今は君らみたいな、デリカシーの欠片もない生き物が最も近寄ってはいけないオーラを、僕は全身から放っている筈だ。
しかし、そんな僕の心の叫びなど、彼らに届く筈もなかった。日向は僕の顔を見るなり、ぱっと目を丸くする。
「うおっ、月島、顔真っ赤じゃん! 熱でもあんの?」
「……煩い。君には関係ないデショ」
辛うじて皮肉を紡ぎ出そうとしたが、声が見事に上擦った。最悪だ。
その時、日向の耳が、僕らの間の不穏な空気に漂っていた、禁断の単語を正確に拾ってしまった。
「ん? 何? 好み? 下着?」
ぱちくりと目を瞬かせた日向は、次の瞬間には好奇心で爛々と輝く瞳を、
名前と僕の間に彷徨わせた。
「え、何の話!? 月島の好みの下着って何!? どんなヤツ!? バレーし易くなるの!?」
「日向! ストップストップ! それは訊いちゃいけないヤツだって!」
山口が慌てて、日向の口を塞ごうとするが、時既に遅し。好奇心の化身と化した小さな巨人は、もう誰にも止められない。影山はと言えば、「下着が何だ」とでも言いたげに、心底意味が分からないという顔で首を傾げている。こいつの思考回路の単純さが、今日ほど有難いと思ったことはない。
周囲のクラスメイト達の視線が、生温かい好奇の色を帯びて、僕らのテーブルに突き刺さる。公開処刑だ。これは日曜日の昼下がりに行われた拷問の、追撃戦なのだ。
僕が羞恥と怒りと絶望で完全にフリーズしていると、元凶である彼女が小首を傾げた。その仕草には、一片の悪意も感じられない。それが余計に、僕を追い詰める。
「言わない方が良かった?」
その純粋な問い掛けが、僕の中に辛うじて残っていた理性の最後の欠片を、木っ端微塵に粉砕した。
目の前の光景が、ぐにゃりと歪む。見慣れた教室がシュルレアリスムの絵画のように、非現実的な空間に見えた。
名前の、あの夜色の瞳に見つめられると、いつもこうだ。僕の世界の輪郭が、現実の法則が、いとも容易く曖昧になってしまう。彼女の言葉一つ、微笑み一つが、僕の理性を幻惑し、思考を麻痺させる。これが、彼女が僕に掛ける魔法――"幻惑の時"。
僕は、もう何も言えなかった。ただ、燃えるように熱い顔を俯かせることしかできない。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。僕にとっては、正に地獄に仏、断崖絶壁で差し伸べられた救いの手だった。
「うおっ、やべ! 予鈴だ!」
日向が慌てて、影山と共に各々のクラスへ戻っていく。山口が、心底同情するような目で、僕の背中をぽんぽんと叩いてくれた。
喧騒が去り、再び、僕と
名前だけの静寂が訪れる。僕はゆっくりと顔を上げ、目の前の彼女を睨み付けた。しかし、その視線に怒りの色は、もう殆ど残っていなかったかもしれない。
名前は、そんな僕の様子をじっと見つめ、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。僕を困らせて楽しんでいる、と言うよりは、僕のそういう不器用な反応の全てが愛おしくて堪らない、とでも言うような、そんな顔で。
ああ、もう。降参だ。
僕は観念して、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、彼女にだけ囁いた。
「……後で、覚えてなよ」
それは脅しというには余りに弱々しく、懇願に近い響きだったかもしれない。
名前は、僕の言葉にこくりと小さく頷くと、その瞳に悪戯な光を一層深く宿して、唇の端を上げた。
彼女に幻惑され続けるこの日常は、時として耐え難い拷問のようでありながら、その実、どうしようもなく甘美なのだと、僕はまた一つ思い知らされるのだった。