月色マスカレード

 昼休みを告げたチャイムが停戦協定だったとするなら、五時限目の終わりを告げるそれは、新たな戦いの火蓋が切られる号砲だった。  僕の精神は、あの白昼の公開処刑以降、完全に機能を停止していた。古典の授業で教師が何を語っていたのか、数学の黒板にどんな数式が並んでいたのか、記憶のどこを探っても靄が掛かったように曖昧だ。僕の意識は、常に視界の左斜め前、静かにノートにシャーペンを走らせる彼女の、その制服の下に隠された青みがかったグレーの布地に囚われ続けていた。  想像するな、と理性が悲鳴を上げる。しかし、一度脳裏に焼き付いてしまった光景は、粘着質な悪夢のように思考の隅々にまでこびり付いて離れない。名前の白く滑らかな肌の曲線、その上に重ねられた繊細なレースの質感。それを自分が選んだのだという、誇らしいような、死ぬほど恥ずかしいような、相反する感情が渦を巻いて、僕の集中力を根こそぎ奪っていく。 「……後で、覚えてなよ」  昼休み、僕が絞り出したあの言葉は、今や巨大なブーメランとなって、僕の脳天に突き刺さろうとしていた。一体、何を「覚えてろ」と言うのか。どんな仕返しをしろと。彼女を前にして、僕が何か強気に出られた試しがあっただろうか。結局は、名前のあの夜色の瞳に見つめられれば、僕のなけなしの威勢など、春先の雪のように儚く溶けて消えるのが関の山だ。  放課後。部活へ向かう生徒達の喧騒が満ちる廊下で、僕は逃げるように鞄を肩に掛けた。一刻も早く体育館へ。ボールの音と汗の匂いに満ちたあの空間に逃げ込めば、この脳を焼くような妄想も少しは霧散するかもしれない。 「蛍くん」  背後からの凛と澄んだ声が、僕を呼び止める。振り返るまでもない。この声の主は世界に一人しかいない。 「わたしの家に来て」  それは疑問形ではなく、決定事項を告げる響きだった。有無を言わさぬ、とは正にこのことだろう。彼女の瞳は、僕の返答を待つのではなく、僕が頷くことを確信している光を宿していた。僕の「覚えてなよ」という宣戦布告に対する、名前からのアンサーがこれだ。完全に、主導権は彼女の手の中にあった。 「……部活」 「勿論、終わった後でいいよ」  そう言って、彼女は僕のシャツの袖を、細い指でそっと掴んだ。その仕草に、僕の最後の抵抗は泡のように消え失せた。
 名前の住むマンションは、相変わらず現実味のない静寂に包まれていた。磨き上げられたエントランスホールに響くのは、僕らの足音だけ。管理人以外に住人の気配がないこの建物は、時々、異世界への入り口のように感じられることがある。 「兄貴兄さんは、新しい物語の取材で留守にしているよ」  エレベーターの中で、名前は事もなげに言った。つまり、この広大な空間に、僕と彼女の二人きりだということだ。その事実がずしりと重い意味を持って、僕の腹の底に落ちてくる。  リビングのソファに促されるまま腰を下ろすと、心臓がやけに大きな音を立て始めた。コート上で、相手のエースの強烈なスパイクを待つ時のような、不快で、しかし、どこか昂ぶる緊張感。 「少し、待っていて」  そう言い残し、名前は自室へと姿を消した。  残された僕は、ソファの上で身動ぎもできずに、過ぎていく時間をやり過ごすしかなかった。壁に掛けられた抽象画も、ガラスのテーブルに置かれた装丁の美しい本も、今の僕の目にはただの記号としてしか映らない。思考は唯一点、これから起こるであろう出来事へと収束していく。昼間の教室での宣言。「全部、終わったら。わたしがちゃんと着て、見せてあげるから」という、日曜日の約束。  僕は一体、何を期待しているんだ。  自問自答するが、答えは分かり切っていた。期待している。馬鹿みたいに、どうしようもなく。彼女に振り回される自分に腹が立ち、羞恥で顔が熱くなるのに、心のどこかでは、この状況を待ち望んでいた。  やがて、静かにドアが開く音がした。  現れた名前の姿に、僕は息を呑んだ。  名前は、僕がいつも彼女の家で寛ぐ時に羽織っている、少し大きめの黒いパーカーを身に着けていた。華奢な彼女の身体をすっぽりと包み込み、袖は余って指先を隠し、裾は膝上までを覆っている。その、余りにも無防備で、余りにも扇情的な姿に、僕の思考は完全に停止した。 「……何、その格好」  掠れた声で、それだけを言うのが精一杯だった。 「蛍くんの匂いがするから、落ち着く」  名前は悪戯っぽく微笑むと、僕の前にゆっくりと歩み寄った。そして、僕の隣、ソファの直ぐ傍に立つ。貴方の隣で、というフレーズが脳内でリフレインした。 「約束、でしょう?」  夜色の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめる。その視線から逃れる術を、僕は持たない。こくり、と喉が鳴る。  名前はパーカーのジッパーに、そっと指を掛けた。ゆっくりと焦らすように、その金属が引き下げられていく。  現れたのは、僕が日曜の午後に、自尊心と理性を犠牲にして選び抜いた、あの下着だった。  青みがかった、美しいグレー。  彼女の透き通るように白い肌の上で、それは夜明け前の空の色のように静謐な輝きを放っていた。繊細なレースが肌の曲線に優しく寄り添い、僕が想像した以上に彼女の身体に馴染んでいる。昼間、頭の中で繰り返し描いた光景が、今、現実のものとして目の前に在る。その事実に脳が痺れるような感覚を抱いた。  視線をどこにやればいいのか分からない。顔に集まった熱が、耳まで真っ赤に染め上げているのが自分でも分かった。しかし、目を逸らすことだけは、どうしてもできなかった。 「……どうかな」  名前がほんの少しだけ不安そうな色を声に滲ませて、小首を傾げた。その問い掛けが、僕の中に辛うじて残っていた理性の最後の楔を、粉々に打ち砕いた。  僕は無言で立ち上がると、彼女の華奢な肢体をパーカーごと抱き締めていた。腕の中に収まる温かさと柔らかさ。服から香る、有り触れた洗剤の匂いに混じって、彼女自身の甘い香りがする。 「……反則だ」  絞り出した声は自分でも驚く程に弱々しく、熱を帯びていた。 「蛍くんが、選んでくれたから」  腕の中で、名前が擽ったそうに囁く。 「凄く、……似合ってる」  やっとの思いで紡いだ言葉は紛れもない本心だった。僕の言葉に、名前が腕の中で嬉しそうに身動ぎするのが伝わってくる。  ああ、もう。降参だ。完敗だ。昼休みの「覚えてなよ」なんていう虚勢は、この瞬間の為にあったのかもしれない。こんな甘美な降伏を味わう為の、壮大な前振りに過ぎなかったのだ。  君の隣で、僕の世界はいつも、こんな風にいとも容易く掻き乱される。常識も、理性も、僕が築き上げてきた筈の壁も、彼女の前では何の意味も持たない。けれど、この予測不能な日々の中心に彼女が居て、僕がその隣に居る。その事実がどうしようもなく、僕の心を捕らえて離さない。 「君には、本当に敵わない」  それは脅しでも、懇願でもない。ただ幸福な諦観に満ちた、僕の偽らざる告白だった。  僕の腕の中で、名前は花が綻ぶように、幸せそうに微笑んだ。その笑顔が見たくて、僕はこれからも、何度でも、彼女の仕掛ける甘い拷問に喜んで身を委ねるのだろう。



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