月島蛍は、甘い恋には向いていない男だった。 ∟嘘吐きな僕の独白。

 月島蛍は、甘い恋には向いていない男だった。  別に、恋愛が嫌いなわけではない。寧ろ、名前のことは心から愛していたし、彼女が自分の恋人であることに関しては、それなりに誇らしく思っている。だが、世間一般で言うような甘ったるい恋愛模様を演じることは、どうしても性に合わなかった。月島の中には常に冷静な観察者が居て、自分の一挙手一投足を分析してしまう。それが時に彼の感情表現を阻み、素直になることを難しくしていた。  例えば、放課後の帰り道。恋人同士が手を繋いで歩く光景は日常的に見掛けるものだが、月島はそんな行為がどうにも気恥ずかしくて、隣を歩く名前が小さな手をそっと差し出してきても、態と気づかない振りをしてしまう。夕暮れの空が徐々に色を変える中、二人の間に流れる沈黙だけが、時間の経過を物語っていた。 「……蛍くん?」  夜の海のような深く暗い瞳が、じっとこちらを見つめている。静かな声が、彼の名前を呼ぶ。その声音には、どこか遠慮がちな響きがあって、月島の胸の奥が微かに痛む。名前はいつも、こうして控えめに願いを口にする。強く主張することなく、ただ粛然と、彼の反応を待っている。 「ん?」 「手、繋ぎたくない?」  名前の問い掛けに、一瞬言葉を詰まらせる。嘘を吐くのは簡単だった。気持ちを隠すのは、月島にとっては日常茶飯事だ。心を守る為の防壁のようなものを、彼はずっと築き上げてきた。 「別に」  そう言いながらも、ちらりと名前の指先を見る。白磁のような手が、ほんの僅かに震えていた。その繊細な震えが、月島の心に小さな波紋を広げる。  名前の指先は、月島の目に優しく映る。柔らかな曲線を描く指の線、ほんのりと桜色に染まった爪、手首へと続く静脈の青い線。その全てが、彼女の儚さと強さを物語っていた。  このまま放置すれば、きっと名前は直ぐに手を引っ込めるだろう。そして、何もなかったかのように歩き出し、もう二度とこう云う素直な仕草を見せてはくれないかもしれない。  それが、妙に惜しかった。月島の心の奥には、彼女との距離を縮めたいと云う願望が確かに存在していた。それでも、その感情を素直に表現することができない自分自身に、時折、苛立ちを覚えることがある。  月島は無意識に息を呑んだ。彼女の求めに応じることが、自分をどう変えてしまうのかが分からなかった。名前の細い指に触れたら、彼女の体温を感じてしまったら、自分の中の何かが崩れる気がした。長年かけて築き上げてきた防壁が、一瞬にして崩れ去ってしまうような恐怖。それは彼にとって、未知の領域への一歩だった。  だからこそ、溜め息を吐くようにして、月島は名前の手を取った。 「……寒いから」  言い訳のように呟くと、名前はふわりと微笑んだ。その笑顔が、何故か少し悔しくて、月島は眼鏡の奥で僅かに目を細める。彼女の微笑みには、どこか彼の心を見透かしたような優しさがあった。「分かっているよ」と言わんばかりの、静かな受容。 「そうだね」  名前の手は、驚く程に冷たかった。その冷たさが掌を通して、心に滲み込んでくる。月島は無意識の内に、その細い指をより強く握り締めていた。  名前の手指が、手の中で少しずつ温かくなっていく。その変化を感じながら、月島はふと思った。彼女の冷えを温めることができるのは、今、この瞬間、世界で自分だけなのだと。その事実が、不思議な程に胸を満たしていく。  夕焼けに照らされた二人の影が、アスファルトの上でゆっくりと重なり合う。その瞬間、自分が少しだけ変わったような気がした。
 月島は理性的な男だ。基本的に、感情に流されることはないし、何かに熱くなり過ぎることもない。クラブ活動でも、学業でも、常に冷静さを保ち、理性的な判断を下す。その姿勢は彼の長所でもあり、時に周囲との距離を生み出す要因でもあった。だが、そんな彼ですら、名前の事となると平静でいられない時がある。  例えば、彼女の部屋で二人きりになった時。  窓から差し込む午後の柔らかな光が、部屋の中に穏やかな影を落としている。棚に並んだ古典文学の数々、壁に掛けられた繊細なスケッチ画、そして、窓辺に置かれた小さな観葉植物。全てが彼女らしい静謐さを湛えていた。 「蛍くん、お茶を淹れたよ」  クラシカルなティーカップを載せたトレイを手に、名前が微笑む。絹糸のように滑らかな髪がさらりと揺れて、ほんのりとマスカットの香りが漂った。その姿は、まるで絵画の中から抜け出してきたような美しさを持っていた。窓から差し込む光に照らされた彼女の横顔は、どこか儚げで、それでいて力強さを秘めていた。  普段なら、普通に礼を言って受け取るところだ。形式的な言葉と共に、互いの間に適切な距離を保ちながら。だが、今日はどうにも彼女の仕草が妙に可愛く見えてしまって、月島は思わずトレイごと受け取り、ローテーブルに置いた。次いで、名前の手首を引いた。その行動は、自分自身にとっても予想外のものだった。 「……蛍くん?」  戸惑いながらも、月島の腕の中に収まる彼女の身体は、思ったよりも軽い。驚いたように瞬く深海の瞳を見下ろしながら、ふと考えた。名前の長い睫毛が、頬に小さな影を落としている。その繊細な陰影が、彼の心を奇妙な高揚感で満たしていく。  名前は、甘い恋を望んでいるのだろうか。  彼女は、僕に優しく囁かれることを望んでいるのだろうか。  名前の胸の鼓動が、自分の鼓動と重なるのを感じる。その不思議な共鳴が、月島の内側で静かな波紋を広げていく。いつもなら理性で制御できる筈の感情が、今は彼の中で密やかに渦巻いていた。 「……紅茶が冷めてしまうよ?」  名前が、くすりと笑いながらそう言った。その声音が、やけに柔らかくて、月島は少しだけ目を細める。彼女の声は、いつもより一寸低く、仄かに甘い。それは自分だけに向けられた、特別な調べのように思えた。 「別に、いい」  素っ気なく返しながらも、抱き締めた腕の力は弛めなかった。名前の温もりが、ゆっくりと胸の奥に溶けていく。その感覚は不思議なもので、月島の内側に在った何かが、少しずつ形を変えていくような気がした。  名前の髪から漂う微かな花の香り、肩に触れる柔らかな感触、そして、耳元で感じる静かな呼吸。それら全てが月島の感覚を鋭敏にし、彼の世界を一変させる。普段は気にも留めない些細な感覚の一つひとつが、今は彼の全身を包み込んでいる。  名前が月島の胸元に頬を寄せ、小さく囁く。その囁きは、彼の心の奥深くまで届いていた。 「……蛍くんは、素直じゃないね」 「知ってる癖に」  彼の言葉に、彼女はふわりと笑った。その笑い声は、部屋の中に小さな光を放つようだった。月島は眼鏡越しに、名前の笑顔を見つめる。その双眸に映る自分の姿を想像して、不思議な安堵を覚えた。  甘い恋ではなかった。形容するなら、それは少し苦みのある紅茶のような恋だった。初めは戸惑うような苦さがあるけれど、時間と共に舌の上に広がる奥深い香りのような。  だが、それでもいい。いや、寧ろ、そんな歪な形だからこそ、この恋は愛おしいのだと、月島は思った。互いの間に在る静かな理解は、言葉を超えた深い絆を生み出していた。  月島は名前の髪に鼻を埋めながら、自分の中で少しずつ溶けていく壁を感じていた。それは恐れるべきことではなく、いっそ受け入れるべき変化なのかもしれない。  窓から差し込む夕暮れの光が、二人の姿を優しく包み込んでいった。言葉にはならない感情が、静かに部屋の中に満ちていく。それは甘い恋よりも、もっと深く、もっと真実に近いものだった。



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