君が居なくても、「ただいま」と言う。 ∟君の居ない食卓、僕の独り言。

兄貴の描写が含まれます。  静かな部屋の扉を開けると、いつもの香りが出迎えた。  微かなジャスミンの芳香と、どこか古書を思わせる落ち着いた空気。それは、名前の存在を示す、目に見えない印のようだった。  月島蛍は沈黙したまま玄関の灯りを点け、ゆっくりと靴を脱ぐ。革靴の音が、いつもより大きく響く。空っぽの家に、自分の在処を主張するかのように。  外の冷たい空気を纏ったまま、リビングに歩を進めると、白熱灯の柔らかな光が無言で迎えてくれた。  壁の時計を見ると、針は十九時過ぎを指している。  博物館の勤務を終え、Vリーグ Division2『仙台フロッグス』の練習を熟して帰宅するこの時刻は、月島にとっては日常の一部だった。昼間は職場で資料整理と展示の準備、夕方はチームのトレーニング。身体を動かした後の食事は、パフォーマンスの維持にも関わる重要な時間だった。その繰り返しの中に、確かな安定があった。  いつもなら、この時間には彼女が食卓を整えている。バランスを考えたメニューと温かいスープの香りが部屋を満たしている。月島が帰宅した瞬間、僅かに顔を上げる名前の姿が見える筈だった。  しかし、今日は居ない。  ――当たり前だ。  名前は現在、兄である兄貴の個展の手伝いで東京に行っている。彼女にとって、兄の芸術活動を支えることは小さな誇りだった。それを、月島は理解している。  名前が出発する朝、月島は仕事の準備で忙しく、碌に見送りもしなかった。「気を付けて」と伝えただけで、いつも通りの朝食を終えた。それが、今になって、少しの後悔として胸に残っている。もうちょっと、何か言えなかったのか。  それでも、無意識に口が動いた。 「……ただいま」  応える声はない。  虚空に吸い込まれる言葉に、月島は少しだけ眉を寄せた。まるで自分の声音が、部屋の中で小さく砕け散るように聞こえた。  普段、言葉数が多いわけではない月島だが、名前と居れば自然と会話が生まれる。質問に答えるだけの短い科白でも、彼女はそれを拾い上げ、話を紡いでいく。それがないだけで、家の静けさが不自然に思えるのだから、自分でも意外だ。  溜め息をつきながら、眼鏡を外し、額に手を当てる。レンズの向こう側に見えていた日常が、些か色褪せたような印象を受けた。  ――名前が居ない家は、妙に広く感じる。  勿論、名前は日頃から騒がしいわけではない。寧ろ、物静かな方だ。読書をしていたり、紅茶を淹れていたり、時折、ピアノの音色を響かせていたりするだけだ。だが、確かにこの家には、彼女が居た証が在った。  読んでいた本が伏せられたままのテーブル。「続きはまた後で」と言っているような、その姿勢。  茶葉ごとに変わる紅茶の残り香。名前は気分や相手によって、銘柄を選び分けていた。  ピアノの防音室の扉が、ほんの少し開いていること。彼女が弾いていた旋律が、まだ余韻として漂っているような錯覚。  そんな何気ないものが、名前がここに住む証拠だった。  それらの主が不在中の居住空間は、思いの外、寂しい。  ――まあ、それでも。  月島は眼鏡を直してコートを脱ぎ、袖を捲ると、台所へ向かった。空腹を満たすこと。それは生きることの基本だ。どんな気持ちであれ、身体を動かした後は栄養が必要だと、彼は知っている。  冷蔵庫を開けると、名前が準備してくれた食材があり、メモが貼られていた。 『タンパク質と炭水化物は確り摂ってね。蛍くんは少食だから、食べ易い量にしてあるよ』 「……ちゃんと考えてるな」  自然と口角が上がる。  結婚してからと云うもの、名前はこう云う小さな気配りをよくしてくれる。月島も料理はできるが、栄養バランスまで確り計算している彼女の手際には敵わない。時々、その几帳面さに呆れることもあるが、今はそれが恋しく思えた。  冷蔵庫から食材を取り出し、鍋とフライパンを用意する。台所の引き出しを開け、包丁を取り出す。その全てに、名前の規則正しい整理整頓が行き届いていた。  主菜は鶏胸肉のグリルに、温野菜を添えたもの。  副菜はひじきと大豆の煮物。  炭水化物は玄米ご飯。  汁物は豚肉とたっぷりの野菜が入った、具沢山の味噌汁。  名前の手によって組み立てられたメニュー。アスリートの身体を考えた栄養バランスとレシピ。それらは全部、月島を想う気持ちの現れだった。  食材を切る包丁が、自然とリズムを刻む。いつもなら、名前がやっていることを、今夜は自分がやっている。その逆転が、何だか不思議な感覚だった。  手元に集中しながら、月島は考える。  名前が居ると、自ずと食事をする気になれる。  二人で食卓を囲めば、何気ない会話がスパイスになる。 「蛍くん、今日の博物館はどうだった?」 「……別に普通」 「ふぅん、普通……とは?」 「いや、普通は普通だろ」 「普通とは何か、について、考えたことはある?」 「……ないけど」 「わたしはあるよ」 「なんで」 「普通って、誰にとっての普通かで変わるから」 「……哲学かよ」 「哲学、好き?」 「嫌い」 「うん、知ってる」  ――そんなやり取りが、先程のことのように思い出される。  名前は物事の本質を突く質問をよくする。時々、面倒臭いと思うこともあるが、その視点は月島の世界を少しずつ広げていた。  程良く熱したフライパンの上で、鶏肉がジュウと音を立て、食欲を刺激する香ばしい匂いが立ち昇る。  味噌汁の鍋からは、湯気がふわりと上がった。  皿に盛り付け、温かな食事を前に座る。テーブルの向かい側は空いている。その空白が、妙に大きく感じられた。 「……いただきます」  呟いて、箸を取る。一人で言う「いただきます」は、どこか空虚に響く。  シンプルな味付けだが、確りとした旨味があり、食べ易い。運動後の疲れた身体に、優しく染み渡る味だった。名前の料理は、決して派手ではないが、どこか懐かしさを感じる風味がする。例えば、故郷を思い出すような、心が落ち着く味加減。  一人でも、ちゃんと平らげる。  それが、彼女への敬意でもあった。  ――だけど、本音を言えば。 「……君が居た方が、もっと美味しいんだけど」  ぽつりと漏らし、苦笑した。恥ずかしいことを独り言ちたような気がして、誰も居ないのに顔が熱くなる。月島はそう云う感情表現が苦手だ。だからこそ、こんな独白でしか出せない言葉がある。  食事を終え、食器を片付けると、スマホを手に取る。  東京行きの新幹線の時間に合わせて、名前が『着いた』と送ってきたメッセージがある。  彼女からの連絡はそれっきりだった。 (まあ、忙しいんだろうな)  そう思いながら、指が勝手に動いていた。文字を入力している自分に、少し驚く。普段なら、名前からの知らせに『了解』と返すだけだ。 『君が居ないと、食卓が広く感じる。早く帰ってきなよ』  送信ボタンを押す。  文面を見つめながら、自分でも意外な気持ちになった。こんな素直な言葉を送るのは珍しい。名前が居ないからこそ、言える台詞なのかもしれない。  すると、すぐに既読が付く。  今、名前はどんな表情をしているだろう。多少は吃驚しているかもしれない。或いは嬉しそうに微笑んでいるかもしれない。  数秒後、吹き出しが現れた。 『わたしが居なくても、ちゃんと食べた?』  ふっと、月島は微笑した。彼女らしい返信だ。自分の気持ちよりも、まずは相手を気遣う。それが、名前だった。 『うん。君が準備してくれたヤツで』  即座に、もう一通。 『それなら良かった。でも、寂しいと思ってくれたのなら、嬉しい』  胸の奥が、じわりと温かくなる。  たった数行のメッセージだが、そこには確かな絆が流れていた。名前の居ない家で、彼女との繋がりを感じる瞬間。  スマホを見つめながら、もう一度呟いた。 「……ただいま」  やっぱり、名前の声はない。  それでも、その静けさが、仄かに温もりを帯びている気がした。彼女が帰ってきたら、扉の向こうから「お帰り」と応えてくれる。それを想像しただけで、この夜の静寂も、僅かに愛おしく思えた。  月島は本棚から、一冊の本を取り出した。最近、名前が読んでいた小説だ。読み掛けの栞が挟まっているページを開く。彼女の指が触れたであろう紙面を捲りながら、その世界に少しだけ触れてみる。彼女が見た物語を、自分も共有すること。それは間接的に、彼女と繋がっているような感覚を齎した。  ――君が居なくても、「ただいま」と言う。  何故なら、その先に「お帰り」が在ると知っているから。



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