18:22:38、時が止まった日 | 前日譚。止まった時間と、動き出した恋。
夏の終わりが近づく午後。
蝉の声が徐々に弱まりながらも、まだ懸命に鳴いている。グラウンドに響く野球部の掛け声や、校舎の窓から漏れる吹奏楽部の音色が、季節の変わり目を告げていた。
わたし、
苗字名前は、校舎の案内図を片手に体育館の前で足を止めた。転入して三日目のわたしにとって、広大な稲荷崎高校の校内はまだ迷路のようなものだった。
「女子バレー部は……こっち、で合っている筈」
わたしは小さく呟き、しっかりと案内図を確認した。吹奏楽部への入部を考えていたものの、まだ決めきれずにいた。元々、運動は余り得意ではないが、せっかく転入してきたのだから、他の部活の様子も見ておこうと思ったのだ。
わたしは少し緊張しながら、重たい体育館の扉に手を掛けた。
扉を開けると、体育館の中は熱気に包まれていた。
空気が肌を刺すようだ。汗の匂い、熱された木の床が独特の香りを放ち、鼻腔を擽る。
耳に届くのは、ミシッと床が軋む音。
ボールの弾む乾いた音。
靴が擦れる鋭い音。
命令を飛ばす声、応える声。
活気に満ちたその空間に、わたしは一瞬、息を呑んだ。
「……女子、居ない」
すぐに気がついた。
目の前に居るのは、180センチを超える長身の男子ばかり。とても女子バレー部には見えない。空間に広がる汗と熱気の中で、彼らは躍動していた。
「これは……」
これは全国レベルの強豪――稲荷崎高校の男子バレー部だった。わたしは案内図を見直して、軽い落胆を覚えた。どうやら、体育館が幾つかあるのを見落としていたらしい。
「間違えた」
帰ろうと、そっと足を引こうとした。
けれど、その瞬間。
視界の中で、一人の選手が飛んだ。
時間が止まったかのようだった。
しなやかな弧を描くように跳び上がる姿に、思わず視線が吸い寄せられる。その高さは、重力を無視したかのよう。長い手足が空気を切り裂き、身体は意のままに操られている。
身体を捻る。上半身が大きくスライドする。
次の瞬間、強烈なスパイクが打ち込まれた。
床を打つ鈍い音が響き、ボールが弾む。
受けた選手の手首が僅かに震え、しかしすぐに次のプレーへと動き出す。
リズムが崩れない。速い。強い。美しい。
「……凄い」
わたしの指先が、無意識にスマートフォンを握り締める。画面に表示されている時計の数字が、ぼんやりと目に映る。
― 18:22:38
わたしの目は、自然とその選手を追っていた。
185cmの長身。焦げ茶の髪。わたしはその顔を認めた。
ミドルブロッカーとしては、決して高いとは言えない。チームにはもっと大きい人も居る。けれど、彼はそれを物ともしていなかった。
強靭な体幹が生み出す、異常なまでの打点の振り幅。
スパイクの瞬間、胴体が一つ分ズレることで、ブロックが追いつけない。
クロスに打つかと思えば、瞬間的にコースを変え、ターン打ちを繰り出す。
それなのに、威力が落ちない。
レシーバーすら欺くスパイク。
空中で浮いているような錯覚すら覚える動き。
彼のプレーには、何か捉えどころのない魅力があった。心理戦を楽しむかのような余裕。相手を翻弄することを遊びにしているような不敵さ。その瞳は、獲物を射止めるハンターのように、研ぎ澄まされていた。
「角名倫太郎……」
自己紹介で聞いた名前を思い出す。
同じクラスの男子。
教室では半目を開けたような表情で、退屈そうに窓の外を見ているか、スマホを弄っていた。どこか掴みどころのない雰囲気だった。
けれど、今目の前に居る彼は、まるで別人のようだった。
余裕のある表情の下に潜む集中力。
飄々とした態度の裏にある、圧倒的な技術。
相手を思い通りにさせない巧みな駆け引き。
気がつけば、彼がボールに触れる度に、わたしの胸の奥がざわついていた。心臓が鼓動を早め、顔が熱くなる。彼の動きから目が離せない。映像を撮っておきたいという衝動と戦いながら、わたしは息を殺して見ていた。
試合の流れが止まった一瞬、角名倫太郎がふっと顔を上げた。
彼の視線が、磁石に吸い寄せられるように、わたしを捉えた。
角名倫太郎の瞳は、体育館の熱気とは対照的に、氷のような冷たい光を湛えており、ひどく落ち着いていた。わたしがそこに居ることを、予見していたかのような、確信に満ちた眼差し。けれど、その奥にはどこか挑発的な光が宿っている。「見つけた」とでも言わんばかりの。
彼が軽く眉を上げる。
唇の端が微かに持ち上がった気がした。
「……見られている?」
わたしの頬が熱くなる。転入生が部活を覗きに来ただけなのに、妙に気恥ずかしさを感じた。彼に声を掛けられる前に、何か言われる前に、わたしは静かに踵を返した。
「すみません」と小さく呟き、扉から離れる。
心臓の鼓動が速過ぎて、自分の足音すら聞こえない程だ。
しかし、体育館を後にする直前、もう一度だけスマホの画面を確認する。
時計は動いていなかった。
― 18:22:38
その数字が、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、静止していた。
わたしは不思議に思い、何度か画面をタップしてみた。けれど、表示は一向に変わらない。何故か、時間が止まっている。
それとも、この瞬間が永遠に続いているのだろうか。
「この時間を、きっと忘れない」
わたしは静かに心に誓った。理由もわからないまま、場所も知らないまま、たった今、わたしの心は動き始めたのだ。
「今日、わたしはこの人に恋をした」
その事実は、とても単純で、とても不思議だった。角名倫太郎の存在が、わたしの視界に入った瞬間から、何かが変わってしまった。それは理屈では説明できないもの。
外に出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。
熱のこもった体育館の中とは対照的な、ひんやりとした空気。きらきらと輝いていた太陽も、今では少し傾き、校舎に長い影を落としている。
それでも、わたしの胸の奥は妙に熱かった。
時計の示す18時22分38秒が、わたしにとって特別な瞬間になるとは思わなかった。
偶然の出会い。時が止まった一瞬。
これから、わたしが角名倫太郎と正式に言葉を交わすのは、まだ先のことになる。けれど、今日この時間が、わたしの人生の転換点になるということだけは、確かなことだった。
そう確信しながら、わたしはそっとスマホの画面を暗転させた。
夕暮れの校庭に、一人分の影が長く伸びていった。