12:43:15の約束 | りんたろうの思考実験。
――倫くんが最初にわたしの名前を呼んだのは、12:43:15。
その日、図書室の窓際には透き通るような青空が広がっていて、風が大きな木の葉を揺らしていた。セミの鳴き声が遠くから聞こえる。窓を開けると、熱気が押し寄せてくるのに、閉めていると息苦しい。残暑の図書室は、そんな矛盾を抱えていた。
わたしは静かな時間を求めて、図書室の奥の席に座っていた。冷たい麦茶を持ち込むことは許されていないから、喉の渇きを我慢しながら、本の世界に没頭する。ページを捲る指先はいつも通りの速さで、言葉の羅列を目で追いながら、耳は時折届く微かな物音に意識を向けていた。
机に頬杖をつく男子生徒。焦げ茶の髪がふわりと揺れ、切れ長の薄緑の眸が半ば眠たげに伏せられている。制服の第一ボタンは外され、襟元から鎖骨が覗いていた。その姿を見て、わたしはなんとなく視線を戻した。
角名倫太郎――わたしと同じクラスの男の子で、男子バレー部のミドルブロッカー。転入して間もなく、偶然体育館で見かけた彼は、軽やかに跳躍し、鋭いスパイクを決めていた。汗の滴が空中で弧を描き、鮮やかな光の粒となって散っていたのが印象的だった。その時の印象とは打って変わって、今は猫のように気だるげで、机に腕を預けている。
「……ねぇ」
不意に声を掛けたのは、わたしの方だった。
本を読んでいる筈なのに、どうしてそんな衝動に駆られたのか、自分でも分からない。
角名くんがわたしを認識したのは、実はそれが初めてだったのかもしれない。彼はゆっくりと顔を上げ、眠たげな眼差しを向けてきた。
「……ん?」
そのまま数秒、瞬きをするだけで、特に話すでもなく、また目を閉じようとする。暑さの所為か、それとも元々の性格なのか、彼の動作には独特の緩慢さがあった。
「ここで寝るの?」
「寝るっていうか……ちょっと休憩。昼休み、長過ぎるし」
わたしは本を閉じ、机の上に置いた。表紙に描かれた少年の横顔が、角名くんと重なって見える。
「だったら、保健室に行けばいいのに」
「そこまでじゃない。ここ、静かで丁度いい」
角名くんはまた瞼を鎖す。少しだけ、薄く笑ったように見えた。日差しが彼の睫毛に影を落とし、頬に小さな陰影を作る。わたしはその表情に何かを感じながら、静かに本を開き直した。それが、彼とまともに会話を交わした最初だった。
――それから、わたしと角名くんは昼休みの図書室で顔を合わせるようになった。
教室は騒がし過ぎて、廊下は人が行き交い過ぎている。夏の名残から逃れるように、わたし達は図書室という避難所を見つけた。ほんの少し埃っぽい、古書の匂いが染み付いた、空調の効いた空間で、わたしは相変わらず読書をして、角名くんは机に突っ伏したまま、時折、緩く言葉を交わす。
彼は余り多くを語るタイプではなかったが、それでも時々、何気ない話題を投げ掛けてきた。窓の外で、夏の終わりを惜しむかのように蝉が鳴く音が、彼の低い声と混ざり合う。
「その本、面白い?」
「まあまあ」
「まあまあなら読まなくてよくない?」
角名くんは気怠そうにしながら、わたしの本に視線を落とした。
「読む前から面白さを決めつけるのは、勿体ないと思うけれど」
「ふぅん……それ、何の本?」
「詩集。好きな作家のもの」
角名くんは興味があるのかないのか、わたしの読む本のタイトルをじっと見ていたが、結局「へぇ」とだけ呟いて、また机に伏せた。
わたしは次第に、彼の独特な空気感に慣れていった。昼休み、彼が図書室に居るのはいつものことになり、わたしがそこに居るのもまた、当たり前になった。図書室の窓から見える空は、日に日に秋の色を濃くしていった。
昼休みの図書室。
窓の外では、まだ夏が去るのを惜しむように蝉が鳴き、時折吹く風に、少しだけ秋の気配が混ざり始めた。残暑で空気が揺らいでいる。
角名倫太郎は、相変わらずわたしの向かいの席で机に頬杖をついている。目を閉じてはいるけれど、完全に眠っているわけではなさそうだ。時々、長い指でリズムを刻むように机を叩いている。
わたしは本を読みながら、時々ちらりと彼を盗み見る。
彼の首筋を伝う一筋の汗に、何故だか目が釘付けになる。
ここに来るようになって、もう何日目だろう。最初はただの偶然だった筈なのに、気づけば、わたしはいつもこの席に座っていて、彼もまたそこに居る。空調の風が、彼の髪を僅かに揺らす。窓越しに伝わる虫の音が、彼の存在を際立たせているかのようだ。
けれど、特別な関係というわけではない。ただ、同じ場所に居るだけ。わたし達は単なる『図書室の住人』。それだけのことだ。
わたしは開いた本のページを見つめた。
――りんたろうの思考実験。
それは、或る日突然、りんたろうという少年が世界から消えてしまう物語。周りの人々は、彼が確かにそこに居た証拠を次々と失い、記憶からも彼がゆっくりと薄れていく。まるで、最初から存在しなかったかのように。最後には、彼が本当に居たのかどうかすら曖昧になってしまう、この世界の『存在』と『記憶』についての、ちょっぴり不思議な思考実験。
わたしはふと、角名くんの存在を確かめるように顔を上げた。彼は依然として目を閉じている。睫毛の影が頬に落ち、額には薄い汗が光っていた。
「……ねぇ」
わたしが不意に声を掛けると、角名くんが緩く双眸を開いた。薄緑の瞳が一瞬霞んで見えたが、すぐに焦点が合う。
「ん?」
「もし、角名くんが消えたら……どうする?」
「え?」
彼は眉を寄せた後、緩やかに笑った。少し困惑したような、けれど興味を持ったような表情。
「消えたりんたろうみたいに?」
「そう」
角名くんは小さく欠伸をしながら、わたしの本をちらりと見た。彼の視線が、わたしの指先に一瞬止まる。
「俺は、簡単には消えないよ」
「そう?」
「うん。でも……もし俺が居なくなったら」
彼はそこで言葉を切り、少し考え込むように目を伏せた。窓の外から差し込む陽射しが、彼の横顔を照らし出す。
「……あんた、他の誰かとこうやって本読むの?」
唐突な問いだった。
わたしの胸に、小さな波紋が広がる。
わたしは瞬きする。
「どうして?」
「いや、なんとなく」
角名くんは片手で頬杖をつきながら、少しだけ不機嫌そうに口を尖らせる。その仕草に、わたしは小さく息を呑んだ。
「例えば、俺が居なくなったら、他の奴とここで話すんだろうなーとか思って」
「……嫉妬?」
「ちげーし」
彼は即答するけれど、目を合わせようとしない。耳が少し赤くなっているのは、暑さの所為だろうか。窓の外では蝉の声が一層大きくなり、彼の言葉を包み込む。
わたしはふと、本のページに視線を落とす。
――りんたろうの思考実験。
りんたろうは、本当に消えたのではなく、誰かが「要らない」と思ったから、忘れられていった。
「角名くんが居なくなったら、わたしはここに来ないよ」
そう呟くと、角名くんは少し驚いたようにこちらを見た。彼の眼差しが、一瞬だけ鋭くなる。
「……なんで?」
「わたしにとって、ここは角名くんが居る場所になったから」
彼は暫く黙っていたけれど、やがて照れたように小さく笑った。その笑顔に、わたしの胸が熱くなる。
「……そっか」
角名くんは机から手を伸ばし、わたしの持つ本に軽く指先で触れた。その指先は、バレーボールを扱うだけあって、意外に繊細だった。
「俺もここ、
苗字さんが居る場所だと思ってる」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「だから、俺も……
苗字さんが居なくなったら、ここには来ないかも」
わたしは角名くんの指先を見つめていた。彼の手が僅かに震えているのは、暑さの所為だろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。
時計の針はゆっくりと時を刻み、昼休みの終わりを告げるまで、後16分と45秒。
――そして、12:43:15。
角名くんが、ぽつりと呟く。
「
名前ちゃん」
――呼ばれた。
少し低く、けれど確かにわたしの名前を。
それは、彼の唇から初めて放たれた、わたしの名前だった。
「……どうして?」
わたしが尋ねると、角名くんは照れ隠しのように少しだけ目を逸らし、肩を竦めた。
「なんか、ちゃんと呼んどかないと……消えちゃいそうだから」
わたしは、胸の奥がきゅんと絞られるのを感じながら、思わず小さく笑った。その笑いに、角名くんも釣られるように微笑む。
「ちゃんと呼んだら、消えないの?」
「さあ、どうだろう」
角名くんは窓の外を見つめた。入道雲が浮かぶ青空に、彼の視線が吸い込まれていく。
「でも、呼ばないより、呼んだ方がいいでしょ」
「そうだね」
わたしは本を閉じ、表紙に手を置いた。
「じゃあ、わたしも呼ぶね」
角名くんは目を丸くした。
「倫くん」
その名前を口にした瞬間、わたしの胸の中で何かが弾けた。それは、これまで感じたことのない、新しい感情だった。
彼は一瞬言葉を失ったように、わたしを見つめていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「うん……」
倫くんが最初にわたしの名前を呼んだのは、12:43:15。
それは、わたしが「消えない」と約束した瞬間だったのかもしれない。
そして、わたしが彼の名前を呼んだ瞬間、彼もまた「消えない」と約束したのかもしれない。
残暑の図書室。
蝉の声と、空調の風と、本の匂いと。
そして、互いの名前を呼び合った、あの瞬間の記憶。
それは、これからの季節が変わっても、決して消えることのない、わたし達だけの12:43:15の約束だった。