19:57:09、君に触れた瞬間 | 触れたかった、君の温もり。
冬の夜風が静かに吹き抜ける帰り道。
昼間よりもずっと冷え込んだ空気の中、わたしと倫くんは並んで歩いていた。
空は既に闇に包まれ、外灯の明かりだけがわたし達の輪郭を浮かび上がらせている。木々の影が長く伸び、黒いレースのように足元を覆う。
何度目になるかもわからない、部活帰りの帰路。
手袋をした指先が僅かに震え、耳朶が冷たさに赤く染まる。隣を歩く倫くんのリズミカルな足音が、静寂を心地よく切り裂いていく。
稲荷崎高校に転入してから、いつの間にかこうして一緒に帰るのが当たり前になっていた。最初は単なる偶然だった筈なのに、気づけば毎日のように互いの姿を探し、一緒に分岐点までの道を歩いている。不思議なものだ。
「今日は随分冷えるね」
吐いた息が白く染まるのを見ながら呟くと、倫くんはポケットに手を突っ込んだまま、何でもないような声で答えた。彼の横顔が外灯に照らされ、シャープな輪郭が浮かび上がる。
「そうだね。冬だから」
「冬だから、か……」
何気ない会話が、ただ心地よかった。
その平凡な言葉の交換に、わたしは温かさを感じる。冷たい外気の中で、それだけが頼りになる熱源のように思えた。
倫くんは無駄に饒舌なタイプではないし、わたしも必要以上の言葉を交わすのが得意ではない。高校生らしい会話のテンポや流行りの話題に乗れなくて、時々自分を責めたりもする。けれど、倫くんと居る時は、そんな心配が不思議と薄れていく。
だから、この沈黙は嫌じゃなかった。二人の間に流れる静けさは、寧ろ落ち着くものだった。言葉で埋めなくても、ただ隣を歩くだけで充分に意味のある時間。
「今日の練習はどうだった?」
踝まで積もった雪を踏み締めながら尋ねる。彼の隣で歩く位置が、いつの間にか自分の居場所になっていた。
「んー……まあ、普通。つーか、宮侑がうるさ過ぎる。あいつ、いちいち大袈裟なんだよ」
倫くんは少し顔を顰めたが、その瞳には独特の輝きがあった。彼の言う不満は、実は愛着の裏返しなのかもしれない。
「ふぅん。確かに、賑やかな人だね」
「賑やかっていうか、騒音?」
倫くんは呆れたように肩を竦めたが、どこか楽しそうに見えた。
チームメイトへの不満を漏らしながらも、その言葉の端々に温かさが混じっている。
きっと、本当はそれほど嫌がっているわけではないのだろう。バレー部の練習を、彼なりに楽しんでいるのは間違いない。コートの上で跳躍する彼の姿を、あの日以降も見学に行ったことがある。あの時の鋭い眼差しと集中力は、今のゆったりとした態度からは想像できないものだった。
「
名前ちゃんは?」
突然の問いかけに、わたしは少し驚く。倫くんが自分から話を振ってくることは、余り多くない。
「わたし?」
「吹奏楽部の練習」
彼の視線がわたしに注がれる。その薄緑の瞳に映る自分の姿を想像して、心臓が少しだけ速く鼓動した。
「ああ……今日は、オーボエのリードを作る日だったんだ」
「リード?」
彼の眉が、僅かに上がる。その仕草に、わたしは何故か嬉しさを覚えた。興味を持ってくれている、という実感。
「簡単に言えば、オーボエの音を出す為の吹き口の部分かな。市販のものもあるけれど、自分で作ることもできるんだよ」
わたしは少し熱が入るのを自覚しながら説明した。普段は余り自分の話をしないから、こうして聞いてもらえることが新鮮に感じる。
「へぇ」
倫くんは興味深そうに目を細めた。外灯の光が彼の睫毛に反射して、小さな影を頬に落とす。
「器用なんだな」
「そうかな」
「そうだよ。俺には無理」
「やってみたこともないのに?」
「いや、やらなくてもわかる」
素直な感心の言葉に、わたしは思わず微笑んだ。くすっと笑うと、倫くんは「なんだよ」と小さく呟いた。その表情に、胸の奥で何かが弾けるような感覚。
その時だった。
「
名前ちゃん」
突然、名前を呼ばれた。
彼の声音が、夜の静けさの中で不思議な響きを持つ。
「うん?」
「ちょっと止まって」
言われるままに足を止めると、倫くんも同じように立ち止まり、わたしの方をじっと見つめた。その眼差しに、一瞬息が詰まる。
「……髪にゴミ付いてる」
そう言った、倫くんの手がゆっくりと伸びてくる。
夜風を切り裂くようでいて、緩慢な動作。時間が緩やかに流れ始めたような錯覚。
指先がわたしの髪にそっと触れる気配。
冬の冷気の中、彼の指だけがどこか温かかった。ほんの僅かに動いて、何か小さなものを摘まむ。
「取れた」
「ありがとう」
倫くんは軽く手を払って、ポケットに手を戻した。その仕草が妙に名残惜しく感じた。
「……別に」
そう言いながらも、彼は微かに視線を逸らしていた。頬が僅かに赤みを帯びている。寒さの所為だろうか、それとも別の理由があるのだろうか。
そのまま、また歩き出す。
雪を踏む音だけが、静かな夜の中に響く。
そう思ったのに。
何かが変わる予感が、空気中に漂っていた。
倫くんの手が、ふと何かを確かめるように、わたしの髪へと戻ってきた。
指先が触れるか触れないかの距離で宙を彷徨う、戸惑いと躊躇いと決意が入り混じった、不思議な動き。
「倫くん?」
驚いて名前を呼ぶと、彼は少しだけ眉を寄せた。その表情には、いつもとは違う緊張感があった。
「……なんかさ」
掠れた声。
息が白く染まり、言葉と一緒に宙に舞う。
「こうすると落ち着く」
倫くんの手指が、わたしの髪をゆっくりと梳いた。一本一本の髪が、彼の指に絡まるのを感じる。
――頭を撫でられている。
「……」
時間が止まったかのような静寂。
二人の呼吸だけが、冬の夜に溶け込んでいく。
「今まで気づかなかったけど……俺、多分、ずっとこうしたかったんだと思う」
彼の声は、普段よりも低く、少し震えていた。その告白めいた言葉に、わたしの心拍数が上がる。
「……」
言葉が出てこない。頭の中が真っ白になり、ただ彼の存在だけを感じていた。
「頭撫でたり、もっと触れたり、そういうの」
そう言いながら、倫くんは小さく笑った。その笑顔に隠された緊張が、彼の本心を物語っている。
「気づくの、遅かったかな」
彼の問いかけは、自分自身に向けられたものなのか、それともわたしに向けられたものなのか。
わたしは、彼の手の温もりを感じながら、そっと瞼を閉じた。
外灯の光が、閉じた瞼の向こうでぼんやりと揺れる。
「ううん、わたしもずっと……」
自分の声が、思った以上に小さく震えていることに気づく。
「触れられたかった」
勇気を出して続けた言葉に、彼の手の動きが一瞬止まった。
その後、より優しく、より確かに、わたしの髪を撫でる。
雪が静かに降り始め、二人の肩に小さな結晶が舞い降りる。
それでも、二人の間に生まれた温もりは、冬の寒さを忘れさせる程だった。
そうして、それぞれの家路に就く。
倫くんは寮へ、わたしはマンションへと向かう。
振り返ると、倫くんがまだこちらを見ていた。
わたしも彼を見つめ返す。
雪が静かに降り頻り、二人の間に白いヴェールを掛けた。
――倫くんが初めてわたしの頭を撫でたのが、19:57:09。
腕時計の細い針が刻む時間。
それは、わたし達が"こうしたかった"とやっと気づいた瞬間だったのかもしれない。
言葉にはならない感情が、冬の夜空に広がっていく。
倫くんの手の温もりだけが、この世界で唯一の確かなものに思えた。