18:22:38、恋の始まり

 夏の終わりが近づく午後、蝉の声が遠くで響く。  澄み切った青空の下、稲荷崎高校の校門を出た角名倫太郎は、スマートフォンの画面を見つめて首を傾げた。 「……なんだ、この数字」  そこに表示されていたのは、名前からのメッセージだった。 ―― 18:22:38  数字だけ。  他に何の説明もなく、淡々と並べられた六つの数字。  彼女が、何か意図があって送ってきたことは分かる。  分かるけれど、意味が分からない。  角名はスマホを回しながら思案した。  時計の時間か? それとも座標か? 暗号か?  名前は時折、思考の飛躍をすることがある。  彼女は周囲の人間とは、少し違う時間軸で生きている。  けれど、だからこそ惹かれるのだと、角名は思っていた。 (……分からねぇ)  分からない時は、直接訊くに限る。  角名はスマホを持ち直し、メッセージを送った。 ―― なんの数字?  返事は直ぐに来た。 ―― ヒント、欲しい?  ヒントがないと解ける気がしない。 ―― いる  送信すると、暫くして、また数字が届いた。 ―― 185.7 (……身長?)  何かが繋がりそうで、まだ繋がらない。  角名は額に手を当て、考え込む。  すると、不意に後ろから影が伸びた。 「倫くん」  晴れた空気のように透明な声が、耳を擽る。  振り返ると、髪を揺らしながら、名前が立っていた。  風に戦ぐスカート。  透き通るような白い肌。  夜の海を連想させる、暗い双眸。  美しい。  ただ、彼女を見る度に思春期特有の現象が起きるのは、どうにかしてほしい。 「答えは分かった?」  名前は首を傾げ、好奇心に満ちた表情で尋ねた。 「……いや、まだ」  角名は少し困ったように頭を掻く。  名前は微笑むと、スマホを指差した。 「18:22:38は、時間」 「時間?」 「うん。……わたしが初めて倫くんを好きになった時の、時計の数字」  角名は息を呑んだ。頬が熱くなるのを感じる。 「マジ?」  角名は信じられないと云う表情で尋ねた。 「うん」  名前はとても自然に答えた。まるで天気の話をするように。  淡々と紡がれる声に、妙に胸がざわつく。 「稲荷崎に転入してきて、初めて倫くんを意識した時の時計の数字。……だから、この時間を見ると、いつも心が温かくなる」  名前は目を細める。  その表情が、どうしようもなく愛しい。  思春期特有の現象が悪化した。  バレないように一歩距離を取りつつ、話を続ける。 「じゃあ、185.7は?」  角名は他の方向を見ながら訊いた。 「倫くんの身長」  名前は柔らかく答えた。  やっぱりそうか。 「……なんで、俺の身長?」  角名は首を傾げる。 「ふふ、だって、倫くんが、わたしの好きな数字だから」  名前は何でもないことのように言った。  角名倫太郎の185.7cmと云う数字が、彼女にとっては特別な意味を持つらしい。  それが妙に嬉しくて、しかし、同時に恥ずかしくて、角名は口許を隠した。 「……変わったヤツ」  角名はそう呟いたが、声には優しさが滲んでいた。 「よく言われるよ」  名前は笑った。その笑顔は、夏の終わりの空のように澄んでいた。 「……好きだよ」  気づけば、言葉が零れていた。  すると、名前がじっと角名を見つめる。時が止まったような静けさが、二人を包む。 「……わたしも」  その目が心を撃ち抜く。  体温が上がる。  名前が一歩近づく度、鼓動が速くなる。  どうしようもないくらい、好きだった。  ―― 18:22:38  その時間が、彼女にとって特別なら。  きっと、彼にとっても特別な時間になるのだろう。  角名倫太郎はスマホを仕舞い、名前の手を取った。その手は小さく、繊細だった。 「……今から、デートしようよ」  角名は少し照れ臭そうに提案した。 「うん」  名前の答えは、いつもと同じように簡潔だった。けれど、その瞳は普段より輝いていた。  彼女の手は驚く程、ひんやりとしている。  夏の終わりの風が、二人の間をすり抜けていった。  帰り道の通りには、夕暮れの光が差し込み始めていた。二人が歩く影は長く伸び、やがて一つに重なっていく。名前は時折、スマホの時計を見ては静かに微笑んでいた。彼女にとって、時間と云う概念は、いつも特別な意味を持つようだった。  角名は、名前の横顔を見つめながら思った。  彼女の中で時を刻む秒針の音が、今、確かに自分の心拍と同調している気がする。  ―― 18:22:38  あの瞬間から始まった二人の時間は、これからもずっと続いていくのだろう。



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