18:22:38、その続き | 時間を意識するようになった日。

 ――18:22:38  その時間が、彼女にとって特別なら。  きっと、俺にとっても特別な時間になるのだろう。  そんなことを考えながら、角名倫太郎はスマホをポケットにしまい、名前の手をそっと取った。彼女の手は相変わらずひんやりとしていて、繊細で、指の骨格すら感じる程に華奢だった。白い肌に青い血管が透けて見える、まるで磁器細工のような手。 「……今から、デートしようよ」  少し照れくさそうに提案すると、名前はふわりと瞬きをして、それから僅かに口元を緩めた。瞳の奥で、小さな星が瞬いたような気がした。 「うん」  名前の返事はいつも簡潔だ。  けれど、その瞳が普段よりも柔らかく輝いているのが分かる。冬の太陽のような、温かさと儚さが同居した輝き。  気づけば、彼女はスマホを開いて時計を見ていた。  その指先が、スクリーンを軽くなぞる。画面の光が彼女の顔を青白く照らし出す。 「……ねぇ、倫くん」 「ん?」  名前は画面を見つめたまま、小さく笑った。その笑顔には、何かを企んでいるような、でも悪意の無い、不思議な影があった。 「18:22:38、今日のこの時間になったら、好きって言ってくれる?」  その一言に、胸が妙に騒ぐ。  口の中が乾いたような感覚。息が少しだけ詰まる。  心臓が一拍分、リズムを失った。  ――そういうことを、余りにも自然に言う。  揶揄いでもなく、冗談でもなく、ただ静かに確信を持って。  名前は時々、こうやって予想外の言葉を投げてくる。  そして、その度に俺の心は不規則な動きをするのだ。まるで彼女に魔法を掛けられたかのように。 「……まぁ、別にいいけど」  素っ気なく答えたつもりだった。  でも、自分の耳にもわかるくらい声が上擦っていた気がする。耳朶まで熱くなるのを感じた。  名前はクスリと微笑むと、手を軽く握り返してきた。その温もりが、冷たい彼女の手にはない、別の種類の熱を伝えてくる。 「楽しみ」  期待に満ちた声音。  名前のそういうところが、どうしようもなく愛しい。どうして彼女は、こんなにも簡単に俺の心を掴むのだろう。  *  駅前の小さなカフェ『ナチュラルブレンド』に入り、冷たいハニーシトラス・レモネードを頼んだ。  木の温もりを感じる内装と、仄かに漂うコーヒーの香りが、二人の間の空気を解していく。  名前は、透き通るグラスの中の氷をストローでつつきながら、「倫くんは普段、時計を意識する?」と尋ねた。氷がグラスに当たる小さな音が、心地よいリズムを刻む。 「んー……試合の時くらい?」 「それ以外は?」 「そんなに気にしてねぇかも」 「そう」  名前は軽く頷くと、窓の外に視線を向けた。  空には、薄っすらとした秋の気配が漂い始めている。風に揺れる木々の葉が、少しずつ色づき始めていた。 「わたしはね、時間をよく憶えているの」 「時間を?」 「うん。例えば、倫くんが最初にわたしの名前を呼んだのは、12:43:15」 「……マジで?」 「うん。それから、初めてわたしの頭を撫でたのが、19:57:09」 「……お前、怖ぇよ」  驚いたように呟くと、名前は小さく笑った。その笑い声は、風鈴のように澄んでいて、カフェの空気にすっと溶け込んでいく。 「憶えたくて憶えているわけじゃないよ。気づいたら、そうなっているだけ」  名前の声は穏やかで、どこか遠くの風景を見ているようだった。瞳の奥に、言葉にならない想いが揺れている。 「倫くんとの時間は、全部大事だから」  ――なんなんだろう、この子は。  俺の心臓を狙い撃ちにする才能でもあるのか。  ストローを咥えて誤魔化しながら、名前の言葉を頭の中で何度も反芻する。頬を伝う汗が、緊張の証だった。 ("全部大事"、ね……)  言われた側としては、どうしようもなく意識してしまう。  そういうことを、名前は分かって言ってるのか、ただ無邪気に言っているのか。  どちらにせよ、心臓に悪い。鼓動が速くなるのを抑えられない。 「ねぇ、倫くん」  不意に、彼女が身を乗り出してきた。その仕草に、店内の光が名前の髪を輝かせる。 「ん?」 「18:22:38まで、後5分」  スマホを見せられる。そこに表示された時刻は18:17。数字が刻一刻と変わっていくのを、二人で見つめる。 「カウントダウン、する?」 「しないよ」  即答すると、名前は肩を竦めた。その仕草には、少し残念そうな雰囲気が漂う。 「そう。でも、ちゃんと約束は守ってね」  そう言って、彼女はまたグラスの氷をつつく。  何気ない仕草なのに、何故か目が離せなかった。氷と指と、かすかに濡れた唇。それらが一つの絵になって、胸に刻まれていく。  *  時間は、思っているよりも早く流れる。  会話をしている間に、18:21になっていた。窓の外の光が、徐々に黄金色に変わっていく。  名前はスマホの画面をちらちら見ながら、ゆっくりとレモネードを飲んでいる。  角名は腕時計をちらりと見て、気持ちを整えた。呼吸を落ち着け、心の準備をする。 「……そろそろ?」  名前が、期待するように顔を上げる。瞳に宿る願望が、まるで子供のように純粋で、抗い難い力を持っていた。 (……ったく)  そういう顔をされると、もう逃げられない。覚悟を決めて、時計を見る。  時計の秒針が、38の数字を指した瞬間―― 「好き」  短く、確かに言った。声には、思っていた以上の感情が滲んでいた。  名前は目を瞬かせ、ふわりと笑った。その笑顔は、これまで見たどの表情よりも輝いていて、まるで光そのものだった。 「うん、わたしも」  18:22:38。  またこの時間が、特別なものになった。二人だけの、秘密の時間。  名前がそっとスマホを閉じる。  その仕草が、まるで宝物をしまうように慎重だった。その瞬間、カフェの空気が少しだけ煌めいたように感じた。  角名は、氷が溶けかけたグラスの中を見つめながら思う。それは、彼の心のように、徐々に蕩けていくものだった。 (……今度は、俺がこの時間を意識するようになるんだろうな)  時計は、彼女の中で特別な意味を持つ。  でも、きっと俺も、今日からそうなるのかもしれない。  ――18:22:38  この数字を、俺はもう忘れられない気がした。それは彼女との約束の証であり、二人だけの魔法の呪文のようでもあった。



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