箱の説明書きが教えてくれた | Title:メールの着信
マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。いつもの無機質な箱の中も、今日は何だかキラキラして見えるから不思議だ。
名前ちゃんの部屋のドアの前まで来ると、彼女は慣れた手つきで鍵を開けた。
「どうぞ、倫くん」
「ん。お邪魔します」
ふわりと漂う、甘くて優しい生活の匂い。この匂いを嗅ぐと、いつもホッとする。リビングに通されると、
名前ちゃんは「ちょっと待っていてね」とキッチンへ向かった。程なくして、食欲をそそる良い匂いが漂い始める。
さっき「和食にするね」と言っていた通り、手際よく準備が進んでいるようだ。俺はソファに腰を下ろし、なんとなく落ち着かない気分でその様子を眺めていた。
やがて、テーブルの上には完璧な和食膳が並べられた。焼き鯖に出汁巻き卵、ほうれん草のお浸し、そして具沢山の味噌汁。白いご飯が湯気を立てている。
「わ、美味そう。短時間でこんなに作れるなんて、
名前ちゃん、凄いな」
俺が感嘆の声を上げると、
名前ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「倫くんがお腹を空かせていると思ったから、頑張った」
二人で向かい合って座り、「頂きます」と手を合わせる。
名前ちゃんは白い小さな手で箸を器用に操り、焼き鯖の骨を丁寧に取り始めた。その手元を、俺は何故か息を殺して見守っていた。自分の箸は止まったまま。焼き魚の香ばしさより、彼女の指の白さの方が脳に刻み込まれてしまう。細い指が、身と骨を的確に分けていく。
「ん。骨、もうないよ」
そう言って、小骨まで綺麗に取り除かれた焼き鯖の身を、
名前ちゃんは俺の皿の上にそっと載せた。
なにそれ。お母さんか。いや、でもちょっと嬉しい。と言うか、かなり嬉しい。
「ありがと。……すご。あれ、どうやって綺麗に分けてんの?」
「勘だよ。倫くんの口の中に刺さらないといいな」
名前ちゃんがふっと笑って、味噌汁を飲んだ。笑ってるけど、目は少し眠たそうで、でもいつもより機嫌が良さそう。もしかして、今日の味噌汁が成功だったとか? 出汁の味、俺はよくわかんなかったけど、兎に角、美味いのは確かだ。
名前ちゃんの家のリビングは静かな水族館みたいに落ち着いてて、時間が止まっているみたいだ。壁に掛けられたアンティーク調の時計の針だけが、カチ、コチ、とゆっくりと音を立てて進んでる。
それにしても、だ。
アレ。リビングのローテーブルに、さっきのビニール袋から無造作に出されて転がってる、あれ。
……新品のコンドーム。
俺が選んだ、一番シンプルで普通っぽいデザインの箱。何種類かセットになってるらしく、銀色の個包装が数個、箱の中に並んでいる。そして、パッケージには説明書き。
「……」
思わず味噌汁を啜る音が止まる。さっきまでの和やかな空気が、一瞬で別のものに塗り替わるような、そんな予感。
咄嗟に顔を逸らした視線の先で、ぴろん、とテーブルの上に置かれた、
名前ちゃんのスマホが短く震えた。通知画面が表示されてて、名前は……【
兄貴兄さん】。
やば。
「……返信しないの?」
俺が小声で尋ねると、
名前ちゃんは味噌汁のお椀を置き、事もなげに言った。
「うん。いいの。兄さんは、多分、どこかの街角で"コンドームに感情はあるのか"とか、そういう新しい物語の構想を練っている」
「……」
そうかも。
いや、そうかもじゃない。
絶対そう。
兄貴さんなら、有り得る。
名前ちゃんは、ふぅ、と小さく息をつくと、ローテーブルの方へ視線を移した。そして、悪戯っぽく目を細めて、俺を見た。
その瞳が、やけに意地悪だと思った。
「倫くん」
「……うん」
「あれ、読んでくれない?」
指差したのは、例の箱。
「……説明書きを?」
「うん」
また目を細めて笑ってる。その笑みが、俺の心臓を妙な具合に締め付ける。
いやいやいや、待って。今の「あれ」って、コンドームの箱の説明書きだよな?
でも、この微妙な空気。絶妙な距離感。後ちょっとで届く、けど、届かない場所。そういう、なんとも言えない雰囲気がこの部屋を満たしている。
「……なんで、俺?」
「倫くんの声で、読んでほしいなって思った」
言いながら、彼女は椅子に座り直し、白いワンピースの裾を軽く整える。その拍子に、艶やかな髪が片方の肩にさらりと流れ、白い首筋が露わになった。
……なんか、今日の
名前ちゃん、妙に可愛い。
いや、いつも可愛いけど。なんか、今日、破壊力が強い。色々と。
「……じゃ、読むね」
観念して、俺は立ち上がり、ローテーブルの前に屈んで箱を手に取った。なるべく無表情で。説明書きを読む時に表情が付いたら、絶対おかしい。それは分かってる。
「えっと、『この製品は、避妊及び性感染症予防の目的で使用されるラテックス製品です』……」
読みながら、チラッと彼女を見たら――
見てる。めっちゃ真剣に、俺の顔、見てる。夜の海の色をした瞳が、俺の一挙手一投足を見逃すまいと、じっと注がれている。
「使用前には、パッケージに損傷がないか確認してくださぃ……」
俺の声が微妙に裏返った。
名前ちゃん、小さく頷いている。勉強中? それとも、俺の羞恥を楽しんでる? どっちだ。
「開封後は直ぐに使用してください……」
「うん……」
なんかさっきから、
名前ちゃんの相槌がやけに色っぽいんだけど……どういうこと。吐息混じりと言うか、なんと言うか。
「挿入の前に、先端の空気を抜きながら……」
「……ふぅん」
無理。これ、無理。
俺の脳のCPUが完全に処理落ちしてる。だって、耳が赤い。俺の。自覚ある。熱を持ってるのが分かる。後、多分、喉仏の動きがバレてる。ゴクリ、とか鳴ってないか、それだけが心配だ。
読まされてるって言うか、煽られてる。確実に。
「……って言うか、これ、今読む必要ある?」
耐え切れずに、殆ど懇願するように聞くと、
名前ちゃんはくすっと鈴を転がすような声で笑って、小首を傾けた。
「わたし、説明書は読む派だから」
「……そうだね。うん。慎重で宜しい」
俺は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「でも、倫くんが読むと、なんだか……不思議」
「不思議?」
「ちょっと、ドキドキする」
その一言で、俺はマジでリビングの床に溶けて消えたくなった。
火照った耳を隠すように無意識に頭を掻くと、
名前ちゃんがそっと手を伸ばしてきた。俺の指先に、自分の細くて冷たい指先をそっと重ねる。
「わたし、倫くんと、ちゃんとそういう話もしたかったの」
真剣な眼差し。さっきまでの悪戯っぽい光は消えて、只管に純粋な光がそこにはあった。
「うん……」
「初めて、だし。ちゃんと向き合って、大事にしたいから」
凄いなって思った。
この子は、俺がどんだけドギマギして、平静を装うのに必死になっていても、ちゃんと真正面から愛情の話をしてくれる。逃げずに、誤魔化さずに。
「……うん。俺も、そう思ってる」
素直な言葉が口から零れた。
「うん」
名前ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「……でも、説明書きは、今度読もう? な?」
俺が再び懇願すると、
名前ちゃんは少し考えてから、悪戯っぽく唇の端を上げた。
「ふぅん。じゃあ、次はわたしが音読する?」
「……勘弁してください」
本気で土下座しそうになった。
その時だった。
テーブルの上。今度は俺のスマホが、ぶるぶると震えた。
表示された名前は【
兄貴さん】。
……え、なんで、俺に?
恐る恐るメッセージを開いた俺は、冒頭の一文に目を剥いた。
【俺の妹に手を出す気か】
……。
これは予知能力者からのメールですか?
思わず噴き出しそうになるのを必死で堪える。
そして、次の瞬間、
名前ちゃんが隣で静かに、でも、確かに肩を震わせて笑った。
その瞳は、今日もまた――少し意地悪な光を湛えて、キラキラと輝いていた。