空飛ぶ倫太郎の哲学
∟猫撫で声に抗えない俺は、今日もラグの上で尊厳を溶かされる。
登場人物のデフォルメ、性的なニュアンスが含まれます。
俺、角名倫太郎は、基本的に省エネで生きていたいタイプの人間だ。練習中のロードワークでは近道を探すし、双子の喧しいやり取りは真顔で処理する。感情の起伏は少ない方だと自負しているし、大抵のことは「まあ、そう云う日もあるよね」で済ませてきた。
そう、彼女、
苗字名前に出逢うまでは。
「ねぇ、倫くん……?」
日曜日、部活終わりの気怠さが残る身体で、ジャージのまま押し掛けた
名前の家。その広くて静かな部屋のラグに寝転がり、スマホを弄っていた俺の耳に、すぐ近くから甘ったるい声が届いた。声の主は、クッションに座って分厚い本を読んでいた筈の恋人だ。
思わず、スマホの画面から顔を上げる。そこには、少し離れた場所に居た筈の
名前が、間近に迫っていた。いつもは静かな水面のような彼女の瞳が、今は心成しか潤んで揺れているように見える。そのどこか熱を帯びた視線に射抜かれて、無意識に息を呑んだ。
何かが違う。決定的に。
「……なに、
名前ちゃん」
平静を装って返事をする。心臓が全力疾走後のように弾んだ。なんだ、今の声。普段の彼女は透き通るような、凛とした声で「倫くん」と、俺を呼ぶ。さっきの、語尾が蕩けるように伸びた、蜂蜜を煮詰めて煮詰めて、更にキャラメリゼしたみたいな甘い声は一体、なんだ。
「あのね、お願いがあるのだけれど……」
名前は読んでいた本をぱたりと閉じると、四つん這いの体勢でにじり寄ってきた。まるで小動物のような動きに、俺の喉がひゅっと鳴る。やめろ、そんな無防備な格好。面積の少ない下着を好む彼女の、服の下にあるものを想像してしまって、思春期特有の現象が鎌首を擡げる。落ち着け、俺の倫太郎。まだ昼だ。
「聞いて、くれるかなぁ……?」
トドメだった。上目遣い。潤んだ瞳。俺のTシャツの裾を、白く繊細な指が、きゅ、と掴んだ。
(アチャ……)
脳内で、思わず諦観が飛び出す。これはダメだ。絶対に断れないヤツ。北さんの正論パンチと同じくらい、いや、或る意味、それ以上に抗えない強制力がある。なんだ、この生き物は。可愛い。可愛過ぎる。無理。
「……ん。イイヨ」
俺の口から出た声は、自分でも驚く程に低く、掠れていた。平静を装うのに全神経を使い果たし、表情筋が仕事をしているかどうかも怪しい。多分、めちゃくちゃ締まりのない顔になってる。
(うわ。マジでヤバい……俺、今、どんな顔してんだろ)
名前は俺の返事を聞くと、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔に、俺の理性の防壁はガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「ありがとう。じゃあね、わたしの代わりに、あの棚の一番上にある写真立てを取ってくれないかな。ちょっと、見たくなって」
お願いの内容は、拍子抜けする程に些細なことだった。立ち上がれば、すぐに手が届く、本棚の上の写真立て。中に入っているのは、この前、二人で水族館に行った時の写真だ。
「……それくらい、自分で取ればいいじゃん」
口から出たのは、我ながら可愛げのない言葉だった。でも、そうでも言わないと、このまま彼女の可愛さに呑み込まれ、溶かされて、再起不能になりそうだった。
すると、
名前はTシャツの裾を掴んだまま、僅かに首を傾けた。
「駄目……かなぁ?」
駄目じゃない。ダメなワケがない。寧ろ、俺に取らせてください、お願いします。
心の中で猛烈な勢いで土下座しながら、俺は無言でラグから起き上がった。心臓は煩いし、顔は熱いし、多分、耳まで真っ赤だ。
名前に背を向けているのが、唯一の救いだった。
「……ほら」
写真立てを取って、ぶっきら棒に渡すと、
名前は「わぁ、ありがとう、倫くん」と嬉しそうにそれを受け取った。その声はもう、いつもの凛とした響きに戻っている。
なんだ、今の。期間限定のイベントか何か?
俺は再びラグにごろりと横になり、顔を隠すようにスマホを構えた。画面には何も映っていない。ただ、さっきの「ねぇ、倫くん……?」と云う猫撫で声が、脳内で無限リピートされていた。
(ひぃ~……)
あれは反則だろ。間違いなく。
今度、双子のどっちかがやらかした時に「まあ、そう云う日もあるよね……。ドンマイ」って言ってやる代わりに、あんな猫撫で声で何かお願いしてみようか。いや、想像しただけで鳥肌が立つ。逆に、侑が「倫くぅん
」とか言ってきたら、多分、俺は真顔でブロックする。鉄壁のブロックだ。
そんな益体もないことを考えている内に、俺の意識は気怠い午後の眠りへと沈んでいった。
名前の破壊力抜群の猫撫で声をエンドレスで再生しながら。

そして、俺は夢を見た。とんでもなく奇妙で、支離滅裂な夢を。
気づくと、俺は稲荷崎高校の体育館に立っていた。いつも汗と熱気が渦巻いている、見慣れた場所。だが、何かがおかしい。ボールが床に弾む音も、シューズが擦れる音も、侑の喧しい声も聞こえない。しん、と静まり返っている。
すぐに、俺は察した。体育館が逆様になっていることを。
上にある筈の照明が足元で光り、俺が立っている床は、本来、天井である筈の鉄骨だった。そして、実際は床板が張られている筈の場所……つまり、俺の頭上には、何故か水がなみなみと張られていた。体育館が丸ごと、巨大な水槽と化している。
「……は?」
思わず声が出た。見上げると、青白く揺らめく水の中を、何かがゆらりゆらりと泳いでいる。魚だ。フナやコイのような、淡水魚。
(……なんで、体育館に魚?)
しかし、次の瞬間、俺はもっとおかしなことに気づいて凍り付いた。その魚達、全部に"お面"が付いていたのだ。稲荷崎バレー部のメンバーの。
治の無表情な顔をしたフナが、俺の目の前をすーっと横切っていく。侑の顔をしたピラニアもどきが、仲間と威嚇し合っている。銀島の顔をしたナマズが、底の方でじっとしている。まるで人面魚だ。
(ホラーかよ、怖)
余りの光景に立ち尽くしていると、背後から「オッホホ」と、俺の笑い方を真似た声が聞こえた。振り返るまでもない。アランくんだ。アランくんの顔をしたアロワナが、優雅にヒレを揺らしている。
(いや、笑い事じゃないでしょ、この状況)
俺が内心でツッコミを入れていると、不意に足元がぐにゃりと歪んだ。見れば、俺が立っている鉄骨の周りも水浸しで、そこにも人面魚もどきがうじゃうじゃと泳いでいる。どうやら、そいつらに足を取られたらしい。
「うわっ」
バランスを崩しながらも、なんとか踏み止まる。一体、どこへ向かえばいいんだ。途方に暮れていると、体育館の隅にある用具庫の扉が、ぼうっと光を放っているのが見えた。その扉には、マジックで殴り書きしたような文字。
『フィンランド』
(は? フィンランド?)
なんで? 体育館から、フィンランドに行けるようになってんの? しかも、なんで用具庫から? 疑問は尽きないが、ここに長居はしたくない。俺は治の顔をしたフナに絡まれながらも、必死にその扉を目指した。
「暑……」
やっとの思いで扉を開けると、中はむわりとした熱気に満ちていた。サウナだ。木の壁に囲まれた狭い空間。その中央には、俺の好物であるチューペットが、後光が差さんばかりの勢いで祀られていた。しかも、ご丁寧に『フィンランド』と書かれた札付きで。
(……安直過ぎない? フィンランドはサウナが有名だからって……)
呆れていると、サウナの隅に置かれた観葉植物の鉢が、ガサガサと揺れた。なんだと思って目を向けると、その植物が口を開いた。いや、葉っぱがわさわさ動いて、声がした。
「角名! 遅いわ! はよせぇや!」
(出たよ……)
聞き慣れた、関西弁で喋る声。宮侑だ。侑の声で喋る植物。もう驚きもしない。
「俺の光合成を助ける気ぃ、あるんか!」
(知るかよ。そもそも、お前、植物なんだから、自分で光合成しろよ)
俺が冷めた目で見つめていると、ふと、自分の手が何かを持っていることに気づいた。一冊の本だ。表紙には、チベットスナギツネに似た表情の俺の顔写真と共に、こう書かれていた。
『空飛ぶ倫太郎の哲学』
(……なにこれ。誰が出したんだよ、こんな本)
すると、侑ボイスの植物が葉っぱをわさわさと揺らして催促する。
「はよ! その本をこっちに渡さんかい! それがないと、俺は次のステージに進めんのや!」
意味は全く分からないが、言われた通りにするしかなさそうだ。俺は『空飛ぶ倫太郎の哲学』を、その植物の根元にそっと置いた。
その瞬間だった。
サウナの中に、キラキラとした光の粒子が舞い始めた。そして、目の前のチューペットが眩い閃光を放ったかと思うと、その中から、小さな人影が現れた。
妖精だ。羽が生えていて、大きさは手の平サイズ。
そして、その顔は。
(……なんか意外! 北さんて、もっと機械みたいな人だと思ってたけど、妖精にもなれるんだ……)
そう、妖精のように小さな、北さんだった。寸分の狂いもない、いつもの真顔で、ふわりと空中に浮かんでいる。
小さな北さんは、きょろきょろとサウナの中を見渡すと、やがて、俺に視線を固定した。そして、静かに有無を言わせぬ圧を込めて、こう言った。
「踊る角名はどこや」
(知るかよ!)
「探しとんねん」
「……俺、踊ってねぇってば……」
「倫くん」
反論する俺の言葉を遮るように、すぐ傍から透き通った声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか、
名前がそこに立っていた。なんで?
「倫くん、踊らないの?」
「
名前ちゃんまで、何言ってんの……?」
しかし、その瞬間、どこからともなく陽気なサンバのリズムが流れ出し、俺の足が勝手にステップを刻み始めた。
「いや……待て……!」
意思に反して、腰が動き、腕が撓る。足が勝手に動く。
「わっ、なんで、俺、踊ってんの……!?」
「倫くん、楽しそうだね」
目の前で微笑む
名前。全然、楽しくない。寧ろ、羞恥心で死にそうだ。
妖精サイズの北さんは腕を組み、俺の情熱的な踊りをじっと見つめている。
「まぁまぁやな」
「なんの採点だよ!?」
やがて、音楽はフェードアウトするようにふっと止み、俺はその場にへたり込んだ。全身から力が抜ける。
「……もう無理……帰りてぇ……」
「倫くん、お疲れ様」
「
名前ちゃん、楽しんでる……?」
「うん。倫くんが踊る姿は、なかなか興味深かったよ」
「そりゃどうも……」
俺はぐったりとしたまま、溜め息をついた。
「……これ、いつになったら目が覚めるんだよ」
「さぁ……だけど、倫くんと一緒なら、ここがどこでも楽しいよ」
名前はそう言って、ふわりと微笑んだ。その笑顔だけで、カオスな状況がどうでもよくなってくるから不思議だ。
「……はぁ……」
俺は漸く笑い、
名前の髪を軽く撫でた。
――そして、次の瞬間、視界が真っ白になった。
俺は勢いよく目を開けた。
見慣れた、
名前の部屋の天井。心臓がバクバクと鳴っている。額には、じっとりと汗が滲んでいた。
なんだ、今の夢……。カオスにも程がある。
逆様の体育館、人面魚、フィンランド、侑ボイスの植物、空飛ぶ俺の哲学書、妖精北さん、そして、サンバを踊る俺。
「……疲れてんのかな、俺」
呟きながら、ゆっくりと上半身を起こす。隣で眠る
名前の、穏やかな寝息が聞こえてきた。夢の原因は、間違いなく昼間の、彼女の猫撫で声だ。あの声が、俺の脳のバグを引き起こしたに違いない。
俺はそっと、
名前の髪を撫でた。サラサラとした髪糸が、指の間を滑り落ちていく。
寝ている彼女は、ミステリアスな雰囲気はそのままに、どこか幼くて無防備だ。
(……まあ、いっか)
あんなカオスな夢を見るハメになったとしても。
この可愛過ぎる恋人が、時々見せてくれる破壊力抜群のデレ顔が見られるなら、それも悪くない。
「……ほんと、敵わないよね」
小さく笑って、俺はもう一度、
名前の隣に横になった。
次に猫撫で声でお願いされたら、今度はどんな奇妙な夢を見るんだろう。少しだけ楽しみになっている自分が居ることには、気づかない振りをした。